七話
「僕が『賢者』だって?」
読んでいた本から顔を上げたヴィルヘルムは突拍子もない話に
目の前の少女は神妙な面持ちで金色の長い髪を揺らし、こくり、と頷く。
二人の間を沈黙が流れた。じわじわと鳴く蝉の声が、それを際立たせるようだ。
季節は夏。それはアリスが勇者拝命の儀を受けて三月ほど経った頃のことだった。
「賢者」といえば、その名のとおり
そして勇者たるアリスは、ヴィルヘルムをその「賢者」に指名したのだ。
突然のことに動揺を隠せないヴィルヘルムだったが、緊張に強張った親友の顔を見ると、それが間違いなく冗談などではないと思い知らされ、ますます困惑した。
「アリス、早まったらいけない」
「よく考えたよ」
ヴィルヘルムが苦し紛れに発した言葉は、ぴしゃりと遮られてしまった。いよいよ逃げ場を失くした彼は眉間を摘んで唸りだす。
思った通り
「あんたは賢くて、知識も豊富で、度胸もある。適任だと思う」
「確かに僕ほどの逸材はいないだろうけど――」
「そういう図々しいところも向いてると思う」
面白可笑しくしてはぐらかそうという空気を感じたアリスはすかさず言い返して、ヴィルヘルムの言葉を封じた。
途端に表情を固くした青年は、自分を捉えて離さない
「本気なんだね」
アリスはまたもや無言で頷く。もちろん快諾してくれるとは思っていない。世界の明暗を握る重要な役割を突然課せられて悩まない人間はいないだろう。
それでも彼女は、彼に
否、本当はこの過酷な運命に大切な人を巻き込みたくはないという気持ちもあった。けれど、いくら考えても自分の背中を預けられる人間が、彼以外思いつかなかったのである。
「もし僕が断ったらどうするの?」
ヴィルヘルムは静かに尋ねた。最悪の事態が思い浮かんでアリスの呼吸は止まりそうになったが、拳を握り込んで耐え、きっぱりと答える。
「その時は一人で行く。誰にでも任せられるわけじゃないから」
アリスのあまりにも無謀な回答に青年は顔を覆った。
これは相手が善人であればあるほど、逃げ道を塞ぐ物言いだ。賢者として付いてきて欲しいと言われたのに断って、勇者が一人で旅に出て本懐を遂げられずしかも命を落としでもしたら世界が終わってしまう。
しかも大勢の人間たちから責められることを考えたら、例え善人でない計算高いだけの人間であっても避けたい事態である。
そもそも神託を無視した行動は勇者とて許されることではないだろう。
しかしてヴィルヘルムの心を最も悩ませているのは、アリスが駆け引きの意図など全く無くそんなことを言ってくることだった。これは脅しでもなんでもなく、彼女は本気でそうしようとしている。つまりはヴィルヘルム以外、命を委ねられる人物はいないと、そう明言されたようなものなのだ。
そこまで絶大な信頼を寄せられて、無下にできるわけがなかった。
「狡いぞアリス、こんなの断れないじゃないか」
「――断ってもいいよ」
激しく駆け巡っていたヴィルヘルムの思考とは裏腹に、アリスはそんなことを言い出す。意図を測りかねた彼は、
「混乱させてごめん。だけど、私はヴィルの気持ちを優先してほしい。世界の命運なんて関係なくて、これはヴィルの人生の問題だもの。嫌なら、嫌って言ってほしい」
「君は――」
(君は、自分の人生を選べないのに?)
そう言いかけて、しかしそれはあまりに残酷な物言いだと気づいて、ヴィルヘルムは言葉を飲み込んだ。
神託によって預言され、そして人々の期待を寄せられてしまっては、最早アリスは自分の人生を自分ひとりの一存で選ぶことはできない。だからこそ、そうでないヴィルヘルムからはその自由を奪いたくない。彼女がそう思っていることに彼は気がついてしまったのだ。
それでも、そう思っていてもなお、自分を賢者に、と望んだアリスの葛藤はいかばかりだったろうかと思うと、ヴィルヘルムの胸はじわりと痛んだ。
(どうして――)
どうして、アリスだけが、こんな責苦を負わねばならないのだろう。神はなぜ、彼女だけを勇者として選んだのだろう。なぜ賢者を選定するなどという重責を彼女に強いるのだろう。考えたとてわからない。そもそも魔王の討伐など、その神とやらがやればいい。こんな回りくどい、確実性の薄い方法を取る理由も全く見えない。とにかく、こんな年若い少女ひとりに世界の命運を託すなどという理不尽に、ヴィルヘルムはずっと怒り続けている。
だからせめてアリスに課せられたこの重たい使命を分かち合うべく、この五年間、彼なりに出来ることをずっと考えてきた。
「――元々、君を一人で行かせるつもりはなかったよ。足手まといにならないよう、準備もしている」
ヴィルヘルムがそう言うと、アリスは驚きに目を見張った。そんなに意外そうな反応されるのは心外だな、と彼は内心苦笑する。
「約束、君が忘れるなって言ったんだろう」
「――覚えててくれたんだ」
アリスは途端に顔をくしゃくしゃに歪めてとうとう泣き出した。
「涙
床に崩折れるように座り込んでしまった親友に慌てて駆け寄ると、ヴィルヘルムはその涙を拭ってやる。 するとアリスは彼の手をそっと握って、嬉しそうにふわりと蕩けるような笑みを浮かべた。
「――頼ってもいいんだね?」
「約束しちゃったからね」
やれやれ、とヴィルヘルムは首を振った。確かについていくつもりではあったが、まさか賢者などという大役を任されるとは思ってもみなかった。
「ヴィルヘルム」
アリスが呼ぶ。ヴィルヘルムが返事をすると、彼女は彼を抱き締めた。そして囁くように、けれど確かに聞こえる声で言った。
「――ありがとう」
かくして勇者アリスは、賢者ヴィルヘルムと共に魔王討伐のため旅に出ることになったのであった。
そして十年に渡る戦いの末に、魔王を千年の眠りに追い込んだ。
――勇者アリスの犠牲と引き換えに。
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