純度100%でできたガラスの嘘

 裕典さんと仲直り(そもそも喧嘩と呼べるかどうかも怪しいけど)を果たしてからは、三人で病室の時間を過ごすことがほとんどになった。そうなるのは、自然な流れだった。


 私は毎日、というわけにはいかなかったけど、裕典さんは変わらず毎日お姉ちゃんのもとに通い詰め、いつしか私だけでなくお母さん、限られた機会しか東京に来られないお父さんにも顔を覚えられ、良好な関係を築いていた。


 裕典さんが、この一年で病室に来なかったのは、受験間近で裕典さん自身が体調を崩してしまった数日のみ。

 彼の気持ちは、清々しいまでに本物だった。


 それから月日が流れ、私の受験も終わって、無事お姉ちゃんたちと同じ大学への入学が決まった。裕典さんは大学生になっても、病室通いをやめることはしなかった。


 私たちの関係も大きく変わることはなく、私は裕典さんにとって「彼女の妹」のポジションを確かなものにしていった。八月三〇日が誕生日のお姉ちゃんに渡すプレゼントだったり、クリスマスの計画だったり、そういうキーとなるイベントの相談を私は裕典さんから受けるようになった。


 複雑か複雑じゃないかで言えば間違いなく前者だ。でも、お姉ちゃんへの真っすぐな想いを知っている私に、その気持ちを遮ることなんて、できるはずがない。お姉ちゃんを大切にしたいのは、私だって同じなのだから。


 ふたりで選んだプレゼントやサプライズに喜ぶお姉ちゃん。そんなリアクションを見て安心する裕典さん。微笑ましい彼氏彼女のひと時を眺めて心の片隅が温かくなる私。


 でも、そんな幸せな三角形は、長くは続いてくれなかった。

 確かに、兆候はあった。

 体力が目に見えて落ちていたり。

 食べられる量も、減っていたり。

 私たちは、懸命に見ない振りを、あるいは良くなると信じていた。それでも、恨めしいほどに、お姉ちゃんの病状は一定の速度で進行していた。


 事実を告げられたのは、私が大学二年に上がる春のこと。今から半年前。

「……私、長くてあと一年なんだってさ」

 病室の窓から覗く桜の花びらをぼんやりと眺めながら、お姉ちゃんはなんでもないように私に言った。


「え? い、今、なんて」

「……あと、一年だって。えへへ、とうとう余命宣告受けちゃったよ、私」

 当然、理解なんてできるはずがない。何を言っているのか、受け入れられなかった。


「末期なんだってさ、私。これまで、頑張ってきたけど、もう、頑張れないんだって」

「……嘘、嘘だよ。どうして」

「あーあ。もう人生終わっちゃうのかー。まだ、まだまだやりたいこと、結構残ってるんだけどなー」

 どうして、そんな落ち着いていられるの。いつも通りで、いられるの。


「ゆっ、裕典さんには、このことはっ」

「言わないよ」

 裕典さんの名前を出したのは、咄嗟のことだった。突然のことで頭は回っていなくて、つい、口から零れたんだと思う。


 返ってきた答えは、予想を裏切るものだった。これまでの、緩やかな口調とは一転、芯を残した、固いお姉ちゃんの決意が垣間見える。


「……言わない。裕典には、絶対にこのことは言わない」

「なんで、それじゃあ、裕典さんに隠したままでいるの? 何も、言わずに」

「……何も、考えてないわけじゃないよ」


 そして、触れただけで指先が切れてしまいそうな、嘘を聞かされる。

 優しすぎる。あまりにも、優しすぎて、触っただけで怪我してしまいそうな、時計仕掛けのガラスの嘘を。


「……本気で言ってるの、お姉ちゃん」

「うん。本気だよ」

 もう、余命がどうこうとか、そんな大事なことも頭から吹き飛んでしまうほどの、嘘だった。


「そんな嘘、良くないよ。お姉ちゃんの気持ちはどうなるの? 許されるわけがっ」

「……いいんだよ。私は十分すぎるくらい裕典からたくさんのものを受け取った。優しさも、希望も、明日を願う感情も。もう、両手いっぱいに収まらないくらいに。なのに、私は裕典に何ひとつ返してあげられてない。……私なりの、恩返しだよ、これは」


「だ、だからって、やっていいことと悪いことがあるよっ。こんな、裕典さんを騙すようなことっ……」

「うん。全部、全部私が持っていくから。その嘘の罪も、罪悪感も、申し訳なさも全部、私が持っていくから」


 だから、とお姉ちゃんは、いつもみたいにふわりと表情を綻ばせては、続けた。

「……深浦明日奈として、裕典に、思い出を作ってあげてください。こんなこと、知奈にしか、頼めないんだ」


 それはつまり、私にお姉ちゃんのふりをしろということ。お姉ちゃんのふりをして、元気になったふりをして、裕典さんに元気なお姉ちゃんと過ごした思い出を作ってあげるということ。


「無理だよ……できるわけないよ、そんなこと」


 もう、残りの命が長くないことが主治医の先生から告げられているお姉ちゃんに代わって。


「大丈夫だって。私たち、双子ってくらい外見似てるし。喋りかたと髪さえ似せたらきっと裕典も気づかないって」


 お姉ちゃんの計画では、次の大きな検査が終わり次第、お母さんの地元にある病院に転院して、そこで最期のときを迎えるつもりらしい。そのほうが、実家を頼れる分お母さんの負担も減るから、という理由で。


 ただ、裕典さんを放っておくわけにはいかない。何も言わずに転院してしまうのは、それこそ裏切り行為になってしまう。

 だからこその、私がお姉ちゃんのふりをする、ということなんだけど。


「でっ、でもっ」

 気が引けるとか、そういうレベルではない。


「あ、もしかして知奈のおっぱいにホクロあるの気にしてる? へーきへーき、だって私たち四年も付き合っているけどキスまでの健全なお付き合いしかしてないから、バレないバレない」

「そっ、そういうことじゃっ……」


「……そういうことなんだよ。四年も裕典に彼氏やってもらってるのにね? 裕典の私との思い出は全部、この病室のなかで完結しているんだ。ひどい彼女だよね」

「ひどくなんかっ、ない。だって、仕方ないことでしょ」


 私は、なんとかお姉ちゃんを説得しようとした。だって、どう考えたって間違っている。おかしいに決まっている。

「……仕方ないことかもしれないけど、その仕方ないで、裕典の思い出をこんなちっぽけな空間に閉じ込めるのは、嫌だよ。私」

 なのに、お姉ちゃんはなかなか折れてくれない。諦めてくれない。


「お願い、知奈。お願い。……ひどいお姉ちゃんだってわかってる。最低なことを言ってるのもわかってる。それでも……」

 ベッドの上、横になっているお姉ちゃんは、あろうことか私に向かって深々と頭を下げて、額を布団の上に擦りつけた。


「……嫌いだった私の名前に、意味をくれた男の子を、幸せにしたいんだ。いつ死ぬかわからない状況で、明日のことなんて考えたくなかった私に、また明日、裕典と会えることが待ち遠しくなって、明日を楽しみにさせてくれた裕典に、思い出をあげたいんだ。裕典のおかげで、初めて、自分の名前が好きになれたんだ。だからっ」


 無理だった。自らの命を賭けてまで懇願するお姉ちゃんの姿を見て、断われるはずがなかった。


「……わかったよ。お姉ちゃんのふり、するから」


 私は、共犯者になった。この、純度百パーセントの優しさで出来上がった時計仕掛けのガラスの嘘の、共犯者に。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る