第19話 永遠を、貰ってもいいですか。
「……どうかしてる。ほんとに、どうかしてるよ、明日奈は」
ひと通り手紙を読み終えて、ポツリそんなひとり言が部屋に零れる。
咄嗟に僕は手紙をズボンのポケットにねじ込んで、送られてきた向日葵の花束を抱えたまま家を飛び出した。
向かう場所なんて、決まっている。
「……認めない、認められるわけないだろ、こんな最後っ!」
真夏の午後、外出することさえ控えたほうがいいかもしれない気温のなか、僕は花束両手に明日奈がいる病院に急いだ。
「……気にしないで、幸せなんか見つけられるわけないだろ、どう考えてもっ」
外にいるだけで汗が噴き出るような猛暑で、そんななか花束なんて荷物を持って不格好に全力で走る僕は奇異そのものだったと思う。すれ違う人も、追い抜いていく自転車の人も、改札にいる駅員さんからも、居合わせた電車の乗客からも、狂った人を見るような目で見られていただろう。
……でも、あんな手紙読んでおいて、まともでいられるほうがどうかしている。
「はい、わかったよ」
で、すっぱり明日奈のことに見切りをつけられる関係なら。
「……あんな嘘つこうだなんて思わないだろ、明日奈だって」
最寄り駅から電車に揺られること数時間。前回の記憶を頼りに僕は明日奈が入院する病院に到着した。
汗を引かせる間もなく「深浦明日奈」と名札が入った病室の扉をノックすると、
「……はーい。あれ、今日お母さん来る日だったっけ」
以前より弱った調子で返事をする明日奈の声が聞こえてきた。
今は起きているのか。なら、都合がいい。
呼吸だけ整えた僕は、ゆっくりと扉を開けては、予期せぬ来訪に驚く明日奈のもとに歩み寄る。
「なっ、なんで、裕典がこの場所をっ」
たまたま知奈も居合わせたタイミングみたいで、取り込み中だったのか、泣き腫らした知奈はベッドで横になっている明日奈の身体に顔を埋めていた。
「……知奈に教えてもらった。自分の妹が僕を騙す罪悪感に負けることが想像できるなら、新しい病院の場所が割れることも予想できたんじゃないの」
ばつが悪そうに押し黙る明日奈。病室に響き渡る「ごめんなさい、お姉ちゃん」の知奈の泣き声が、さらに明日奈の表情を曇らせる。
「それとも。僕がここの病院に辿り着く頃には、ひとりで勝手に三途の川を渡り終えるつもりだったとかかな」
「……さすがだね、裕典。私のこと、なんでもお見通しなんだから。これじゃあ嘘もつけないや」
わざとらしく肩をすくめさせては、ぷい、と視線を外して窓先に逃がす明日奈。
「……馬鹿にするなよ」
「……へ?」
自然と、僕の口調が強くなってしまう。怒っているのか、叫んでいるのか、それともその両方なのか。いずれにせよ、穏やかじゃない気持ちが溢れていっては僕の口を衝いていく。
「明日奈と出会った僕を勝手に不幸だって決めつけるなよっ。なんだよ、あの手紙っ」
「……どうも、こうも、書いた通りだよ」
「中身が知奈の明日奈にも言ったけど。僕は一瞬だって明日奈と付き合ったことを後悔したことはないっ。自分がそれで不幸だなんて思ったこともないっ。……あまり僕を、見くびらないでもらってもいいかな」
「……そんなの嘘だよ。……嘘だよ」
「……嘘なら、今ここに来たりしないよ。こんな必死になって明日奈に会いに来たりなんてしない。自分が不幸だと思ってるのに、三年以上、毎日明日奈に会いに来たりなんてしないっ。僕は、明日奈に会いたくて病院に通ってたんだ。明日奈の笑顔に触れたくて来てたんだ。そんな時間を、不幸だなんて言葉で片づけないで欲しい」
まくしたてる僕を、知奈は涙に濡れた顔でぼんやりと眺め、明日奈は表情を紅潮させながら見つめてくる。
「……僕が幸せだったかどうかは、僕が決める。たとえ明日奈であっても、そんなのは決めさせない」
「……嘘だよ。嘘に決まってる。最後まで、嘘つかなくていいよ裕典」
「嘘じゃない。明日奈に出会うまで、何もなかった、空っぽだった僕を変えてくれたのは明日奈だった。あの日明日奈が僕を見つけてくれなかったら、今よりも不幸になってた」
「たらればの話なんてっ」
「じゃあ事実だけで話す。……明日奈と過ごした時間は宝物だ。それは間違えようのない事実だ。今だって。……怖いよ。怖い。明日奈が入院した日からずっと僕は怖かった。ある日突然明日奈が逝ってしまうんじゃないかって思うと。夢にまで見て、夢で良かった、どんな夢見てるんだ僕、って思った日もあった」
「そんなの、私の身体が丈夫だったらあり得なかった話じゃん」
「身体が丈夫だから何? 僕と僕の両親は至って健康だ。健康だろうと、互いの価値観がすれ違って、拗れて、出来上がったのは空っぽの僕だったんだよ? 病気がち、を負い目にする理由になんてならない」
「……それは、話がすりかわってるよ」
平行線だ。いつまで経っても、僕と明日奈のスタンスは近づかない。
どうする、どうする、どうする……。どうしたら、明日奈にわかってもらえる。
ぐるぐると思考を回していると、今まで僕らのやりとりを外野で眺めていただけの知奈が、ごしごしとびしょ濡れの瞳を拭うと、おもむろに立ち上がっては、
「いい加減にしてよ……お姉ちゃん。そうやって、また素直にならないつもりなの?」
か細い声で、そう零した。
「……私と同じ目に裕典さんを遭わせてまで、何を強がってるの? 本当はものすごく怖いくせに。誰よりも怯えてるくせに」
「……知奈、黙って」
「そうやって裕典さんと喧嘩したまま先に天国行って、私にお姉ちゃんを演じさせた罪悪感や申し訳なさを全部ひとりで抱えていくつもり? ……だとしたら、私は許さないよ」
知奈の介入で話の潮目が変わったのか、明日奈の真っ赤に染まった頬から、何かが溢れそうになってきているのを感じる。
「……それ以上話したら怒るよ知奈」
「いいよ構わない。結局、お姉ちゃんは前の生きかたに戻ろうとしているだけなんだよ。前までの、自分の名前を嫌っていた、何にも期待しない生きかたに。だからっ、裕典さんの気持ちを受け入れられないし、距離を取ろうとした。だから、私にお姉ちゃんを演じさせた」
「っっっ……」
「私がお姉ちゃんを演じているうちなら、裕典さんがそれに気づかない間、確実にお姉ちゃんはひとりになれるから。……その間に、全部、全部全部、諦めようとしたんでしょ」
「……やめて、もうやめて」
「……そうやって、自分だけ恐怖から逃げ出そうとして。全部バレたらこんな喧嘩して最後まで強がって。……卑怯だよ。そんなの、絶対に駄目だよ。間違ってる。そんな嘘、誰も幸せになんてならない」
気づけば普段から冷静に言葉を運ぶ知奈の口調もどんどん強くなっていて、必死に明日奈に何かを訴えかけている。
「……花冠のときと。同じことをしているよ。お姉ちゃんは」
それは、明日奈が向日葵を好きになる理由となった出来事のこと。それを経て、明日奈は誰かが向けてくれる優しさを素直に受け取れる生きかたをしたい、と願うようになった。
「今度は、裕典さんに対して。このまま終わったら、裕典さん、一生お姉ちゃんのことで十字架背負って生きるよ? 裕典さんの性格、わかってるよね? それでもいいんだ。これから何十年も先、ずーっと裕典さん苦しめることになるとしてもお姉ちゃんはそれでいいんだ。裕典さんに思い出をあげたいって理由も、全部嘘だったんでしょっ。全部、自分のためだったんだよっ。だからっ、裕典さんのことなんてちっとも考えてない嘘つけるんだよっ。裕典さんがどんな気持ちでっ」
そこまで知奈が言ったところで、僕は彼女を制した。
「知奈。ストップ。言い過ぎだ」
変わった潮目から、突如。大きく大きく、明日奈の声と感情が揺れたのを感じたから。
「……じゃあ、どうすればよかったんだよう……。そうだよ、怖くて怖くて仕方ないよ。怖くないわけなんてないじゃん」
ここまでほぼ何も言い返さなかった明日奈の口から、とうとう本音がポロポロと零れ落ち始めた。
「……何も考えてないわけない。どんなに綺麗事を並べたって、私はいなくなる。そうすれば、私の恐怖は終わるよ? だって、死んじゃえば感情なんて持てないから。でも、いなくなった後の裕典は? 知奈は?」
言葉と雫が、連なってベッドの上、真っ白なシーツに染みを描き出す。
「……わからないよ。どうなっちゃうかなんて。でも、何もしなかったらきっと良くないことになるんだろうなっていうのは想像できた。もしかしたら、またひとりとひとりになって、ふたりの人生壊しちゃうかもしれない。そんなとき、思ったんだよ」
ぎゅっと、濡れたシーツを右手で握りしめた明日奈は、僕と知奈の顔を交互に見渡してから続けた。
「……私が座っていた裕典の隣の椅子を、知奈に渡せたら、全部、上手くいくんじゃないかって」
瞬間、知奈は目を見開いて息を呑んだ。
「……知奈の言ったことも図星だよ? 全部諦めて、自分だけ恐怖から逃げ出そうとしたのもきっと本当。私のため、っていうのも本当。……でも、それが全部じゃない」
わなわなと知奈の右手が震えたかと思えば、ぎゅっと握りこぶしが作られる。そして、決定的な一言を、明日奈は口にした。
「……知奈に、裕典のことを任せたいって思ったのもあったから」
「ど、どういうことっ……お姉ちゃん」
「……お姉ちゃんだからね、私は。知奈がどう思っているかなんてお見通しなわけだよ。知奈が裕典のこと好きになったんだろうなっていうのは、わかってた。……だからだよ。だから。裕典の隣にいるのは、明日が来ない私じゃなくて、知奈のほうが相応しい」
みるみるうちに顔が火照っていく知奈。それは、照れなんかじゃなくて、純粋に、
「……ふざけないでよ。そんなことされて、私が喜ぶって思ったの」
「思わないよ。思うわけないよ。……でも、こうするしか私には思い浮かばなかった。これ以外に、全部を解決する方法なんてわからなかった。だからっ。……だからっ、裕典が会いに来なければ、全部丸く収まったのにっ……」
「……そんなの、反則に決まってるよ、そんなの、そんなの……」
知奈は悲しんでいたんだ。
……わかっていた。明日奈が、自分のためだけにこんな嘘をつくはずがない。
そこには絶対「僕のため」とか「知奈のため」っていう動機が存在するはずだった。
だって、誰かの優しさを素直に受け取りたいと願った女の子が、果たして誰かを心の底から傷つけようだなんて思って嘘をつくだろうか。
そんなはずはない。
だから、知奈は言い返せなかった。自分が一番理解しているからだろう。親愛なる姉が、そんなことをするわけがないって。
ようやく、姉妹の言葉の銃撃戦は終わった。互いが互いに致命傷を与えるつもりなんて毛頭ない優しい銃撃戦だ。
「……明日奈の言い分はわかったよ。どうして、そんな嘘をついたのかも、全部わかった。思いつきなんかじゃなくて、僕のことを想った結果なのも伝わった。だけどさ」
ふたりの間の焼け野原に、ひょこりと僕はふたりの間に入った。
「……怖いのは、僕も知奈も同じだったんだ。程度に差はあるかもしれない。本人の明日奈が一番怖いのは事実かもしれない。……ひとりで、抱え込まないで欲しかったよ。僕は」
ベッドの上で涙を浮かべたままの彼女の真横にしゃがみこんだ僕は、視線と視線を合わせ、そっと顔を覗き込む。
明日奈の濡れた瞳に指をあてて涙を拭った僕は、
「……知奈には話したことあったけどさ。……明日奈の代わりなんていないよ」
ゆっくりと、諭すようにそう言葉にした。
「代わりなんていない。唯一無二の向日葵だよ。それを、姿形が似た花を渡されたからって、無条件で好きになれるわけじゃ、ないんだよ」
「……私の可愛い妹とは、付き合えないってこと?」
「今すぐは……無理だよ。この先だって、どうなるかわからない。明日奈の期待する、丸く収まった結末には、ならないかもしれない。……だって、明日奈言ったよね。『卒業してからも、私の側にいてくれないか』って。裏切れるわけ、ないじゃん。何もなかった僕にそう言ってくれた明日奈を。そこを否定したら、始まりも全部、何もかもひっくり返すことになる。だから、僕にできることは側にいることだけだ。僕は明日奈の病気を治せない。でもっ、それでもっ、せめて僕が側にいることまで否定しないでよ。僕が、明日奈にとっての太陽だって言うならっ。最後の最後まで、光を当てさせてよっ」
僕が言い切ると、病室に束の間の静寂が訪れる。太陽が照りつける陽射しの音と、セミの鳴き声、エアコンの駆動音が混ざり合う夏の三重奏が、じりじりと耳を撫でた。
「……あーあ。このまま喧嘩別れしてればさ、しんどい思いしなくて済んだんだよ?」
「覚悟してたことだよ」
「今はまだいいけど、これからどんどん私、みっともなくなっていくよ? 幻滅するかもよ?」
「それで幻滅する彼氏、彼氏とは認めない」
「……裕典が側にいるせいで、私、多分というか絶対『死ぬのが怖い』って毎回弱音吐くよ? 絶対面倒くさい女になるよ?」
「……気にしない、というかそんなの問題じゃない」
「……本当に、後悔しない?」
「しないよ。後悔なんて、するわけがない」
「……駄目だなあ、私。もう会わないって。決意したはずなのに。……結局、裕典の優しさに甘えたくなっちゃったよ」
その和音の上、憑き物が落ちたみたいにさっぱりとした顔になった明日奈が、ボソッと声をあげた。
僕と知奈は顔を見合わせては、揃って強張っていた表情を崩す。
「知らないよ? もう、私知らないよ? 枕カバーがちゃぷちゃぷになるくらい怖くて泣く日とかあるかもしれないけど知らないよ?」
「……そのときは、うん。替えの枕カバー持ってくるから。安心してよ」
「寂しくなって、裕典に『帰らないで』とか言うかもしれないよ? 面会時間過ぎるのに」
「そうなったら……泊まろっか。僕も一緒に。どうにかして」
「っ……も、もー、私のこと大好きかよう、裕典」
久々に聞く、明日奈本人の緩い口調に、僕は不意に目元が熱くなってしまった。
「……やっぱり。向日葵の花束は、明日奈の横が一番似合うよ」
そして僕は後ろ手に持っていた明日奈から送られた花束をベッド横の棚にそっと置く。
それを見た明日奈は、ひょいと手を花束に伸ばして、優しい手つきで向日葵を一本取り出すと、
「……この花束、一〇〇本あるんだ。一本は、裕典にあげるよ」
あの日、明日奈が僕に告白してくれたときと同じように、向日葵の花束を僕に差し出した。
「そうすれば、私は九九本。貰えるから」
「……いいの? 九九って、キリが悪そうに思えるけど」
「いいのいいのー。この本数で。九九本で、いいんだよー」
あと何回、この声を耳にすることができるのだろう。
あと何日、僕は彼女の顔を見ることができるのだろう。
願わくば、それが一週間、一日、一時間、一分、一秒でも長ければ、どんなにいいか。
そんなことを、心のどこかで僕は考えていた。
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