五話


 その後、二人は黙々と庭掃除を済ませると、並んで帰途きとについた。


 すっかり調子が狂ってしまったヴィルヘルムはこの友人にどう接したものかわからなくなり黙り込んでいた。そんな彼の心を知ってか知らずか、アリスはつぶやくように話し始める。


 「ねえヴィル、何であんたじゃなくあたしが勇者なんだろうね」


 予想だにしなかった彼女の突拍子もない発言に思考が追い付かず、少年は、へ?と間抜けな声を漏らした。アリスは真剣な表情を彼に向けると、じっとその目を見つめる。


 「だって、あんたの方がずっと賢いし、魔術だって得意でしょう。そりゃ腕っぷしには多少、自信はあるけど、大人になったらきっと男のあんたの方が力も強くなるだろうし、それに――」


 そこで言葉を区切ると、彼女は、きゅっ、と眉根をよせてうつむいてしまった。背負った鞄の肩紐を握る手に力がこもっている。


 ヴィルヘルムは黙って頷き、ただならぬ様子の友人を見守っていた。彼女とは長い付き合いだ。こうして言葉に詰まるのは、それを言うのに勇気がいるようなときであることが、彼にはよくわかっていたのだ。


 ややあって決心がついたのか、アリスは大きく深呼吸して少年に向き直る。そして泣きそうな顔で言う。


 「――あたし、怖い。全然強くなんかない。こんな人間が、魔王なんかと戦えるわけないよ」


 震える声で発せられる言葉をヴィルヘルムは神妙な面持ちで聞いていた。そしてしばらく何か考える素振そぶりをして黙り込んでいたが、不意ににやにやと意地悪い笑みを浮かべると、肘で軽く彼女を小突いた。


 「確かに、君は怒るとすぐ手が出るし、嫌なことがあるとあからさまに不機嫌になる直情型だからね。そういう意味では弱いかもしれないよね」


 思いがけない不躾ぶしつけな物言いにアリスは目を丸くした。そして頬を紅潮させて憤慨ふんがいし、彼に掴みかかる。


 「ちょっと、こっちは真面目に話してるのに――」


 言い終わるか終わらないかというところで、不意にアリスの視界がかげった。頭上に温かい息づかいを、いつの間にか背中に回された腕に込められた力を感じたところで、彼女はヴィルヘルムに抱き締められていることに気付いた。


 「強くなくたって、いいじゃないか」


 少年はそう囁いた。いつになく優しい声音がくすぐったくて、アリスは思わず身じろぐ。しかし彼は抱擁を解かない。


 「今日、掃除を手伝ってくれたろう? 弱いなら弱いで、誰かに頼ればいいんだ。例えば――そう、僕とかさ」


 言い終えた途端、急に恥ずかしくなったのか慌ててアリスを離すと、ヴィルヘルムは「いやいや!」と左右に手を振って目を泳がせる。


 「ほらあの、例えばの話だから! 別に僕じゃなくても他に頼りになる人が現れるかもしれないし――」


 「ヴィルヘルム」


 少年が名前を呼ばれて我に返ると、自分を真っ直ぐ見つめる視線とぶつかった。アリスの青玉の瞳には、彼の姿がくっきりと映っている。


 二人は言葉もなく、そのまま見つめあった。ほんの数秒だが、その時間が、彼らには永遠にも等しく感じられた。


 ふと、アリスはヴィルヘルムの頬に触れる。雰囲気も相まって、これはもしやと思い、少年は反射的に目をきつく閉じて身構える。と、次の瞬間、彼の頬に鈍痛が走った。――アリスが頬を引っ張ったのだ。


 「な、何するんだよ!」


 ヴィルヘルムはそう叫んでアリスを見た。そこには意地の悪い、だがどこか安堵したような笑顔がある。


 「接吻ちゅーすると思ったでしょ?」


 「はあ!? 思ってないし!」


 少年は気恥ずかしさと憤慨のあまり、全身真っ赤になった。その様子が可笑しくて、アリスは声を立てて笑う。普段は自分がからかう側なのに完全に立場を逆転されてしまったヴィルヘルムはどうにも悔しくなって少女を捕まえようとするも、彼女はするりとその手を逃れた。そして少年の名前をもう一度呼んで、またもや真剣な眼差しで彼の赤琥珀の瞳を見つめる。


 「――さっきの言葉、絶対に忘れないでよ」


 そう言うと、少女は見た者が思わず呼吸を止めてしまいそうなほど愛らしい笑みを浮かべてみせて、唖然として口を開けたまま立ち尽くす少年を残して走っていってしまった。



 ――幼い日の口約束。けれど、やがて勇者となる少女と、その勇者に選ばれる賢者にとって、とても大切で、決して忘れられない契りを交わした瞬間であった。


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