第16話 「だーれだっ」の正解は

 旅行が終わってからというもの、これまで毎日来ていた明日奈からの連絡が少しずつ鈍くなっていたんだ。

 例えば、僕らがちょくちょくデートで使う多摩センター駅の近くにある喫茶店で、夏限定のスイーツが発売になったから、食べに誘ったら明日奈が喜ぶかなと思ってラインで声を掛けてみたけど。


深浦 明日奈:ごめんねー、その日ちょっと用事があって

深浦 明日奈:また今度、一緒に行こ?

深浦 明日奈:スタンプを送信しました


 日を改めても、誘い文句の中身を変えてみても、明日奈のリアクションは変わらなかった。そんなことを繰り返していると、やがて既読さえもつくのが遅くなっていき、そして。


 夏休みの間、これまで毎日のように取り留めのない話をラインでしていたのに、それすらもなくなってしまった。

 ……やっぱり、簡単に許せることじゃなかったのかな。いや、そうだよね……物でご機嫌を取るみたいな形になってるし、全然良くないよね、まずかったのかなあ……。


 そんなことばかりを頭のなかでぐるぐると考えていると、ふと手元に置いていたスマホが着信を知らせた。

「……知奈、から?」


 それは、明日奈からではなく、妹の知奈から。珍しい、彼女から電話なんて初めてじゃないだろうか。


「も、もしもし」

「あ、良かった出てくれた。お久しぶりです、知奈です。裕典さん、今大丈夫でしたか?」

「う、うん」


 電話に出ると、明日奈とは正反対の落ち着いたトーンで話す知奈の声が聞こえてきた。

「あの。明日って空いてたりしますか? ちょっと、来ていただきたい場所があって」


「……明日? 今のところ大丈夫だよ」

「良かったです。詳しい場所と時間は、後でラインするので、それを参考にしてもらってもいいですか?」

「お、おっけー」

「ありがとうございます。では、明日お待ちしてます」


 事務的に、必要最低限のことだけ、いかにも知奈らしい電話だった。

 いや、ちょうどいいかもしれない。明日、知奈に会ったら、明日奈がどうしているかチラッと聞いてみよう。それを、解決の糸口にするのもありかもしれない。っていうかそうしないといけない。このまま、ずるずる夏が終わってしまうのは嫌だった。

 そう思って僕は、ひとまず知奈との約束をした明日を待つことにした。


 翌日。僕は電車に数時間揺られて、知奈が指定した住所へと向かっていた。

 自宅の最寄りから乗り換えを三回。のどかなローカル線の車窓をぼんやり眺めながら辿り着いたのは、栃木県のとある駅。


「……栃木って、明日奈のお母さんのご実家があるところだっけ……?」

 明日奈が入院していたときに話した内容を思い出しながら、僕は駅から歩いて数分の道のりを怯えるように進んでいく。


 嫌な予感はするんだ。


 だって、知奈が指定した住所が指し示していたのは、病院だったのだから。

 なんでこのタイミングで、今まで全く関係のなかった病院に僕を呼び出したのか、理由が全くわからない。


 だからこそ、妙に胸がざわついている。

 閑静な土地に大きくそびえたつ病院の入口に到着すると、僕は知奈に「入口に着いたよ」と連絡を取る。


 間髪入れずに知奈から返事が来たので、言われた通りに僕は病院のなかを移動していく。

 たどり着いたのは、ひとつの病室。名札はどういうわけか表裏ひっくり返っていて、誰が使っているのか知ることはできない。


 どくん、どくん、どくん、と心臓は悲鳴をあげるかのごとくその鼓動を激しくさせていた。

 あとは、中に入るだけのはずなのに、怖くて体が動かない。


 何分か扉の前で立ちすくんだのち、ようやく覚悟を決めた僕は、真っ白なスライド式の扉を開けて、病室のなかにお邪魔した。


「し、失礼します……って、え……?」

 瞬間、目に入ったのは。


 点滴に繋がられて眠っている明日奈の姿と、そんな彼女を取り囲むおびただしい量の機械の数々。

 僕の思考がフリーズすると、さらに脳を焼きつける声が、耳に飛び込んできた。


「……だーれだっ」

 真っ暗になる視界。声。そして、夏らしく冷涼感に溢れたスースーとする香り。


 おかしい。だって、明日奈は確かに、ベッドの上で眠っていたはず。じゃあ、今僕の背後に回ってこんなことをしているのは、誰なんだ──


「……あ」

 そこに思考が行きついたとき、今まで散りばめられていた違和感が、ひとつの形となってスーッと収束していく。


 だから、シャンプーの香りが違ったんだ。カラオケも下手になっていたし、得意だった絶叫系も苦手になっていた。

 神戸の夜。しようとしたとき、怖がるのも当然だったんだ。


 だって、あの日。あの日だけじゃない。きっと恐らく、退院してきたと言った女の子は、明日奈ではなく──


「知奈……なの?」

「……もう、無理だよ。これ以上、裕典さんを騙せる自信、ないよお姉ちゃん」


 答え合わせなんて、する必要はなかった。するすると力なく解かれた手から視界が戻ると、涙でくしゃくしゃに濡れた顔を歪ませた知奈が、薄茶色の髪のウィッグを持って僕の目の前に座り込んだ。


「……ドッキリなら早めに言ってね?」

 僅かな可能性に期待して、僕は声を絞り出して彼女に聞く。

 もしかしたら、全部何もかもドッキリで、頃合いになったら眠っている明日奈が起き上がって「ドッキリ大成功―」と言って笑い話にしてくれるんじゃないか、って。


「ドッキリじゃないんだなあこれが」

「……ほら、いつもの『噓噓ごめん、空言だから』使うなら今だよ?」

「嘘でも空言でもないからなあ」

 でも、いつか交わした会話みたいに、知奈は僕の期待を明日奈の声真似で踏みにじる。


 そんな僕にとって優しい真実は、どこにも存在しえなかった。

「なんで、こんなこと」

「……あと少しなんです。お姉ちゃんが生きられる時間は」

 知奈の言葉と、目の前の現実がリンクすると、途端に恐怖が胸の奥底から沸き上がってくる。がくがくと、手足の指先が震える感覚が走る。


「……お姉ちゃんの希望だったんです。お姉ちゃんが、裕典さんに思い出をあげたいって。だからっ」

 あと少しって、あと少しって……どうして、何も言わずに、こんなことを。


「……だから、明日奈のふりを?」


「……でも、もう無理です。耐えられないです。裕典さんを騙している罪悪感も、お姉ちゃんの好きな人を泥棒している感覚も、日を追えば追うほど大きくなるだけでっ。……神戸のときだって。そう。本当は私、すごく嬉しかった、楽しかったんです。でも、もう気持ちなんてぐしゃぐしゃで。何もかもが初めてなのに、それは私としてじゃなくて、お姉ちゃんとして扱われた結果で。当然ですよね、だって騙しているのは私のほうなんだから。私として扱って欲しいなんて、お門違いもいいところなのはわかっているんです。わかっているけど、気づいて欲しいと、気づかないで欲しいが、私のなかでせめぎ合うんです……。だって」


 星みたいに綺麗な知奈の瞳から、ポツリと一雫、雨が落ちた。刹那。

「……お姉ちゃんの名前じゃなくて、知奈って、私の名前で、好きな人に呼んで欲しいって思っちゃうからっ……」


 行き場を失ってどうしようもなくなっていた知奈の感情が、決壊したダムみたいにとめどなく溢れ始めた。


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