第3章

第17話 贖罪

 〇


 病室で紡がれた知奈の独白が終わると、僕らの間に静寂が走った。

 途中から涙混じりになった彼女の話は、何もかもが衝撃的過ぎて、僕は何も言うことができなかった。


「……許されることをしたなんて思ってないです。裕典さんを騙して、ぬか喜びさせて、裕典さんの気持ちも弄んで」

 病室の隅、ベッドで眠る明日奈に背中を向けて座り俯いていた知奈は、瞬間顔を上げては濡れた瞳を僕に向けた。


「……私のことはいくらでも恨んでもらっていいですっ。嫌いになってもいいですっ。でもっ、お姉ちゃんは、お姉ちゃんのことだけはっ……」

「……ごめん、ちょっと頭のなか整理させてもらってもいい? 今は……何を言われても、わからない……」


 力なくそう答えると、知奈は首を僅かに縦に振って、音も立てずに病室を後にした。

 僕はのろのろと明日奈のすぐ側にある丸椅子に座っては、そっと眠る明日奈の右手を手に取った。


「……っっっ」

 彼女の手は、恐ろしいほど痩せ細っていた。その事実が、ますます僕のなかに蔓延る恐怖を大きくさせる。


 怖い、怖い、怖い。

 片時でも目を離したら、次の瞬間明日奈がどこかに行ってしまうんじゃないか、そう思えてならない。


「……ねえ、本当に明日奈は、死んじゃうの」

 聞いてもどうしようもないことだし、答えてくれるわけでもない。それでも、口にせずにはいられなかった。


「……また、明々後日ね、って言ったじゃん、明日奈」

 認めたくない。信じたくない。受け入れたくない。

 どうしようもなく現実は目の前に迫っていて、ベッドで眠る明日奈に対して何もしてあげることができない僕は、自分の無力さに打ちひしがれていた。


「……答えてよ、明日奈」

 弱い声で紡いだ問いに、もちろん返事はない。

 この日、僕は何時に病院を出て、何時の電車に乗って、どうやって家に着いたのか、全く記憶に残っていない。


 翌日。目が覚めると時刻は正午をゆうに過ぎていた。

「……何時間寝たんだろ、僕」

 よろよろと起き上がった僕は、冴えない思考を覚ますために冷蔵庫に入れておいた缶コーヒーを開けて、ゴクゴクと呷る。


 おかげで、もやがかかっていた頭のなかが徐々に晴れてきた。

「……夏休みの明日奈、ほとんど知奈ってことだったんだよなあ……冷静になれば」

 すると、昨日の衝撃的な事実が少しずつ僕のなかで咀嚼されていく。


「確かに顔も身体つきも似てるけど、にしたって一か月近く知奈に気づかないのって彼氏としてどうなんだよ……僕」

 っていうか、もっと落ち着いて考えたら、


「僕、彼女でもない女の子のこと押し倒して一線越えかけたってこと……?」

 神戸の夜、僕はとんでもないことをしようとしてたことになる。それに気づいた途端、自己嫌悪の感情がせりあがってくる。


「……僕が、僕がもっとしっかりしていたら。僕がちゃんとしていたら」

 もっと早く、明日奈のふりをした知奈に気づいたかもしれない。

 いや、そもそも「僕に思い出をあげたい」っていう理由で、知奈にこんな辛い役回りをさせなかったかもしれない。


 ……知奈を責めるのは簡単だ。最も楽な現実逃避まであるだろう。

 なんでこんなこと、どうして言ってくれなかった、言い出せば恐らくキリがない。


「でも、責められるわけ、ないんだよな……」

 知っている。知奈は明日奈という姉のことを世界で一番慕っていることを。ましてや、知奈の性格だ。

 余命幾許かの姉に「そんなこと」お願いされて、断われるとは到底思えない。


「くそ……やっぱり僕が……」

 堂々巡りだけが捗る夏の昼下がり。窓の外から聞こえる蝉の鳴き声が、焦燥感と無力感と自己嫌悪をどんどん育んでいく。


 明日奈に連絡を取ろうと思ったけど、そもそも明日奈のスマホは今知奈が持っているということになるから、現状僕が明日奈に対して起こせるアクションが皆無なことにもようやく気づいた。


 飲み干した缶コーヒーの抜け殻を台所のシンクに逆立ちさせ、熱いシャワーを頭から被った後、髪を乾かすのもそこそこに僕は本棚に差していた文庫本の数々をおもむろに手にとってみた。


 藁にでも縋りたい気分だった。かつて読んだ本の主人公だったら、こういうときどうするのだろう。どんな方法で、大事な人を守ろうとするのだろう。

 教えてくれるなら、ぜひとも教えてほしかった。

 何もできない無力な僕に、明日奈を、知奈を支えることができるのなら、僕は、どうすべきなのか。


「こんにちはー、宅配便でーす」

 そんなふうにひとり部屋で本のページをひたすらにめくり続けていると、夕方頃になって玄関の呼び鈴とともにそんな声が聞こえてきた。


「鳴沢裕典さんあてに宅配でーす。お間違いなければハンコかサインお願いしまーす」

 玄関に出て、送り主の名前を見てみると、

「……明日奈?」

 そこには、深浦明日奈の文字があった。


 はやる気持ちでサインを済ませ、荷物を受け取った僕はそそくさと部屋に戻る。

「……なんで、明日奈から荷物が。だって、とてもじゃないけど宅配なんて送れる状況じゃ……」

 恐る恐る荷札を覗いてみると、品名は「花」と書かれている。


「一体、何のつもりなんだろう……」

 きっちり梱包された段ボールにハサミを入れて開封すると、なるほど中身は明日奈の一番好きな向日葵の花束が入っていた。それも、数え切れないくらいの本数が詰まった。


「……こんな、突然花束……? あ」

 僕が不思議に思っていると、段ボールの奥底に水色の便箋が入っていて、その便箋に「裕典へ」という文字が書かれているのを見つけた。


「……手紙、って」

 明日奈の状態が状態だけに、そんな生易しいことを書いている手紙ではないのは確かだろう。自然と便箋を持つ両手は震えだしてしまう。


 しかし、読まないわけにはいかない。これ以上、事実から目を背けるわけにはいかない。

 ゴクリと生唾を飲み込んだ僕は、ぶるぶるとした指先で便箋のシールを剥がして、手紙の中身を読み始めた。


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