その真っすぐな目に映っている女の子は、誰ですか?

 待ち合わせの場所には約束よりも早いタイミングで到着した。呼び出しておいて遅刻するのは論外だし、せめて時間だけでも余裕を持って行動しておきたいと思ったから。


 加速していく心臓の鼓動を自覚しながら、私は学食の隅、座席に座ることなく物陰に隠れるようにして裕典の到着を待つ。

 彼は待ち合わせの十五分前に学食に到着した。ファストフード店でクリームソーダを注文し、ひとりティータイムを楽しんでいる姿が視界に入る。


 ……大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。


 バレない、バレるわけがない。私はお姉ちゃん、私は深浦明日奈。

 誰よりも、そこに座っている鳴沢裕典を好きでいる年上の女の子。


 初めて陽の目を浴びる髪の毛をなびかせ、私は勇気を出して彼のもとへ歩みだす。

 お願い、気づかないでください。私が、私であることに、気づかないで。


 裕典の後ろからこっそり歩み寄り、私は震えそうな声と手を必死に抑えつけ、

「ふふふ、だーれだ?」

 そんな明るい声音とともに彼の視界を奪った。


「……明日奈しかいないでしょ」

 私の内心とは裏腹に、裕典は迷うことなく「正解」を口にする。


「…………。せいかーい。さすが裕典―、何でもお見通しだね?」

 彼の真横に座って手を外すと、ちょっとだけ困惑した表情を浮かべていた。

 良かった、姿を見られてもバレてない。

 私、お姉ちゃんできてる。ちゃんと、深浦明日奈になれてる。


「……それで、なんで今日は病院じゃなくて大学なの? 外出許可でも下りた?」

「んー、そういうわけでもないんだなー、それが」

「さすがに病院抜け出す悪いことには付き合えないからね、僕」

「……検査の数値が安定してきたからね? 退院して自宅で過ごしてもいいですよって先生に言われたんだ」


 流れに乗ってしまえば、すらすらと会話を進められる。長話し過ぎてボロを出してしまうのも嫌だから、私はあっさり自分が退院した、という嘘を裕典についた。


「はい? 今、なんて?」

「うん、退院したよ? 私」

「……ドッキリなら早めに言ってね?」


「ドッキリじゃないんだなあこれが」

「ほら、いつもの『噓噓ごめん、空言だから』使うなら今だよ?」

「嘘でも空言でもないからなあ」

「……ほら、サプライズだよ、サプライズ。退院したよーって言って裕典驚かせたかったんだよ」


 当然、裕典がそんな嘘をスムーズに飲み込めるわけがない。長いことお姉ちゃんは入院していたんだ。いきなりぽっと退院しましたって言って、へえそうなんだとなるほうがおかしい。


「……本当、なんだ?」

「…………。本当、だよ」

「……そっか、そっかぁ……。良かった、良かったよ……ほんとに」


 ゆっくりと、時間をかけて裕典は嘘を咀嚼していく。すると、一粒の輝きが、裕典の目に光ったのを私は見逃さなかった。

 泣いていた。お姉ちゃんが退院した、という嘘を聞いて、裕典は泣いていたんだ。

 チクリ、胸の奥が針に刺されたような痛みが走る。じわり、じわり、じわり。痛覚を優しく撫でていくこの感覚に名前をつけるなら、きっとこれを罪悪感と呼ぶんだ。


「えっ、ちょっ、な、泣くほど? な、泣かないでよ裕典―、私が何か悪いことしたみたいになっちゃうよー」


 どの口が言う。悪いことなら、しているくせに。

 この嘘に気づいたら、裕典はなんて言うんだろう。


 怒るだろうか、泣くだろうか。叫ぶだろうか、詰るだろうか。それとも、裏切られたと感じるだろうか。いずれにしろ、いい感情が生まれるわけなんかないことは、予想に難しくない。

 きっと、深浦知奈のことなんか、顔も見たくないほどに大嫌いになるだろう。それくらいのことを、今私は彼にしている。わかっている。


「ご、ごめん。つい……す、すぐ、すぐ収まるから」

「もー、私のこと好き過ぎかよう」

 だけど神様、お願いします。どうか、どうかしばらくの間だけ、嘘をつかせてください。


 彼の真っすぐな瞳に映っている女の子を、深浦明日奈でいさせてください。

 そのためだったら、私はどんなことだってするから。


 始めのうちは、全然良かった。カラオケに行ったり、映画館に行ったり、カフェでまったりしたり。

 お姉ちゃんとして裕典と接することは、これまで「彼女の妹」でしかなかった私にしてみれば、距離が詰まったことになる。


 望んだ形ではないけど、彼女として裕典と関わる時間は、確かに私の心の片隅を毛布でくるめるみたいに、優しく温めてくれた。

 私だったら見せてくれない表情も、言葉も、仕草も、お姉ちゃんとしてなら見ることができる。


 その事実が、嬉しくて、だけどやるせなかった。

 違和感は、確かに私のなかに降り積もっていった。


 裕典と一緒に過ごしている時間は良かった。温かい時間を、送ることができるから。

 問題は、裕典と別れた後、家にひとりでいる時間だった。


 当然、お姉ちゃんは病院だし、お母さんもついていく形で実家に戻っている。お父さんは単身赴任だから、家には誰もいない。私しか、いない。


 だから、時折空しくなるんだ。

 私がついている嘘は、いずれ必ずバレる時計仕掛け。そうなったら、確実に裕典に嫌われる。お姉ちゃんだって、いなくなってしまう。


 そうなったら、私はどうなってしまうのだろう。

 いや、もしかしたら、私がお姉ちゃんとして裕典の目の前に現れた時点で、深浦知奈という存在は裕典のなかで、いなくなってしまったんじゃないかって。


 なんて考え始めてしまえば、次第に私は罪悪感の上に恐怖まで抱くようになっていった。

 裕典を騙していると罪悪感と、自分が消えてしまう恐怖に。

 いつしか、裕典に気づいて欲しいって感情と、気づかないで欲しいって感情がぶつかるようになり、もう気持ちの整理がつかなくなるのも、時間の問題だった。


 その恐怖を、きっちり理解したのは、裕典に頼まれて、知奈としてお姉ちゃんの誕生日プレゼントの助言をすることになったお出かけの日。


 裕典の私への対応は、まさしく「彼女の妹」へのそれだった。

 私にかける言葉も、表情も、態度も、全てが。

 お姉ちゃんのふりをしているときは見ることができた裕典の笑顔が、安心しきったように漏れる抜けた声が、私は見ることができない。


 極めつけは、神戸の夜の出来事。

 裕典を誘ったのは、お姉ちゃんのバケツリストに書かれていたから。外堀を埋めて、逃げ場を無くした私は、そうやって裕典を誘い込んだ。


 見透かされていた。

 お姉ちゃんと違って、キスはおろか、誰かと付き合ったことすらない私に、それを飛び越えて最後まで行く勇気なんて、あるはずがなかったんだ。

 裕典の顔が近づいたとき、ほんとに僅か、ちょっとだけ、身体が震えた感覚がした。


 決して、嫌とかそういうわけではなかった。

 一瞬でも、怖いと思ってしまったんだ。


 深浦明日奈として、私と裕典が一線を越えることを。


 私個人のこともあるし、何より裕典が気づいたらどう思うだろうか。彼女だと思って抱いた女は、実は妹でしたなんて、ホラーもいいところだ。

 そういった諸々が頭に過ったのを、私は裕典に見透かされたんだ。

 裕典に「止めようか」と言われたとき、どこかでホッとしてしまった私がいたんだ。


 限界なのは、目に見えていた。


 そしてダメ押しとなったのが、次の日のこと。

 私の「誘い」を断ったことに、きっと裕典は罪悪感を持ったんだと思う。


 だからだと思う。北野異人館で、裕典は私にサプライズ的にドレス撮影の機会をプレゼントしてくれた。これが予定していたものではないことは、わかっていた。

 胸の奥が詰まってしまうくらいに、嬉しかった。嬉しくないわけがなかった。


 お姉ちゃんのバケツリストのなかにも、書かれていたんだ。冗談みたいな書き口でだけど、「綺麗なドレスを着て裕典と写真を撮りたい」って。


 嫌だなんて、言えるはずもなく、私は溢れそうな感情を必死に抑えつけてただただ裕典の言うことを聞いた。もう、お姉ちゃんのふりとか、そんなことを考える余裕は残っていなかったと思う。


 更衣室で並んでいたドレスの数々を目の当たりにして、また胸がいっぱいになってしまう。


 私が選んだのは、微かに水色がかったドレス。


 中には、それこそウェディングドレスみたいな純白のものもあった。でも、それだけは選べなかった。いや、お姉ちゃんが着たいドレスはもしかしたらそれなのかもしれないけど。

 お姉ちゃんのふりをして私がその無垢な汚れのない真っ白なドレスに身を包むことが、許せなかった。


「綺麗だ」と裕典は言ってくれた。嘘偽りのない裕典の言葉を、素直に受け取れたら、どれだけ良かっただろう。


 お姉ちゃんとしてじゃなくて、知奈として言ってくれていたら、どれだけ嬉しかったのだろう。私に囁いてくれる優しい言葉が、私に向けられていたなら、どんなに幸せなことだったのだろう。


 スタッフさんの発案で、私は手にしていた向日葵のブーケを裕典に渡すポーズを取る。それは、結婚式のワンシーンに似たものを感じるには、十分すぎるものだった。


 あのとき、私が渡した向日葵の花束は、七本。偶然なのかはわからない。でも、七本の向日葵の花言葉は──密かな愛。まるで、今の私の現状を当てはめるにはぴったり過ぎる言葉だ。


 別れ際、さらに裕典は私と選んだプレゼントも渡してくれた。

 中身は、向日葵の飾りがついた綺麗なネックレスと、指輪。

 お姉ちゃんの指のサイズに合わせたから、当然私の指に合うはずもない。仮に合ったとしても、つけられるわけがない。


「……っ、大好きかよお、お姉ちゃんのこと……」


 こんなに綺麗で、真っすぐ好きという感情が乗ったプレゼントを、ただの「妹」である私が身につけられるわけがない。

 誰もいない自宅。私は人目をはばからず嗚咽を漏らす。

 涙で歪んだ視界のなか、スマホに保存された昨日今日の神戸旅行の写真を抱きしめる。


「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。お姉ちゃんじゃなくて、ごめんなさい」


 わかっている。もう身に染みるほど理解した。

 お姉ちゃんと裕典の間に、私が入り込む余地なんて一ミリも残っていない。そんなのはわかっている。でも。


 この想いに気づいて欲しい。

 気づかないで欲しい。


 すると、パリン、と心のなかでガラスが真っふたつに割れる音が聞こえた気がした。


 無理だよ。「裕典さん」の側にいたら、どうしたって好きになってしまう。惹かれてしまう。

 それがお姉ちゃんへの裏切りになってしまうとわかっていても、どうしたって。


 ねえ、裕典さん。


 あなたのその真っすぐな目に映っている女の子は、明日奈ですか? それとも、知奈ですか?


 私のことに気づかないで、でも気づいて欲しい。

「だーれだっ」とお姉ちゃんのふりをして近づく私を、私だと気づいて欲しい。


 ──けど、気づかないで欲しい。


 相反するふたつの感情に板挟みになって、

 もう、どうしたらいいのか、わからないよ。


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