Episode 009 「麦畑の獅子神」
オアシスに戻ると、日はさすがに中天を越えていた。
ネリエルは奴隷が戻ると、最初はめちゃくちゃ大喜びで満面の笑みだった。
だが、ジルが俺にぽわぽわしているコトに気がつくと、笑顔は失せて劇画調バリに顔が渋くなった。
「ジル。ジル。こやつはニンゲンじゃし、傭兵じゃし、クサイし汚い」
「雄々しい殿方は皆、そういうものかと存じます!」
「ひぇぇ〜! まさか、す、好きになってしまったのかや? 頼む、違うと言っておくれ……」
「ネリエル様……申し訳ございません。ジルは、恋をしてしまいました!」
「ひぃぃ〜!? いやじゃ! いやじゃ! 妾の方が先に好きじゃったのに! ベンジャミン! うぬ、よくも妾の奴隷を奪いおったな!」
「…………」
長寿古代種族が、BSSじみたコトを言って脳を破壊されている。
俺は心底、「知らねーよ」と思った。
というか、
「あまり人聞きの悪いコトを、大声で叫ばないでいただけますか」
「だって!」
「他者の奴隷を奪うのは、犯罪行為。余人に聞かれれば勘違いされかねない発言は、傭兵のような吹けば飛ぶような立場の者には、時に命取りになるんですよ」
流言飛語の類で仕事を失った者が、どれだけいることか。
知らぬネリエルではあるまいに。
それにそもそも……
「ネリエル様、貴女は別に同性愛者ではないでしょう」
「うむ。じゃが、美少女は好きじゃ。妾に好意を抱いている美少女なら、なおさらに」
「その気もないのに年若い乙女の心を弄ぶのは、どうかと思いますが……」
「ほう? それは騎士道精神かや? 乙女と淑女と見れば、節操なしに庇護せずには居られぬのかや?」
細められた眼が、その瞬間、僅かに嗜虐的な色に染まる。
『
俺はすぐさま一歩下がり、静かに首を横に振った。
「失礼しました。私も今は奴隷を買っている身。ネリエル様のお気持ちは、少なからず理解できるところです」
「──なら、妾とうぬは、お互いに似た者同士。同じ数寄者、というワケじゃな」
オアシスの女主人は、コロコロと喉を鳴らして機嫌を直した。
「じゃが、妾は他人の手垢のついた奴隷は、手元に置いておきたくない。後で契約書を持ってこさせるゆえ、ジルはうぬが引き取るのじゃ」
「誓って、手は出していませんが」
「心に手を出しおった。うぬが望むと望まずにかかわらずな」
そんなん、俺にどないしろっちゅうねん。
「ネリエル様、ありがとうございます!」
「お〜、ジル。元気でやるんじゃぞ? その男より、やっぱり妾の方が好きになったら、いつでも戻っておいで」
「お世話になりました!」
「ククク……素直な良い子じゃ。ちょっと涙拭いてくれるかや?」
奴隷に目元を拭かせ、ネリエルはコホンと咳払いを挟んだ。
「さて、それはそうと。うぬも気が利かぬな」
「はい?」
「ジルには薬草を採らせに行ったと伝えておったはずじゃろ? リザードどもを蹴散らしおったなら、ついでに
そうすれば、ジルの足の治療にも薬草を使えて、効率が良かった。
ネリエルは「これだから傭兵は」と肩を竦める。
たしかに、それは指摘されればその通りとしか言えない。
「すみません、気が回りませんでした」
「ジ、ジルも、申しございません……!」
「別によい。今のは単なる八つ当たりじゃ。……それでベンジャミンよ。うぬの相談は、たしか呪われた聖娼の徴について、じゃったな?」
「はい」
「妾は実物を見ていないゆえ、たしかなコトは言えぬが、詳しいコトは〝麦畑の祠〟に行けば分かるじゃろう」
「あそこは獣神のテリトリーですが」
「怒らせなければ何もされまい」
事も無げにさらりと返されてしまったが、ネリエルはかなり恐ろしいコトを口にしている。
宿場町デザダル。
荒野と麦畑とオアシスに囲まれた西方大陸の南東。
しかし本来ならば、このあたりの土地に麦畑が作れるような肥沃な土壌は無い。
一年を通じて雨もそれほど多くは降らないし、雑草だって滅多に生えていない。
気候も環境も、どちらかといえば南方大陸寄り。
なのに、なぜデザダルには麦畑があるのか?
答えは、『麦畑の獣神』──土地神が棲んでいるからだ。
(概念としちゃあ、山のヌシ、川のヌシ、ってのが近いが……)
デザダルにはそれの麦畑版がいる。
カラダが麦でできている
デザダルの『麦獅子』
今でこそデザダルには、人間の手で耕された麦畑もあるが。
初めの頃はすべての麦畑が、この獣神の縄張りだったと云う。
怒らせると、〝還元法〟っていう権能で、生きたまま麦に変えられてしまう。
(『
体中が土と麦でできた元人間の魔物。
自我も意思も記憶も無くなって、ゾンビのように〝麦畑〟を感染させていく存在。
誰だって、そんな末路は辿りたくないよな?
なので、デザダルでは現在も、麦獅子様の領域を侵犯しないよう細心の注意を払い。
その外縁で細々と、生きていくのに必要な分だけ、時に規模を拡大しながら、麦畑を耕して共生関係を続けていた。
(麦畑が増えていく分には、麦獅子様も人間に怒ったりはしないからな〜)
相互利益というものだろう。
麦畑を荒らす害獣や盗人も、最初期は麦獅子様が勝手に罰を与えて、守り神のように信仰を集めたと話に聞いている。
信仰を捧げるしかなかったとも聞こえる話だったが、何にせよ、人間を簡単にバケモノに変えられる土着の神様など、あまり好き好んで近づきたい相手ではない。
麦畑の祠は、デザダルの初代代官が、麦獅子様のために建てた祠のはずだ。
獣神の〈領域〉最深部である。
「なんだって、麦獅子様の祠なんです?」
「なに。ちょうど先日、南方大陸にフィールドワークに出ておった旅の学者がな。この話をしたら興味を持ったんじゃよ」
「……つまり、ネリエル様ではなく、その旅の学者であれば徴について知っていると?」
「可能性は高い。なにせ、そやつは妾と同じ
長寿古代種族。
しかも、南方大陸にフィールドワークに出ていた。
地元の民が匙を投げた問題でも、専門の学者であれば何か知っているかもしれない。
話を聞くのに、損は無さそうな相手ではある。
問題は、
「その方、いつから祠へ?」
「実は一昨日から戻っておらぬ」
「…………ネリエル様」
「大丈夫じゃ。あやつは獣神を怒らせるような真似はせん。大方、古い遺跡と神秘の具現に、時を忘れておるのじゃろう。時の感覚がうぬたちとは違うのじゃ」
「なら良いですが……ジルは家に運んでおいてくださいよ」
「よかろう。しかし、行くのかや?」
「英雄様……?」
「万が一の可能性もあります。それに、このままじゃ本当にくたびれ損ですからね」
「ジルを持っていくクセに」
「それだけじゃ、あいにく物足りないんですよ」
「カーッ! 益荒男よのぉ」
剣を佩き直して、麦畑へ向かった。
俺はセックスのためなら、時に命も賭けられる男、ベンジャミン。
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