六話


 それから五年が経った。


 小高い丘の上から見下ろす先には、紺碧こんぺきの海が音を立てて波打っている。それは時に岩礁がんしょうに当たって砕け、白い飛沫を方々に散らしていた。


 吹き抜ける風がその美しい金色の髪をもてあそぶのを好きにさせたまま、アリスはぼんやりとその光景を眺めていた。


 「そうやって物憂げな顔してると美人って感じがするね」


 やや高い位置から覗き込む人影が声をかけてくる。アリスは心底不愉快そうな表情を浮かべると、声の主を睨み付けた。


 「ヴィル、悪いけど流石に今日はあんたの嫌味に付き合う気分じゃないんだけど」


 「嫌味じゃないよ。美人だ、って誉めてるだろう?」


 アリスと同じくらいだったが今やすっかり彼女の背丈を追い抜かし、立派な青年となったヴィルヘルムの姿がそこにはあった。そして、ぎゅ、っと強く寄ってしまった友人の眉間のしわを面白そうに突く。


 だがアリスは渋面じゅうめんを崩さず彼から顔を背け、また海に向き直った。


 「そういうのやめて。――は、放っておいてよ」


 今日、の部分を強調してそう言うと、彼女は口を引き結んで俯いてしまった。ヴィルヘルムはその様子に小さく溜息をついて、困ったような顔で静かにアリスの横に並び立つ。


 二人の間を沈黙が流れた。眼下に広がる海は相変わらず騒がしい波音を立てているのに、丘の上だけは妙に静かで、沈んだ気配に包まれている。


 突然、ううん、と唸ると、ヴィルヘルムは大きく伸びをした。そして相変わらず深刻そのものといった表情で海を睨み付けている友人の頭を、励ますつもりで、ぽん、と軽く叩く。


 しかしそれが気に障ったアリスは激しく首を左右に振って「やめて!」と叫んだ。


 「放っておいてって言ってるでしょ! もう、どこか行ってよ!」


 涙で潤んだ青玉の瞳が、ヴィルヘルムを睨む。その眼差しには怒りとも、不安ともつかない感情が滲んでいた。明らかに不安定な様子の彼女を目の当たりにして、青年は途端に真剣な面持ちになる。


 「放っておいてなんかやらないよ。また一人で抱え込んで、相変わらずだな」


 「あんたに何がわかるの!」


 激昂げっこうしたアリスは、そう言うと青年に掴みかかった。しかしヴィルヘルムは怯まず、ただ黙って彼女をじっと見つめる。否定も肯定も返ってこないのをいいことにアリスは両の拳でヴィルヘルムの胸を叩く。


 「そうやっていつも見透かしたような顔して、今だって、なんでもわかったようなこと言って、でも私の気持ちなんかちっともわかってないくせに」


 声を詰まらせながらもまくし立てると、彼女はいよいよ大粒の涙をこぼして泣きじゃくった。感情に任せた、もはや支離滅裂しりめつれつな言いがかりではあったが、ヴィルヘルムは何も言い返すことはなく、やはり黙ってアリスにされるがままになっていた。


 やがて少女は青年を叩く手を止めて彼の服を握ると、そのままその胸に顔を埋めて嗚咽おえつ混じりに漏らす。


 「――なんで何も言い返さないの」


 「言い返して、それで言い争って、いったい何の意味があるの」


 そう言って、ヴィルヘルムはアリスの背に腕を回す。


 「君が、こんなに苦しんでいるのに」


 優しく発せられた言葉に、その声音の温かさに、少女は再び滂沱ぼうだの涙を流した。


 アリスはヴィルヘルムの胸に身を預けてしばらく声をあげて泣いていたが、段々と落ち着きを取り戻すと、そっと彼から離れた。あらわになったその顔は恥ずかしいのか紅潮している。そして気まずそうにそっぽを向いて一言呟く。


 「ごめん」


 いつもなら面白可笑しくからかってやるところなのだが、流石のヴィルヘルムも今回ばかりはそんな気分にならず、優しい笑みを浮かべると黙ってアリスの頭を撫でた。


 言いたいことも、掛けたい言葉も、たくさんある。だがどれもこの場には相応しくない気がして、青年はただ目の前の少女を見つめることしか出来なかった。


 突如、丘を撫でるように一陣の風が吹く。まだ冷たいが、微かに花の香りを含んだそれは、春の訪れを感じさせる。


 海に背を向けると、二人はどちらからともなく寄り添うように歩き出した。相変わらず言葉はない。しかし彼らの心は先程までとは違い、確かに通じ合っていた。


 アリスは今日、十七歳の誕生日を迎える。


 それはすなわち、「勇者拝命の儀」が行われることを意味していた。


 「勇者」として生きることを運命付けられたた彼女が、その使命を全うすべく歩み出す、始まりの日であった。



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