断章

何も知らないくせに

 私が初めて裕典さんのことを知ったのは、お姉ちゃんが自分の部屋で夜楽しそうに電話をする姿からだった。

「お姉ちゃん、電子辞書貸してくれない?」


 私が高一、つまりお姉ちゃんが高三の秋のある日の夜。翌日の古典の授業で現代語訳を当てられることがわかっていた私は、古語辞典を使うために電子辞書を持っているお姉ちゃんの部屋を訪れた。

 ノックの返事を待つことなく、お姉ちゃんの部屋に足を踏み入れると、


「おわわっ」

 私の突然の来訪に驚いたお姉ちゃんは、手にしていたスマホをお手玉してから、くるりと勉強机から振り返って私のほうを向く。


「あれ? 深浦先輩? どうかしたんですか? 先輩―?」

 お姉ちゃんが握りしめてるスマホからは、聞いたことがない男の人の声が漏れていて、それを聞いた私と聞かれたお姉ちゃんが少しの間無言でじっと視線を交差させると、


「……どうしたの? 知奈」

 恥ずかしそうに頬を赤らめながら口に指を一本立てたお姉ちゃんの表情は、私が今まで見たことのない──つまり、恋する女の子──のそれだった。


「で、電子辞書、貸して欲しくて」

「いいよー」


 私は電子辞書を受け取ると、これ以上邪魔するのも憚れたので、すぐにお姉ちゃんの部屋を立ち去る。その際、お姉ちゃんは申し訳なさそうに眉をㇵの字にさせながら、片手で謝る素振りを見せて電話へと戻っていった。


「ごめんごめん、妹が電子辞書借りに来てね? えーっと、それで、何の話してたんだっけ」

 それが、裕典さんを初めて知った日の出来事。


 最初は名前も知らない、ただの男の人だった。


 父親は名古屋に単身赴任、母親は看護師で家を空けることが多かったため、私にとって、最も身近で信頼している家族は、お姉ちゃんだった。


 だから、このときの私は、そんなお姉ちゃんを奪おうとする見たこともない他人に、嫉妬していた。


 どうせ、お姉ちゃんのこと何も知らないくせに。可愛い外見と混ざりけのない快活な性格に釣られているだけだ。


 今でこそ落ち着いているけど、お姉ちゃんは昔からちょくちょく病院のお世話になることが多かった。入院も何度か繰り返すほどには、お姉ちゃんの体は、丈夫にはできていなかった。


 お姉ちゃんの事実を知ったら、きっと気持ちが離れるに決まっている。

 ただの他人が受け止めるには、お姉ちゃんの人生は重すぎるんだ。


 そんなことを、私は考えていた。


 でも、私の思いとは裏腹に、お姉ちゃんと名前も知らない男の人は徐々に徐々に距離を詰めていった。いや、というよりかは、お姉ちゃんが積極的に近づきにいったんだ。


 受験勉強で忙しい時期に、勉強しながら電話を繋ぐほどの仲なんだから、ある意味当然なのかもしれない。それに、電話しているところを私に見られて以降、お姉ちゃんはその人のことをあまり隠さなくなった。


 名前は鳴沢裕典、お姉ちゃんと同じ高校に通う二年生。つまり私のひとつ先輩にあたる。裕典さんもお姉ちゃんと同様、図書局に所属しているみたいで、放課後当番などを通じて仲良くなっていったらしい。


 そして、お姉ちゃんの第一志望校の合格がわかり、受験生活が終わりを迎えた時期のこと。

「……あのね。私、裕典に告白しようと思うんだ」

 自分で作ったカレーライスを口に運びながら、真剣な面持ちでお姉ちゃんは私に話した。


「私の受験はもう終わったし。春から大学生と高校生で、生活リズム大きく変わっちゃうし。それに今度は裕典が受験生になっちゃうから、実はあんまり猶予無いんだなーって思ってね。えへへ……」

「……そっか、上手くいくといいね」


 このときの私は、まだ裕典さんのことを冷めた目で見ていた。いや、直接会ったことはまだないのだけど、どれだけお姉ちゃんが裕典さんとの出来事を楽しそうに話していても、一歩距離を置いて聞いている私がいた。


 だから、明け透けなことを言えば上手くいこうが失敗しようがどっちでも良かった。失敗したらそれはそれでお姉ちゃんは傷つくかもしれないけど、傷つくのが今なのか未来なのかの違いだけ。

 仮に上手くいったとしても、きっとお姉ちゃんの体のことを知ったら。

 ふたりの関係は、終わるに決まっている。


 お姉ちゃんの高校の卒業式の日。

 その日、卒業証書の筒を持ったお姉ちゃんは、嬉しそうに顔を綻ばせて、家でのんびりテレビを見ていた私に言った。


「やったよ。うまくいった。付き合えることになった」

「……そっか、良かったね」

 心の底から祝福するわけでもなく、ただなんとなく喉を衝いた上っ面の言葉を編む私。


「ふふふ、そのうちお家連れてきて知奈にも紹介するね?」

 まさに幸せの絶頂、と表現するのがぴったりなくらい、お姉ちゃんは終始頬を緩めていた。自然と鼻歌が漏れ出ていたし、足も勝手にリズムを刻んでいた。


 本当に、今この瞬間を、お姉ちゃんは大事に噛みしめていたんだと思う。

 でも、その幸せは、笑えないくらい一瞬のものだった。


 同じ年の四月半ば。東京の桜も葉桜になった頃合い。新学期にもある程度慣れてきて、変かした生活が馴染んできたときのこと。

 その日のお姉ちゃんは、一限から授業があったみたいで、まだ高二の私と同じ時間に家を出た。


 最寄り駅から満員電車に揺られて、私たちはそれぞれの学校へ向かう。はずだったのだけど。

 下りの各駅停車がホームに滑り込んできて、ドアを開けた瞬間。

 今まで隣で普通に話していたお姉ちゃんの身体が、綺麗な円を描いて倒れた。


「おっ、お姉ちゃんっ?」

 予兆もない突然の出来事に、私は地面ギリギリにお姉ちゃんの身体を支えて声を掛ける。

 しかし、呼びかけにはっきりとした返事はなく、青白くなった顔色に苦しそうに歪むお姉ちゃんの表情に、私は全てを理解した。

 ああ、凪の時間は終わってしまったんだ、って。


 駅員さんに助けを呼び、救急車でいつも通院している病院に搬送してもらう。

 搬送された病室前のベンチに座って、物思いにふけていると、


「えっと……もしかして、明日奈さんの妹さん?」

 お姉ちゃんの通っていた高校と同じ制服を着た男の人が、おもむろに私に声を掛けた。


 なんとなく、私はその人が誰なのか、うすうす察することができた。

 きっと、お姉ちゃんの彼氏だ。……割とすぐ病院に来た。もっと遅くなると思ってたのに。


 外見からの第一印象は、柔和な顔立ちの雰囲気で、どこか頼りなさそうな人。

 実際、この病院に来るのが初めてだからか、忙しなく周りをキョロキョロしつつも、同じベンチの端に彼は座る。


「……はい。そうですけど、あなたは」

「あ、ごめんなさい、そうだよね。知らないよね。その……お姉さんとお付き合いさせてもらってる、鳴沢裕典って言います。お姉さんと同じ高校に通う、今は三年です」

「……深浦知奈、です」


 お互い、たどたどしい自己紹介だった。もっと他に言うべきこと話すべきことがあったのかもしれないけど、お姉ちゃんが目の前で倒れて頭が真っ白になっていた私に、それほど多く余裕は残っていなかった。


「……姉でしたら、今は眠ってます。別に今すぐどうこうなるってわけでもないので、そんなに心配もしなくていいと思います」

 だから、必要最低限の情報だけを、事務的に裕典さんに伝える。裕典さんはそれを聞くと、ホッと胸を撫で下ろしたかと思えば、帰る素振りを見せることなくそのままベンチに腰掛け続ける。


「……帰らないんですか? 今日平日ですし、授業だってありますよね? 多分、目が覚めるまで時間かかりますけど。三年生ってことは、受験勉強もありますよね。こんな、無駄な時間を過ごしている場合じゃ」

「授業は、今日は、いいかな。……それに、無駄ではないと、思うよ」


 隣に誰かいるのが落ち着かなくて、ひとりになりたくて、つい裕典さんに冷たい態度が滲みでるようなことを口走ってしまう。でも、裕典さんはそれに気を悪くすることなく、淡々と私に話しかける。


「……単純に、明日奈さんの近くにいたいんだ。多分、今はここ以外、どこにいてもそわそわして何も手がつかないから」

「そうですか。……なら、勝手にしてください」


 別に喧嘩をしたいわけではない。ならこれ以上のコミュニケーションは無駄でしかない。


 そうと決めたら、私は一メートル隣に座る裕典さんに構うことなく、ただただお姉ちゃんが目覚めるのを待ち続けた。

 そして、それは裕典さんも同じだった。


 私の横で待つ間、単語帳のひとつすら開かなかった。ただただ、両手を膝の上に置いて、その時を待っていた。

 別に、この隙間時間で勉強したって、罰は当たらないだろうに、裕典さんはそうしなかった。


 結局、その日お姉ちゃんが意識を取り戻したのは夕方五時過ぎ。面会ができるようになったのは夜の七時過ぎ。その時間まで、裕典さんは何ひとつ「暇を潰す」ことなく、ベンチに腰を掛けていた。


 私の驚きはそれだけに留まらなかった。

 お姉ちゃんの長期入院が決まって、着替えなど必要なものを持って病院に向かうと、既に病室には裕典さんの姿があった。


「あっ、知奈も来たー。やっほー、いらっしゃーい」

 私の姿を認め快活な調子で呼ぶお姉ちゃん。私は背負っていたリュックを下ろし、ベッド横の収納棚にいったん置く。


「あれ? 知奈と裕典はもう会ってたんだっけ」

「……お姉ちゃんが倒れた日に」

「あー、そっかそっか。それはご迷惑ご心配をおかけしました」

 ベッドの上で横になったまま、お姉ちゃんは私と裕典さんに頭を下げる。


「でもまさか、家族に裕典を紹介するのがこんな形になるとは思わなかったなーえへへ」

 次の瞬間、ちょっとだけ恥ずかしそうに頬を桃色に染め上げながらお姉ちゃんは、

「改めてになるかもしれないけど、彼が鳴沢裕典。私の、彼氏さんです」

 私に裕典さんを紹介した。


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