慕音

 医療事務の仕事をしている古川さんは以前、小さなクリニックに勤めていた。

 穏やかな院長に気さくな看護師。居心地のいい職場だったそうだが、僅か半年で辞めてしまった。


「院長先生の自宅がクリニックの敷地内にあったんですよ。真っ白な壁の素敵なお家でした」


 その素敵な家の植え込みの木に、ある時茶色いものが点々と付いていた。枯れ葉が貼り付いているようにも見えたが、近づいてみるとそれはガムテープだった。更によく見ると、テープから何かはみ出している。


 細くて黒い糸のような脚、茶色い羽。


「蝉でした。それをガムテープで壁にくっつけてたんです」


 よく見ると地面にもたくさんガムテープの塊が落ちていた。まだ生きている蝉もいたようで、テープから出た足を弱々しく動かしていた。


 質の悪いイタズラだ。そう思ったのだが、犯人は意外にも院長の奥さんだった。


 というのも、当時院長夫妻には浪人生の息子さんがいた。蝉がうるさくて受験勉強に集中できなかったらかわいそうだと、奥さんがガムテープで鳴き声を「封じて」いたというのだ。

 跡取りになるであろう息子さんへの期待は確かに理解できるが、それにしてもこれはやりすぎではないだろうか。古川さんは奥さんのことが怖くなった。


 素敵だと思った家の白い壁も、奥さんの狂気じみた潔癖の象徴のような気がしてうすら寒い気持ちになった。



 しかし退職の直接のきっかけとなった出来事は蝉の一件ではなく、クリニック内の心霊現象だという。


 誰もいないのに自動ドアが開いたり密室状態の診察室で生ぬるい風が吹いたりするのは日常茶飯事。レントゲン室で人影が目撃されることも多かった。古川さんには見えなかったが見えたという人の話では、その霊はパジャマ姿の女性だったそうだ。


『病院の幽霊』というと珍しくないように思われるかもしれないが、古川さんの勤務先は入院設備もなく、また手術も行わないクリニックである。人が亡くなるような場所ではないので、当然その幽霊はクリニックの患者ではない。

 長く勤めている看護師によると、それは院長が総合病院に勤務していた時の患者だそうだ。リンパ腫が原因で亡くなった彼女は院長を慕い、クリニックまで付いて来たというのだ。


 そんな話を聞いた数日後。

 ひとりで残業をしていた古川さんは、微かな物音を聞いた。耳を澄ませてみると、どうやら音はレントゲン室の方から聞こえてくる。


 ギッ……ギッ……


 何かが軋むようなその音は、レントゲン室へと続く扉を開けると一段とはっきり聞こえる。


 ギッ、ギッ、ギッ、ギッ……


 ぐるりと室内を見回してみるがやはり誰もいない。

 それどころか音を立てているような物もない。

 何も動いていないのに、確かに音はこの部屋の中で響いている。


 ギッギッギッギッ


 そして、先程より間隔が短くなった音に溶けるように、


 ――ん、……あぁっ


 耐えるような女性の細い声が聞こえた。


 その時、古川さんは奥さんの異常なまでの潔癖の理由が何となく分かった気がしたのだという。

 それ以降、穏やかな院長の顔を見る度に何故か具合が悪くなっていったのだそうだ。何とか我慢して仕事を続けていたのだが、とうとう精神的にも体力的にも限界がきたため間もなくして退職した。


 そのクリニックだが、今は閉院している。院長に悪性リンパ腫が見つかったのだそうだ。現在も療養中である。

 院長の家族は今も例の家に住んでいるが、真っ白だった壁は黒く汚れているという。

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