三話


 ヴィルヘルムがヴィオラと出会ったのは、一年ほど前のことだった。


 魔王が眠りにつき、ヴィルヘルムの激動の日々は唐突に終わりを告げる。


 はじめこそどうしていいかわからず静まっていた人々がやがて平和に少しずつ馴染なじんでいく一方で、彼だけは訪れた静寂せいじゃくに一人、戸惑い立ち竦んだ。


 ――アリスがいなくなってしまった世界は、とても静かだった。


 眠っている彼女を置いて故郷に帰れるわけもなく、虚空を彷徨うような心地で日々を過ごしていたヴィルヘルムに唯一できたのは、アリスに宛てて手紙を書くことのみ。


 それだけが、この途方もない寂しさを埋めてくれた。


 けれど、それでも彼の心は徐々にふさいでいき、一年がつ頃には食事をることもままならず、外にも出られない状態にまでおちいってしまった。


 このまま死んでしまうのもいいかもしれない。けれど、そうなってはアリスとの約束は果たせない。


 そんなことを考えているだけで一日一日がむなしく過ぎていった。


 運命にアリスを奪われた怒りと、アリスがここにいない寂しさと、それにかまわず回っていく世の中への憎しみと、何よりままならない自分へのもどかしさで頭の中がき乱され、精神は日に日に限界へと近づいていった。


 そんなとき、彼女は現れた。


 ヴィルヘルム自身、最早自分が眠っているのか死んでしまったのかもわからないほど精神が混濁こんだくしていたある日のこと。


 長く来訪者もない彼の住まいは、荒れ果て、ほこりが積もり、空気もよどんでいた。


 衰弱すいじゃくした身体を寝台に横たえ、ヴィルヘルムは身動きもできず過ぎていく時を数える。


 朽ちていく空間に朽ちていく自身。


 いよいよ終わりを悟った瞬間、突如、視界に一筋の光が差した。


 誰か入ってきたのか、物音がする。それは段々と寝台の傍へと近づいてきた。


 朦朧もうろうとした意識の中、ぼんやりと見えた人影は姿形もよくわからない。


 けれど、どうしてか泣いていることだけはわかった。


 その様子が、りし日の親友と重なって、ヴィルヘルムはどうにかこの人に泣き止んでほしくて、必死に手を伸ばす。


 すると人影は、弱々しく痩せ細ったその手を取った。


 長らく感じることのなかった人の温もりがてのひらから伝わり、ヴィルヘルムの胸がどくんと脈打つ。


 動揺する男の様子を察したのか、人影はさらにしっかりと手を握ると、「もう大丈夫」と確かにそう言った。


 優しく鼓膜こまくを震わせるその言葉がやけに心地よくて、そして何故だかわからないが、とても報われた心地がして、ヴィルヘルムは安堵と共に訪れた微睡みの中に、ゆっくりと落ちていった。


 あのとき、彼の手を取った者こそ、他でもないヴィオラである。


 これは後からわかったことだが、とある事情――それが何かは内緒らしい――でヴィオラは救世の賢者の行方を追っていたようだ。


 彼女はようやく彼が居を構えている地域を探し当てたのだが、近隣の者たちから、近頃、賢者を見かけなくなったという噂を聞き、何故だか胸騒ぎがして必死でこの家を探し当て、瀕死ひんしのヴィルヘルムを見つけるに至ったということらしい。


 今でこそ、その気性の荒さを全面に出しているヴィオラだが、出会った当初は実に淑女しゅくじょらしい振る舞いで、献身けんしん的にヴィルヘルムの身の回りの世話をしてくれていた。


 必然的に共に過ごす時間が長くなり、はじめは話すこともままならなかった男が徐々に生気を取り戻してくると、次第に両者の間に会話が生まれてくる。


 他愛ない日常のことから、互いの考えていることについてまで、二人は様々、語り合った。


 ヴィルヘルムが話すことに、ヴィオラはその知的な水宝玉アクアマリンの瞳を輝かせて聞き入っていた。


 その様子に、しばらく忘れていた人の温もりを思い出し、男はようやっと己の命について、久々に実感したのであった。


 (僕は、生かされている)


 勇者アリスが眠っている今、魔王討伐とうばつを預かる身として、この世界を見て、記憶できるのは賢者たる自分しかいない。一度は命を落としかけたが、何の因果かこうして生きている。自分は勇者によって選ばれた存在であって、神の思惑おもわくは関係ないと思っていたが、その実、この選定はこうなることを予見していた神の采配さいはいなのかもしれないとさえ思える。――ヴィルヘルムはそんなことを考えていた。


 彼が物思いにふけっていると、ごと、と音をたてて馬車が止まった。どうやら目的地に着いたらしい。


 「寝損ねちゃったな」


 「気絶せずに済んだということは案外、馬車も快適だったということかしら?」


 気怠けだるげな顔で不満を垂れているヴィルヘルムに悪戯いたずらっぽく笑いかけると、あろうことか誰より早く馬車を降りたヴィオラは、凛々りりしく男に手を伸ばす。


 「さあ参りましょう、ヴィルヘルム様」


 「――逆なんだよね、立場が」


 淑女はエスコートされる方なんじゃないの?と、そう苦笑いして賢者ヴィルヘルムは、命の恩人の、その頼もしい手を取った。

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