第3話

 



「ちょっとちょっと理央!」


 ようやく学校に着いて、クラスの違う夏とは教室の前で別れた。自分の席に鞄を下ろしたのと同時、大きめの声で名前を呼ばれて振り返る。興奮した様子の友人、加藤奏かとう かなでに首を傾げた。


「おはよう、奏」

「おはよう! ねぇあれなに? どうしたの? 何があったの?!」

「え待って待って」


 ぐいぐいと詰め寄られて数歩後退する。何があった、って何も無いけど……

 瞳をキラキラさせて興奮を抑えきれない様子の友人についていけず、呆気に取られているとガシッと両肩を掴まれた。


「え、奏さん?」

「なにあの壁ドン!! どうだった? ねえどうだった? キュンッとした?!」

「か、壁ドン? キュン?」

「とぼけないの!! 私見たんだからね!」


 奏が何を言っているのかいまいち理解できなくて疑問符が浮かぶ。壁ドンってアレだよね? 時と場合と相手によるアレだよね?


「りーおーうー?」

「ちょっ、ちょっと落ち着いて」


 掴まれた肩をガクガクと揺らされて慌てて制止をかける。奏はぴたりと動きを止めて唇を尖らせた。


「もう、早く聞かせなさいよ」

「聞かせなさいって、何を?」

「だ か ら 壁ドンの感想よ」

「……壁ドンなんてされてないよ?」


 全く意味がわからない、と困っていると「この鈍感!」と怒られた。まったくもって理不尽じゃないかな?!


「朝の電車で白石にされてたじゃない。壁ドン、ほらこうやって」


 腕を掴まれて壁際に立たされると、奏はとん、と優しくわたしの背後の壁に手を突いた。近くなった奏との距離に一つの光景を思い出して「あ」と声を漏らすと「ほらみなさい」と大袈裟に溜め息を吐かれてしまった。


「でもあれはそんなんじゃなくて、倒れそうになったのを支えてもらっただけだよ」

「理由はどうあれ壁ドンは壁ドンよ。きゅんとかしなかったわけ?」

「……してない」


 嘘。正確には壁ドンにドキドキしたわけじゃないけど、支えてくれた腕の逞しさとか近くなった距離にそれなりにドキドキした。そんなこと言えるわけないけど。

 そもそもわたしと夏じゃいくら壁ドンとかされたってそんな甘い雰囲気になるはずがない。わたしはともかく夏は絶対、それもわたし相手になんて絶対にない。


「あんた本当にもったいない! せっかく幼馴染なのに! 白石モテるのよ? そんな相手にきゅんとこないなんてどうなってんのよ」

「う、いたい……」


 バシッとデコピンされたおでこを押さえる。だからドキドキしないわけじゃないったら。まあ、言わないんだけど。

 それに夏がモテるのは知ってる。嫌ってほど知ってる。あの屈託のない笑顔と明るさ、懐に飛び込んでくる大型犬みたいな人懐っこさに加えて、抜群のバレーボールのセンスで女の子の心を掴んでいるらしい。

 幼稚園から小、中、ときて高校生になってまだ日も浅い頃から既に、夏にそういった恋心を抱いている女の子は少なくなかった。それは高校二年生になった今も変わらない。早くもバレー部の次期部長候補だと噂で聞いたときも、話していた女の子たちの目は恋する人間のそれにしか見えなかった。

 夏は昔から優しくて明るくてバレーボールが大好きで、わたしのヒーローで。それが夏。


「知ってるよ、夏がモテるのなんて」


 そう言えば、奏は呆れたような顔をして「そりゃそうか」とアメと鞭なのか今度は優しくぽんぽん頭を撫でた。


「全く幼馴染って面倒くさいわね。早くくっつけばいいのに」

「え、なに?」


 聞き取れなくて聞き返すと奏は「なんでもないわ」と静かに首を振った。


「……気になる。言って」

「なんでもないわよ。それより今日決まるんだけど」

「なにが?」

「なにがって、昨日言ったじゃない。今日吹部で一年の楽器決めするの! 中学のときの後輩が私と同じ楽器希望なのよ。でも人気の楽器だし一応定員もあるからさ、はぁ〜〜ドキドキする」


 「一年の頃を思い出すよ」と胸に手を当てる姿に、この表情はもう意識は放課後に飛んでるんだろうなと微苦笑する。後輩のことに親身になって、我が事のように考えられる彼女はいい先輩だと思う。わたしにとっても奏はもったいないくらいの大切な友達だ。奏とは中学の時からの仲だけど、仲良くなったときには彼女は既に吹奏楽部で、楽器に触れているときが一番幸せそうな子だった。こういうの、少し羨ましく思う。

 奏然り夏然り、自分の全てを賭けて成し遂げたいと思えるものを持っている。わたしにはそういうのないから本当に羨ましい。


「希望はフルートなんだよね? 決まったら教えてね」

「もちろん! すぐ報せる」


 楽しそうに笑う奏に夏の姿が重なった。





 

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