絶対に叶わない片想い

 次に私と裕典さんがまともに話したのは、夏休みなんてとうに過ぎた九月も下旬に差し掛かった頃。


「もう、ちゃんとご飯も食べないとだめだし、寝ないともたないよ? 受験は体力勝負なんだから。ただでさえ模試とか講習で日程が混み混みになるのに、今から追い込んでたら倒れちゃうよ? はい、私のとこなんか来ないで帰った帰った」


「え、えっ、あっ」

「一度ゆっくりリラックスする時間取ったほうがいいと思うよー。今の裕典の顔、私が言うのも変だけど、病人っぽいし」

 そんな話し声が聞こえると、とぼとぼとした足取りの裕典さんが病室から出てきた。


「あっ」

 廊下で立ち聞きしていた私と目が合い、私たちの間の空気が止まる。

 秒針が半周くらいする間、ずっとそのままだったので、さすがに痺れを切らした私が沈黙を打ち破った。


「……あの、帰らないんですか。お姉ちゃんにも、帰れって言われたのに」

 可能な限り、敵意を出さないように。努めて落ち着いた声で、私は話す。

「ははは。聞かれちゃってたか。……いや、まあ、その。帰りたくない、なあって、思ってて」


 裕典さんはすると、乾いた笑い声をあげつつ、ぽりぽりと頬を人差し指で擦りだした。


「……それ、私に言います? 私を誘ってどうするんですか、お姉ちゃんを誘うべきなんじゃないんですか」

「僕も言ってから思ったよ」

 良かった、意外と普通に話せる。これなら、なんとかできるかもしれない。


「……コーヒー」

「え?」

「コーヒー、奢ってくれたら、暇つぶしの相手くらいはしてあげますよ。まだ、家帰りたくないんですよね。相手がお姉ちゃんじゃなくて不満かもしれませんが」


 それでも、お姉ちゃんみたいにまっすぐにはなれなくて、捻くれた誘いかたになってしまったけど。

「……この間の着替え代、まだ貰ってないですし」

「あっ。うん。もちろん。コーヒーくらいだったら、何杯でも」


 込み入った話になる予感はしていたので、病院の談話室ではなく、私たちは病院近くにある喫茶店に入った。

 注文したアイスコーヒーふたつが、カラン、と小気味いい音を立てながら私たちの目の前に踊る。


「なんで、帰りたくないんですか」

 窓際のテーブル席、カラカラとグラスのなかの氷をストローで掻きまわしながら、私は単刀直入に尋ねた。


「別に、大したことじゃないんだ。明日奈さんが置かれている状況に比べたら、僕のなんて笑っちゃうくらい幼稚な問題だよ」

 裕典さんは、ちょっとだけ苦しそうに表情を歪めながら、コーヒーを口に含むと、「……やっぱり苦いね」と呟いて、ガムシロップを後から注いだ。


「……明日奈さんってさ、いっつも笑ってるでしょ?」

「は、はい」

「明日奈さんが僕に見せてくれる笑顔がさ、僕が日常生活のなかで得られる唯一の笑顔なんだ。昔も、今も」

「……どういう、意味ですか」


「出来損ない、親不孝者、大馬鹿者、授業料泥棒、底辺。……こんな子なら、産むんじゃなかった」

 立て続けに並べられた罵倒の羅列。突然のそれに、私は言葉を失う。


「全部、親から僕に言われたものだよ。僕の家は良く言えば教育熱心な家庭でさ。悪く言えば、入学した学校の偏差値しか頭にない親なんだ」

 淡々とした口調で、裕典さんは話を続ける。店内に流れる、穏やかなクラシックのBGMが、より彼の話に哀愁を加えさせていた。


「小・中・高といわゆる『お受験』をしたよ。そのために塾だって通った。友達と遊ぶことは禁止させられたし、漫画やゲームだって当然触れさせてもらえなかった」

「……そんな」


「父親が有名大卒でね? 母親は逆にあまり勉強してこなかったんだ。だからかは知らないけど、どっちも僕に勉強することを強いるんだ。……片や、自分の成功体験をなぞらせたいために、片や、自分の失敗を繰り返させないために。その気持ちは、わからなくはないんだ。誰だって、子供に成功して欲しいと願うのは自然なことだと思う。ただ、僕の親は、それがちょっとだけ、歪んでただけ」


 カラン、コロン、と裕典さんはガムシロップを注いだコーヒーをかき混ぜ続ける。


「でもさ、僕が今の都立の高校に通っているのはさ、つまりはそういうことなんだよ。僕は、受験に失敗し続けたんだ。そうなると、もう家庭環境は最悪だよね。親は僕を敵みたいな扱いをするし、今度の大学受験だって必要以上に干渉してくる。家に笑顔なんてあるわけがない。家に帰りたくないっていうのは、それが理由」


 刹那、私はだんだんと過去の自分の発言を恥ずかしく感じ始めた。お姉ちゃんの言葉の意味を、じわじわと理解していく。


「……高校で図書局に入ったのは、ささやかな親への反抗だった。学校のなかでくらい、好きにさせてくれ、っていう。そんなときだよ。明日奈さんと出会ったのは」

 すると、そこまで陰鬱とした顔つきだった裕典さんの表情が、少しずつ解れていった。


「きっかけは、図書室で触った本が重なって、手と手が触れ合うベタベタのものだったけど。それを機に、意気投合してさ。色々な面白いことを僕に教えてくれたんだ。アニメや漫画だって、明日奈さんのおかげで触れることができた。今まで勉強しかしてこなかった僕がさ、初めて人生で楽しいって思える瞬間だったんだ。これまで、苦しいとか、辛いとかしか、味わってこなかったから。……だから、僕にとって明日奈さんは、ある意味救いだったんだ」


 きっと、お姉ちゃんとのことを思い出して、表情が綻んだのだろう。そんな裕典さんの何気ない仕草にさえ、お姉ちゃんへの想いが伝わってくる。


「……だから、明日奈さんが倒れて入院したってなって。怖いんだ。明日奈さんを失うのが。たまらなく。怖くて怖くて仕方ない。でも、それでも明日奈さんは、変わらず笑ってくれている。怖いのは、自分だって、同じか、それ以上のはずなのに。……知奈さんの言うように、自己満足かもしれない。自分のためって言われても否定できない。それでも、僕が明日奈さんにできることは、会うことだから。……僕にだって、明日奈さんの代わりなんて、いないんだよ」


 どれだけ長い、独白だっただろう。どれだけの想いが、込められていたのだろう。目の前にいる彼も、私と同様に恐怖を抱いていた。私と同じで、お姉ちゃんを失うかもしれない今に怯えていた。


 少なからず、私が自己満足や自己陶酔なんて粗雑な言葉で、罵倒していい人じゃなかった。お姉ちゃんの、言う通りだった。

 この人は、鳴沢裕典という人は、本当に心の底からお姉ちゃんを必要としてくれている。


 そのことが、私は嬉しかったんだ。


「……この間の発言、撤回させてください。酷いこと言って、すみませんでした」

「えっ、い、いいんだよ別に。そんなに気にしてたわけじゃないから」

「お姉ちゃんを、よろしくお願いします。裕典さん」

「……初めて、名前で呼んでくれたね」

「え?」


 私がそう言うと、裕典さんはほんの少しだけ目を細めては、嬉しそうに口元を緩め微笑んでみせた。


「……やっと、ご家族に認めてもらえた、そんな気がしてさ」


 そして、このときからだった。

 お姉ちゃんに想いを寄せる裕典さんに、こっそり好意を抱き始めたのは。つまるところ。


 私は、絶対に叶わない片想いを、密かに始めたんだ。


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