八話


 自室に戻るや否や、ヴィオラは着替えもせずに寝台に腰掛けると、そのまま横向きに倒れ込んだ。

 ぼんやり虚空を見つめていたが、突如、深くため息をついて顔を覆う。


 (――今日も麗しかった)


 何を隠そう、この淑女は長らくヴィルヘルムに想いを寄せている。


 二人が出会ったのは、実は一年前ではない。

 それは賢者ヴィルヘルムが勇者アリスとともに旅をしている間のこと。今から七年ほど前にさかのぼる。


 当時ヴィオラはよわい十三。貴族の娘としての振る舞いを求められはじめる年頃であった。


 彼女は内心、こんな荒廃した世の中で何が貴族だと馬鹿にしていた。

 集落をまとめる役割があるといっても、他の民たちと、力なき人間であることに変わりはない。

 それを、かつての文明社会の名残で相変わらず権威を誇示するなど、かえってみっともないことだと、そう思っていた。


 ある日、ヴィオラは父親と口論になり、家を飛び出した。


 今にして思えば些細ささいな出来事がきっかけだったのだが、自らを取り巻く環境に嫌気が差していた彼女にとってそれは決定打となり、いよいよ我慢の限界に達してしまったのだ。


 一心不乱に走り続けていたヴィオラだったが、気がつけば集落の境界を越えて、魔物が現れる区域まで来ていた。

 慌てて来た道を戻ろうとするも、いつの間にか日は傾き、しかもそこは木々が鬱蒼うっそうと生い茂る森の中とあり、まったく帰途がわからなくなってしまった。


 途方に暮れてその場でうずくまった瞬間、背後から、がさ、と葉のずれる音がする。

 とっさに振り返ると、鈍色にびいろに光る双眸そうぼうと視線がぶつかった。


 少女は、ひゅ、と息を呑んだ。――魔物だ。


 恐怖と絶望にヴィオラの背筋が凍りつく。


 身を強張らせて震えることしかできないでいる彼女に向かって魔物はゆっくりと近づいてきた。

 くさむらから姿を現したそれは、狼のような姿をしている。

 魔物は、ヴィオラを舐めるように見つめると、突如、ぐわ、と牙を剥いた。


 (――もうだめだ)


 少女は、ぎゅ、と目を瞑った。――そのときだった。


 笛の音のような涼やかな音が響き渡る。

 何事かとヴィオラが目を開けると、青白い閃光が魔物めがけてほとばしった。

 それは魔物を包みこんで大きな光の球となると中心に向かって収束し、突如、花火のように弾けた。

 光の粒が、淡い残像を残しながらきらきらと煌めく。


 その光景に、ヴィオラは目を奪われた。


 (きれい――)


 ぼうっと見惚れていると、背後から


 「怪我はない?」


 と、声がする。


 少女が振り返ると、そこには耳許みみもとあたりできれいに切り揃えられた艷やかな黒髪をそなえた、赤琥珀レッドアンバーの瞳の青年が立っていた。

 すらりと長い手足を黒い装束に包んでいるが、そこからのぞく肌は抜けるように白く、陶器のように滑らかだった。

 その小さな顔に収まった、形の良い唇が、柔らかに笑みを湛えている。

 少し下がった目尻がなんとも言えず艷やかで、ヴィオラは思わず目をみはった。


 (――なんて綺麗なひと)


 突然魔物に遭遇し、その窮地を救われ、助けてくれた人物を振り返ると美青年が立っていたものだから、少女はまったく展開に追いつけず言葉を失ってしまった。


 ヴィオラが瞠目どうもくしたまま固まっているので、恐怖のあまり口が利けないのだと思ったのか、青年は膝をついて目線を彼女に合わせると、そっとその頭を撫でた。


 「怖かったね。でももう大丈夫。この辺りの魔物はみんなやっつけたから。――僕の連れが」


 そう言うと、彼は恥ずかしそうに頬を掻く。


 「僕はあんまり荒事は得意じゃないんだ。でも、なんとか君のことは助けられてよかった」


 そして優しくヴィオラの手を取る。


 「家まで送ろう。もう一人でこんなところまで来てはいけないよ」


 艷やかな提琴のような美しい声と、青年特有の少し骨ばった長い指の感触に、ヴィオラの胸は激しく脈打った。


 何か言わなくてはと思うのに、考えようにも思考がまとまらず、声が出せない。

 ぱくぱくと口を開閉している彼女を見て、やはり恐怖のあまり口が利けないと思ったのか、青年は優しく微笑む。


 「無理に話さなくていいよ。――名乗るのが遅れたね。僕はヴィルヘルム。この辺りを旅しているんだ」


 (――ヴィルヘルム様)


 その響きを反芻すると、少女の胸は一層高鳴った。


 帰りの道中のことは、正直記憶が曖昧だ。

 だが去り際にヴィルヘルムが見せた優しい笑顔が忘れられず、ヴィオラはずっとその恋心を胸に秘めてきた。


 時を経て、彼女はその正体が救世の賢者であったことを知る。


 そして六年の後、ヴィルヘルムを見つけるに至ったヴィオラであるが、そもそも彼を探し回っていたのは、あの時の礼を言いたかったのと、もう一度彼の姿を見たかったというのが理由であった。

 なのに、いざその屋敷を訪ねてみれば部屋の中は酷い有様で、本人は瀕死の状態で倒れているではないか。


 ぼろぼろのヴィルヘルムを発見したときは、胸が潰れるかと思った。


 今でも、こうして彼が元気を取り戻して生きていてくれることが奇跡のように感じる。

 とはいえ、あの頃は必死だったのであまり意識していなかったが、今思えば意中の人物と毎日顔を突き合わせていて、よく精神が持ったものである。

 と、先だってのやりとりが脳裏をよぎってヴィオラはひとり悶えた。


 ヴィルヘルムはいつもだらしないので、今回も約束をすっぽかされそうになった怒りで頭に血が上っていたには違いないが、毛布を剥がそうと揉み合うなど、淑女にあるまじき行為であった。

 しかも、いくら親しくなったとはいえ、相手は救世の賢者である。無礼は許されない。

 などと理由を並べたところで、ヴィオラを真に悶々とさせているのは、嫁入り前の女子たる自分が、あろうことか懸想けそうする男性に馬乗りになるなどという破廉恥極まりない行為に及んでしまったことであった


 ――もうこんなの、実質そういうつもりで襲いかかったようなものではないか。


 自分を責める一方で、毛布越しに伝わるヴィルヘルムの温もりと、身体の感触を生々しく思い出してしまい、口の端から小さく悲鳴を漏らしながらヴィオラは寝台を転げ回った。

 

 はしたなさに恥じらう一方で、好きな人に触れたという多幸感も正直ある。


 ヴィオラは火照って仕方のない顔を覆った。


 一目惚れなんて淑女らしくないと、最初はその思いを否定したくなるときもあったが、結局その熱は冷めやらず、再会と、彼とともに過ごす時間を経て、より一層その想いはつのるばかりである。

 最初の印象と違って、だらしないし、結構意地悪い一面もあるが、そんなところも魅力的に映るくらいには毒されている。


 ふと、横を見ると、机の上に置いたままにしていた日記が目に入った。


 不意に、彼女は我に返る。


 (――浮かれてはだめ)


 ふわふわと浮足立っていた心が急速に冷めていくのを感じた。


 ヴィオラにはわかっている。

 彼の中に、自分はいない。彼が自分を見ることはないと。


 ――ヴィルヘルムは昔も、そして今も、アリスだけを想っているのだから。

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