黒い獣

「尻尾をつかみたくて、つい」

 まゆりさんは少し恥ずかしそうに、夫の携帯電話を盗み見たことを話してくれた。


 話は数年前に遡る。

 ある時から帰宅する度に妙な臭いが鼻につくようになった。

「動物園のふれあいコーナーの臭いって言えば分かりますかね? うさぎとかヤギとか、そういう動物に触れるところ」

 何となく獣をイメージさせる臭いだったそうだ。

 消臭スプレーを振り撒いてみたりアロマディフューザーを置いてみたりしたが効果はなかった。

 そして同じ頃、獣の臭いとは全く関係がないのだが、夫が浮気をしているのではないかと考えるようになった。

 きっかけは帰宅時の彼の表情だった。ある日仕事から帰って来た彼はなぜか上機嫌だったのだ。かと思えば数日後にはひどく暗い顔をして帰宅する。いつもポーカーフェイスで淡々と生活をしている彼にしては珍しいことだった。


「誰か、主人の気持ちを動かすような人がいるんだと思いました」


 だから、彼がお風呂に入っている間にこっそり携帯を見た。

 決定的な証拠となるようなものは見つからなかったが、頻繁に電話をかけている相手がいることが分かった。

 しかし登録されていたのが苗字のみだったため、女性なのどうかも分からない。Mさんはそっと携帯を元の場所に戻した。


 その後、表面上は特に変化のない生活を送りながらも、まゆりさんの中で疑念と不安はどんどん膨らんでいった。

 追い詰められた彼女はついに家の中で動物の影を見るようになってしまった。

「視界の端を黒いものが横切るんです」

 ネズミより大きく、猫より細い。

 最初のうちは臭いの件も相まって家の中に本当に何かがいるのだと思っていた。ところが、動物がいるのだとすれば絶対に落ちているはずの毛や糞が見当たらない。何より、物音が一切しないのだ。黒い影が横切る時も足音を聞いたことはなかった。

 とうとう幻覚が見えるくらいにおかしくなってしまったのか、とまゆりさんは頭を抱えた。しかし一人で悩んでいても状況がよくなるわけではない。そこで、近所に住むお姉さんを家に呼んで相談に乗ってもらうことにした。


 その日、家にやって来たお姉さんは玄関先で

「あれ? 猫飼ってたっけ?」

 と言い出した。

 黒くて細い動物が廊下を横切ったように見えたのだそうだ。

 まゆりさんは安心した。あぁ、私が見ていたのは幻覚じゃないんだ、と。


 それからのまゆりさんは行動が早かった。

 絶対に浮気の証拠を掴んでやるんだという決意をし、夫の部屋にあるパソコンを隈なく調べた。

 携帯と同じく写真やメールなどの分かりやすい証拠はなかったが、SNSにログインできた。もちろん夫のアカウントである。

 すると、夫が投稿した写真や文章によくコメントをしている人達の中に着信履歴と同じ名前の人を見つけた。今度は苗字だけでなくフルネームが判明した。予想通り、それは女性だった。

 その名前をクリックすると、彼女のプロフィールページが表示された。

 真っ先に目に入ったのは黒いフェレットを抱いている彼女の写真だった。


 この人だ。

 まゆりさんは確信した。妙な臭いも動物の影も、夫の様子がおかしいのも、全部この人のせいだ。


 その日の夜、まゆりさんは帰宅した夫にこう言った。


「フェレットの臭いがする」


 その言葉を聞いて彼は目を見開いた。滅多に表情を崩さない彼が、自分の言った言葉に動揺している。まゆりさんは優越感を味わった。その瞬間、全ての憂いが晴れたのだという。


「浮気してようがその相手とどうなろうが、関係ない。もうどうでもいいって」


 浮気について旦那さんからは説明も謝罪もなかったが、それ以来だんだんと動物の影を見ることもなくなり、臭いも感じなくなった。


「きっと彼女とは別れたんでしょうね。こっちも離婚する気はなかったので、元通りです。仲良くはないけどそれなりにやってますよ」

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