一話

 

 背中にほんのりと熱を感じて、男は徐々に意識を取り戻し始める。これはおそらく日の光の温もりだろう。


 彼はどうも朝方になると窓に背を向けて眠ってしまうようだった。今日も目が覚めれば雑然とした自室が視界に入る。


 渋々、といった様子で寝台から上半身を起こすと、そのまま毛布にくるまりしばらく身動きもせず、ぼうっとしていた。


 と、次の瞬間、部屋の隅からじりじりとけたたましい音で電話機が鳴るのが聞こえてくる。男はたちまち飛び起きて、受話器を掴んだ。

 すると、「もしもし」の「も」の字に口を開くのを待たずに、相手が勢いよく話し始める。


 「ヴィルヘルム様、今何時だとお思いです!?」


 寝起きに聞くにはあまりの語気の荒さに面食らって男――ヴィルヘルムは二の句が継げず口をぱくぱくさせた。


 「ちょっと、聞いてらっしゃる!?」


 「うん、よくわからないけど落ち着いてヴィオラ」


 やっとの思いでそう返すと、ヴィルヘルムは電話のそばに置いてある時計を確認した。示された時刻を認識したところで、途端にぞっと背筋が凍っていくのを感じる。


 「――よくわからない、とはまた随分な言いようですこと」


 相手の声色はすっかり冷え切っている。


 「ごめん、違うんだ、寝起きで状況が掴めてなくて――」


 「今お目覚めになったの!?」


 電話の向こうで相手の女性が驚きの声を上げる。ヴィルヘルムはそれにぎこちなく笑った。


 それもそのはず、朝方だと思っていたら、もう夕方だった。朝日だと思ったのは西日だったというわけだ。


 ということはつまり、これまで背に浴びていたのは朝日ではなく、真昼から夕方にかけての陽光であったということか。


 そういうとここ最近、目覚めると既に昼を過ぎていたかもしれない。


 男がそんな事を考えてほうけていると、電話越しに女性――ヴィオラの声が響く。


 「とにかく、今すぐ準備なさって、こちらに向かってくださいまし!」


 そして、がちゃん! と乱暴に受話器を置く音とともに、通話が切れた。


 緩慢かんまんな動作で受話器を元に戻したヴィルヘルムは大きく息をついて、今一度部屋を見渡す。


 床には無造作に書類が積み上げられ、脱ぎ散らかした衣服が散乱している。


 机だけは唯一、聖域として守っているので書き物の道具がわずかに広げてあるに留まっていた。


 しかして全体に散らかっているには違いない。


 (――準備ね)


 寝起きでぼんやりしている上に電話を終えた解放感ですっかり脱力してしまったヴィルヘルムは、重たい身体を引き摺って寝台に戻ると再び毛布にくるまってしまった。


 急いで準備しろ、と言われるとかえってやる気ががれる。――勇者であり、親友であるアリスが眠って二年。この間に男はすっかり怠惰になってしまっていた。


 魔王がその活動を止め、それと同時に魔物も現れなくなり、世界は平和になった。


 それぞれに分かたれていた人々は再び交流を開始し、たった二年で魔王が現れる前の文明をほとんど取り戻しつつある。


 歓喜と活気に溢れた世界。十年の旅路の結末として、アリスとヴィルヘルムが望んでいたものが、そこにはあった。


 しかし、その現実を前に男の心はかえって暗くふさぐのであった。


 それは言うまでもなく、ずっと傍にいた、そして今も傍にいるはずの親友の不在が理由である。


 (――まただ)


 どうして、いつもアリスだけが犠牲にならなくてはならないのだろう。


 二十七年の人生を自分のために生きることを許されなかったどころか、さらにその後千年も人類のために備えなくてはならない。


 この平和で自由な世界を謳歌おうかしたかったのは他でもないアリスだろう。それなのに一番の功労者である彼女は、今ここにはいないのだ。


 なにより彼の心を沈ませるのは、そんな理不尽から親友を守るために傍にいたはずなのに、結局、彼女一人に全てを背負わせてしまったという後悔であった。


 そんなことを考えていたら、余計に身動きが取れなくなってきた。どうしたものかと思案していると、突如、玄関の戸が音を立てて勢いよく開く。


 ヴィルヘルムは一瞬戦慄せんりつしたが、事態を咄嗟とっさに把握して毛布にすっぽり身を包んで隠れた。


 かつかつ、と鋭い靴音が部屋に入ってくる。それは迷いなく寝台の前まで来るとぴたりと止まった。


 「そんな、お饅頭まんじゅうに化けても無駄でしてよ」


 凛とした声が響く。あまりに冷たい声色にヴィルヘルムは身体を震わせる。


 「――す、好きだろう? お饅頭」


 彼が苦し紛れにそう発すると、来訪者は毛布の表面をそっと撫でた。


 「ええ、とっても」


 先程とは打って変わってうっとりするような優しい声音でそう言ったかと思うと、声の主は力任せに毛布をぎ取りにかかった。


 「やめてヴィオラ! 破けちゃうよ!」


 「破けておしまいなさいこんな毛布! やっぱりこんなことだろうと思いましたわ! 観念してさっさと出ていらっしゃいヴィルヘルム様!」


 ヴィオラはそうまくし立てながら、抵抗するヴィルヘルムをものともせず馬乗りになって毛布を引き剥がす。


 二人はしばらく揉み合っていたが、いよいよ抵抗しきれなかったのか、中から半べそをかいたぼさぼさ頭の男が顔を出した。


 「お、おはよう」


 「何がおはようですか。今日こそちゃんと来てくださいましね、とあれほど申しましたのに!」


 そう一喝すると、腕を組んだヴィオラは、水宝玉アクアマリンの瞳を細めて不敵に笑い、ヴィルヘルムを見下ろす。


 「それとも何ですの? わたくしがお迎えに上がるのを待っていらしたとか?」


 「いや全然」


 男は首を横に振った。あまりににべもない返答に気分を害したヴィオラは途端に怒りに目をつり上げてヴィルヘルムの頬を引っ張った。


 「でしたらとっとと起きやがれですわ、このすっとこどっこい!」


 まれた部分の痛みに目を潤ませつつ、女の絶妙で珍奇な悪口に苦笑いすると、ヴィルヘルムは彼女の少し毛先に癖のある栗色の髪を軽く撫でる。


 「――じゃあ、とりあえず降りてもらえるかな。この体勢じゃ起き上がれない」


 ヴィオラは一瞬きょとん、としていたが、すぐに状況を察するとみるみるうちに顔を赤らめて、さっきまでの勢いが嘘だったかのように、か細く「失礼いたしました」と呟く。


 そしてそそくさとヴィルヘルムの上からどくと、そのまま足早に部屋の隅に移動して顔を両の手でおおって縮こまった。――怒りのあまり興奮していたとはいえ、妙齢みょうれい淑女しゅくじょたる自分があろうことか殿方にまたがってしまっていたなど、ありえない失態だ。彼女はそう、自分を恥じた。


 そんなヴィオラを尻目に、緩慢かんまんな動作で寝台から立ち上がったヴィルヘルムは大きく伸びをすると、相変わらず部屋の隅で耳まで赤くしている彼女に近づいて側にかけてあった大きなバスタオルをすっぽりと被せた。


 突然のことにヴィオラは、きゃ、と声をあげる。


 「それ被って待ってて。僕が着替えてるところ、君には目の毒だろうからね」


 「なっ――」


 バスタオル越しにも、形勢逆転とばかりににやにやと意地悪い笑みを浮かべているヴィルヘルムの様子が見えるような気がして、ヴィオラは気恥ずかしさと憤慨ふんがいで爆発しそうだった。


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