ふたつの衝突

 それからというもの、私が病院に行く日は決まって必ず裕典さんが先に病室でお姉ちゃんと楽しそうに話をしていた。雨の日も、風の日も、休みの日でも、テスト期間で授業が早く終わる日でも。


 なんだったら、家族よりも、お姉ちゃんの病室を訪れているんじゃないかとすら思えてくる。看護師をしていて勤務が不規則なお母さんや、名古屋で単身赴任しているお父さんよりも。病室でひとり退屈そうに本を読んでいるお姉ちゃんのもとに、裕典さんはいつもいた。


 病院ですれ違う看護師さんにも、「お姉さん、彼氏さんが毎日来てくれるから寂しくなくていいですね」と言われるレベルで。


 ……私でさえも、たまに病院に行けない日があるのに。なのに、どうして私よりも忙しいはずの受験生の裕典さんは、毎日来ているのか。


 だんだん私は、はじめ無感情・冷淡な態度を取っていた裕典さんのことが、ある意味気になり始めていた。いい意味なのか、悪い意味なのかは、わからないけど。


 夏休みに入る直前の、期末テストの時期のある日。その日は昼過ぎから予報外れの土砂降りが空から落ちてきていて、学校から真っすぐ病院に行くつもりだった私は一度家に帰って着替えてから病院に向かうことにした。


 傘さえも意味を成さないんじゃないかっていう雨脚のなか、私は頼まれた着替えと読みたい本や漫画をバックに詰め込んで、お姉ちゃんに届けに行く。


 傘だけじゃなくてレインコートも羽織ったほうが良かったかな、と内心後悔しつつも、病院備え付けの傘袋に傘を突っ込んで私はうっすらと濡れた髪と肩もそのままに病室へと進んだ。のに。


 そこにあったのは──

「もうー、毎日会いに来てくれるのは嬉しいけどさー、裕典が風邪引いたら元も子もないじゃんー。ミイラ取りがミイラになっちゃうよ?」

 笑えないレベルでずぶ濡れになった裕典さんと、そんな彼を諭しながら、制服のワイシャツを脱がせて全身をバスタオルで拭いてあげているお姉ちゃんの姿だった。


「あっ、知奈ちょうどいいところに。ちょっと裕典こんなだからさ、下のコンビニで着替え買ってきてくれない?」

「……え、わ、わかった」


 私はすぐに荷物を荷棚に置いて、早足で病院一階にあるコンビニへと歩いていく。

 一瞬サイズがどうなのだろうと悩む瞬間もあったけど、記憶のなかの裕典さんの背格好を探って、大体これくらいだろうと当たりをつける。

 待たせるのも良くないだろうから、すぐに病室に戻って買った着替えをふたりに渡す。


「ありがとう知奈―。助かったよー。後でお金渡すから」

「いっ、いえ、これは僕が」

「いいから裕典は早く着替えて」

「……女性ふたりの前で、これ以上服を脱ぐのはさすがに憚られるというか」


 着替えを手にして、気まずそうに私たちふたりを見渡した裕典さん。……確かに、それもそうか。

「えー、別にいいじゃん、付き合ってるんだし」

「……そうかもしれないですけど、ここ病院だし」


 渋るお姉ちゃん、いや、これはただ単に裕典さんの体を観察したいだけだろう。

「ほら、裕典さん困ってるから一度外そう? それこそここでモタモタしたら風邪引いちゃうし」

 裕典さんが躊躇うのも当然だったので、私はベッドに座っていたお姉ちゃんの手を取り、半ば強引に病室の外に出る。


 それで安心したのか、閉めた扉の向こうから裕典さんが服を脱ぐ音が微かに漏れ出る。

「あーあ、せっかく裕典の生着替えを特等席で見られると思ったのになー」

「お姉ちゃん……がっつき過ぎじゃ」

「まあまあまあ。ちょうどいいし、私トイレ行ってくるよ」


 その場を離れたお姉ちゃんに残された私。少しすると、ゴシゴシとタオルで体を拭く音が小気味よく響いてきたのち、

「すみません明日奈さん、着替え終わり……って、あれ、知奈さんだけ?」

 扉をスライドさせた裕典さんが顔だけ廊下に覗かせ様子を窺ってきた。


「……姉ならお手洗いに行ってます」

「そ、そっか」

 ファーストコンタクトがあれだったので、まだ裕典さんは私との距離感を測りかねているみたいだ。それは、私だって同じだけども。


「あっ、お金。着替え買ってきてくれたんだよね。いくらかかった? 多分明日奈さん、僕からお金受け取ってくれないから、直接渡してもいい?」

 病室に入って財布にしまっていたレシートを見せると、裕典さんはすぐにその分のお金を私に差し出した。……ちょっとだけ、多い。


「あの、金額」

「ぴったりないから、これで。お釣りとかいいから。持っていって」

 臆面なく表情を緩ませる裕典さん。


 ……本当に、この人は何なのだろうか。

 毎日毎日お姉ちゃんのもとに通い詰めて、受験生なのに。暇なのだろうか。友達いないのだろうか。

 天気も時期も関係なく、こんな雨の日でさえも自分のことを気にせず病院に来て、馬鹿なんじゃないか。


「……と、知奈さん?」

 お姉ちゃんのことよりも自分のことを心配したほうがいいんじゃないか。そんな中途半端な勉強でどうにかなるほど大学受験は甘くないこと、お姉ちゃんを見て私は知っている。

 どうかしている。この人は、どうかしている。


「……あ、あの。お金」

 なかなかお金を受け取らない私を見て、裕典さんは不安そうに私の顔を覗き込む。瞬間、

「……馬鹿にしないでください。それで私を取り込むつもりですか」

 思考を介さず、言葉がつらつらと自分の口を衝く。


「えっ、と、取り込むって……?」

「……偽善者ぶるのもいい加減にしてもらっていいですか。そんなにお姉ちゃんに恩を売って楽しいですか。病室で何もできないお姉ちゃんの面倒見るのがそんなに面白いですか。それともか弱いお姉ちゃんを助けている自分に酔っているんですか」


 きっと、お姉ちゃんから初めて裕典さんのことを聞いたときから抱いていた違和感が溢れ出たんだと思う。

 両親が家にいないことが多く、家の時間のほとんどを一緒に過ごしたお姉ちゃんを、誰かに取られるかもしれない。


 そんな嫉妬が。心の引っ掛かりが。

 言葉となって表に出てきたんだ。


「いいですよね、選べる立場の人は。お姉ちゃんにとってはあなたしか心を許せる相手はいないかもしれないですけど、あなたは仮にお姉ちゃんがいなくても代わりの女の人を好きになれますもんね。そんな心の余裕があるからですか? 受験生なのに毎日ここに来て。勉強とかしなくてもいいんですか?」


 今にして思えば、とんでもないことを私は口走っていた。裕典さんに、その場でぶたれていても文句を言えない酷いことをぶつけていた。


「……代わりなんていないよ。僕に、明日奈さんの代わりなんていない」

「そんなの、口だけならなんとでも言えますよね」

「……そうかもね。偽善かもね。酔ってるだけ、かもね。そうかも、しれないけど、僕にできることは、これくらいしか」


「……いらないです」

「え?」

「……あなたからお金なんて、受け取りたくないです」


 自分でもこんな冷え切った声が出せるんだって、驚くくらい凍てついた態度だった。

 行き場を無くした裕典さんの右手は所在なさげに戻っていき、握られていたお金も申し訳なさそうに財布のなかにしまわれた。


 そんな折に、

「たっだいまー」

 この流れにしてみれば能天気と言うほかないお姉ちゃんが、病室に戻ってきた。


「およ? どうしたのふたりとも、こわーい顔して」

 さすがに雰囲気を察したのか、心配そうに眉をひそめたお姉ちゃんはキョロキョロと私と裕典さんにそれぞれ視線を送る。


「いや、何もないですよ? ごめんなさい明日奈さん。今日は僕、帰りますね。すぐ洗濯してお風呂入らないとまずいでしょうし」

「あ、う、うん。そうだね。ちゃんと体温めるんだよー?」

 結局その日は、どこかぎくしゃくした空気のまま、裕典さんも私も、お姉ちゃんの病室を後にした。


 この雨の日以降、裕典さんは私を避けるようになった。いや、それでもお姉ちゃんのもとに通い続けることは止めなかったのだけど、私と明らかにタイミングをずらすようになった。


 私にしても、あんなこと言った手前、顔を合わせたら今度はどんな言葉の暴力を振るうかわかったものじゃなかったので、この裕典さんの大人の対応はある種助かったと言える。


 二週間くらい経った頃だろうか。学校が夏休みに入って、授業があるときに比べてお姉ちゃんのもとに行くのが容易くなった時期のある日の午後。

 この日も、私はたまったお姉ちゃんの洗濯物を受け取りに病室を訪れていた。


 初めは適当に世間話をしていて、穏やかなムードだったのだけど、

「……ねえ、知奈。あの大雨の日、裕典に何か言った?」

 ふいに発したお姉ちゃんの問いで、流れが変わった。


「……何かって、何?」

「あの日から、裕典の様子、ちょっとおかしいんだよ。病院自体には、変わらず毎日来てくれるんだけど、どこか表情は浮かない感じだし、前ほど、笑ってくれなくなった、っていうか……」


「受験勉強で忙しくて、余裕無くなってきたんじゃないの」

「受験で忙しいのは、何も今に始まったことじゃないよ」

「じゃあ、成績出なくて悩んでるとか」


「それならそれで、話してくれればいいのに」

「お姉ちゃんの前だと、格好つけたいんじゃないのかな」

「……ねえ。何か、私に隠してるよね。知奈。裕典に、何言ったの」


 普段から快活で明るいお姉ちゃんが、らしくなく今は声音を落としていた。いや、無理にでも落ち着かせていたのかもしれない。

「私は、何も──」

「──昨日。裕典、ちょっとだけ辛そうに私に聞いたんだよ。『僕が毎日来るの、迷惑だったりしますか?』って。びっくりして、声も出なかった」


 きっと、お姉ちゃんは、私がしたことに薄々気づいていたのだろうから。

「……これが最後だよ。知奈、あなたは裕典に、何を言ったの」

 誤魔化せる自信なんて、残っていなかった。私は弱々しい声で、お姉ちゃんの質問に答える。


「……偽善者ぶって、楽しいですか。それともか弱いお姉ちゃんの面倒を見ている自分に酔っているんですか。余裕があって、いいですね。って」

 途端、タオルケットを握りしめるお姉ちゃんの右手がわなわなと震えだす。


「なんで。……なんで、そんな酷いこと言えるの」

 怒っていた。このときのお姉ちゃんは、間違いなく怒っていた。十六年お姉ちゃんのことを見てきたなかで、久々に触れる「怒り」の感情だった。


 普段から笑顔を絶やさず、どんなときだって明るく振る舞い、多少の出来事にも動じないお姉ちゃんが、このときだけは、静かに怒りを燃やしていた。


「……だって、お姉ちゃんのこと何も知らないくせに、何も、わからないくせに」

「私だって、裕典のこと全部知ってるわけじゃない。それは、知奈だって同じでしょう?」


「それに、私にはお姉ちゃんしかいないのに。……お姉ちゃんしか、いないのに、そんな、ぽっと出の裕典さんに、お姉ちゃんを取られる気が、して」

「……知奈」


 けど、その燃え上がった激情は、花火みたいに一瞬で散った。次のとき、ベッドの横で座っていた私の頭を、ポンポンと優しく撫でられる感触が走った。


「……お姉ちゃん?」

「私は、どこにも行かないよ。ううん。どこにも、行けないから。……だから、誰にも取られたりなんてしないよ」

 さっきまで冷え切った口調だったお姉ちゃんの声は、今はあやすように優しいものに変わっている。


「裕典のこと。少し知ったら、知奈もそんなこと思わなくなるよ」

「なんで、私があの人のことを」

「……知奈はさ、私にとっても一番身近な家族だからさ。お母さんは仕事で忙しいし、お父さんは単身赴任だし。だから、そんな唯一に近い家族に、自分の彼氏を少しでも理解して欲しいって思うのは、自然なことじゃないかな」


 お姉ちゃんの優しい言葉に、私は何も言えなくなってしまう。たったふたつの年の差なのに、私がひどく子供のように思えてしまう。

「……知奈なら、わかってくれるよ。裕典は、偽善や自己陶酔なんかで、私に優しくする人じゃないって」


 そこまで話すと、お姉ちゃんはパンと手を叩いて会話の流れを一度物理的に区切る。


「はい。この話はここまで。らしくなく真面目な話しちゃったよ、もう。……すぐにとは言わないからさ。裕典ともちゃんと話してね、知奈」

「……う、うん」

「約束だからね? 妹と彼氏がぎくしゃくしてると、私気遣わないといけなくなるからさ」


 もしかしたら、喧嘩にさえ発展するかもしれないと予感した瞬間もあった。けど、上手いことお姉ちゃんに話をまとめられた。

 怒られるよりも、効果はてきめんだったかもしれない。


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