Episode 010 「腹ぺこ金翠羊」
陽の光が、斜めに背中を押した。
麦畑を進んでいると、そこは黄金の海のようだった。
夕焼けの茜が、麦穂の波を薄ら赤く染め。
陸に広がる美しい穀物の地平線。
秋の風にはデザダルの竈や煙突から、夕飯の準備をする匂いも混じる。
石焼きのパン、炭の香り。
腹が減ったな、と後ろを振り返りかけ、麦獅子様の〈領域〉にてその後ろ髪を途端に失う。
夕焼けの空は変わらない。
黄金の海も変わらない。
だけど、町の匂いは一瞬で消えた。
風に乗って聞こえたはずの、人々の喧騒のような雑音さえも耳から途絶え。
境界を越えた瞬間に、俺はもうここが、人間の世界ではなく獣神の世界なんだと悟った。
それでも、注意深くあたりを見回しながら、奥に進んでいく。
自然環境の化身である獣神は、自分たちに悪さを働かない者には敵意も害意も抱かない。
人間が自分たちのテリトリーに入って来たからといって、それですぐさま殺しにかかってくるような理不尽な存在ではない。
人も所詮は動物の一種。
それが自然の摂理において、順当な行為であれば。
どうせ最後は土に還るがさだめ。
自然界に特有の大いなる寛容さで受け入れられる。
麦畑の獅子神を祀る祠。
人の手が入っていない麦畑は、身長190センチはある男の背よりも高く。
途中から目の前を掻き分けるようにしながら獣道を進んだ。
獣道。
つまり、獅子神の道。
(日本の神道には、神社の参道の真ん中は、神様の通る道だから、人間は真ん中を歩いちゃいけない……)
なんて、本当なんだか嘘なんだか、よく分からない話もあったが。
少なくともこのヰ世界では、神様と同じ道を歩んだからといって、ブチ切れてくる神様はいない。
いや、ひょっとしたら。
人間的な性格を持つ文明神、文化神あたりなら、ブチ切れてくる可能性もあるかもしれないけれど。
土地神、環境神である獣神は、幸いその程度では目くじらを立てない。
きっと元が動物だから、人間の価値観やルールとは別の基準で物事を見ているんだろう。
逆に言えば、だからこそ何が向こうの不機嫌に繋がって、怒りを買うコトになるのか?
(予想がつかず、分からないって不気味さはあるけどな……)
とりあえず、火を放ったりイタズラに土を汚したり。
そういう明らかアウトな振る舞いをしなければ、差し当って問題は無いはず。
僅かに緊張しながら、祠の場へ到着した。
「────」
祠は、少しだけ開けた空間にあった。
麦の穂波から突き出した四角い石。
紅葉を揺らす二本の木に見下ろされて、獅子の像がその上に鎮座している。
静かで、厳かで、ただそれだけなのに、不思議と神聖な場所なのだと分かった。
……俺が元日本人だからだろうか?
田舎の田園の端っこに、ふと小さく構えられた赤い鳥居。
誰が作ったかも、何故そこにあるのかも誰も覚えていない。
けれど、昔からあって誰もの原風景になる。
そんな光景を何となく思い出した。
(旅の学者は……あれか)
祠から少し離れた位置。
麦畑に紛れるように、小金色の長髪が舞っている。
(毛先の方が、少し萌葱色……)
珍しいグラデーションヘアー。
しかし、側頭部から伸びた羊の角。
ネリエルにも似た特徴から、
服装が古代風の白長衣で、月桂樹を模した頭飾りを被っているのも共通していた。
ネリエルと違うのは、角がさらに大きくトグロを巻いている点。
前髪はパッツンで、ライトグリーンの瞳がパッチリしている。
目が合った。
「失礼、不躾な視線を──」
「……」
声をかけると、女は静かに自らの唇に指を当てた。
喋るな。
意図として、ジェスチャーの意味は通じる。
俺は黙り、だが何故? と怪訝に思ったその時──
GRRrrrrrrrrrrrr……
「!」
何の予兆もなく、突然その獣神が俺たちの間を横切った。
大きさは普通のライオンより、幾らか大きい。
体は麦で、鬣は黄金の穂。
顔は微かに元の獅子らしさを保ちながら、然れど植物。
四つ足で歩きながら、踏みしめた地面に麦を生やしつつ、堂々こちらを睥睨。
やがて、陽光を浴びてぶるり身を震わせると、麦畑の中へ駆けて行った。
「美しく、なんて勇壮な獣神でしょう。獅子の環境神は初めて見ました」
「……失礼。先程のは?」
「お声を遮ってしまい申し訳ございません。わたくし、神秘全般に目がありませんもので」
せっかく間近で観察できる機会を、余計な雑音で邪魔されたくはなかったんです。
女はやや遠慮の無い言葉で回答した。
ですます敬語を使っているが、俺への気遣いなどは特にしている様子が無い。
恐らく、口調は単なる処世術で、中身はネリエルと変わらない〝長寿古代種族〟なんだろう。
特段気にもならないので、会話を続ける。
「私の名はベンジャミン。ネリエル様から貴女についてうかがい、ここへやって来ました」
「まあ、ネリエルからですか。彼女はなんと?」
「南方大陸にてフィールドワークをされていた旅の学者であると」
「それはまた、ずいぶん他人行儀な紹介をされてしまいましたね。わたくしの名はアマル。ネリエルとは従姉妹になります」
道理で全体の雰囲気が似ている。
頷きつつ、単刀直入に切り出した。
「出会っていきなり申し訳ございませんが、実はアマル様に相談があります」
「興味をそそるお話ですね。見ず知らずの他人から、相談を頼まれるのは滅多にありません」
「神聖娼婦の徴について、アマル様はお詳しいでしょうか?」
「アマルで構いませんよ。わたくしはネリエルと違い、大層な立場の者ではありませんから」
「では、アマル」
「……驚きました。自分で言っておいて何ですが、ニンゲンの男性から素直に呼び捨てにされたのは、これが初めてかもしれません」
「それで、答えは?」
「
アマルは迷いなく断言した。
(寿命が長い連中は、これだから……)
恐ろしい。
俺は頬が引き攣るのを何とか堪えて、平静を装い続ける。
「舌に刻まれた寵愛紋で、一目見ただけで呪われているとハッキリ分かる徴。お心当たりはあるでしょうか?」
「呪われている?」
「はい。祝福ではなく、呪業ではないかと疑いのある徴です」
「……身近に該当者がいらっしゃるのですか?」
「購入した奴隷です。双子の姉妹で、どちらも同じ徴を」
「種族は」
「
アマルはそこで、両腕を組んでしばし沈黙した。
「ひょっとすると、それは酩酊と嫉妬の女神ベルゴの仕業かもしれません」
「酩酊と嫉妬……」
「神聖娼婦の祝福のなかでも珍しいタイプですが、古い口承に間違いがなければ、呪いではありませんね」
「本当ですか」
「実際に確認しても?」
「もちろん、よろしくお願いします」
俺はアマルを、クランハウスまで連れていくことにした。
「……ところで、三日間もここにいて、食事などはどうされていたんですか?」
「……そういえば、お腹が空いていますね」
「まさか」
「食べるのを忘れていました。よければ、晩餐を共にいただきたいです」
「……分かりました。途中で何か買って行きましょう」
ジルとアマル。
予想外に増えた二人分の食事。
ミルキオラもメルティオラも、いきなり追加で用意を頼んだらアタフタしてしまうだろうし、ここは余計な負担をかけないためにも、それしか選択肢はあるまい。
(市場はそろそろ、閉まってる時間だろうけど……)
頼み込めば、余り物でそれなりに売ってはくれるはずだ。
最低限、パンかパイは買いたい。
肉の挟んであるヤツは、食い出があるし。
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