第13話 残り5cmの距離感

「……ふう、ホテル着いたよ、明日奈。足の痛みはどう? 引いてきた?」

 なんとか帰ってきたホテル。大きいダブルのベッドに明日奈を下ろして、怪我をした左足の様子を見るため靴下を脱がす。


「っ、だ、ダメだよ……夕方に一回シャワー浴びたけど、そんなところ、汚いから。大丈夫だよ、裕典」

「……かなり熱持ってますね。ちょっと待ってください、帰りがけドラックストアで湿布買ってきたので、それ貼りましょう?」


「お、大げさだって裕典。これくらい、一晩横になったら収まるから」

「何かあったらって思うと嫌なんですよっ」


 遠慮する明日奈に、僕は不意に力なく叫んでしまう。

 僕の想いを汲み取ったのか、小さく笑ってみせた明日奈は、

「それもそっか。……でも、だったら先にお風呂入ってからがいいかな」

 そう言って、提案を受け入れた。


 互いに部屋のお風呂に入って、改めて今日一日の汗を流し、明日奈の足に湿布を貼りつけた。その後ふたりでまったりジュースだったり炭酸だったり飲んでのんびりしていると、時刻は二十四時近くになっていた。


 もうすぐ、日を跨ぐ。

 ふたりしてホテル備えつけの浴衣を身に包んで、「そろそろベッド入ろっか」と示しあって同じベッドの上布団を共有していると、ふと、ピト、と僕の手の指先に明日奈のサラサラな指が絡んできた。


「……あ、明日奈?」

 真っ暗な部屋、カーテンの隙間から零れる夜の街灯が、そっと朧げに僕らの輪郭を描き出す。


「……ごめんね。せっかくの旅行だったのに。私のドジのせいで大変な思いさせちゃって。重かったよね、長いことおぶらせたし」

 コツン、と僕の胸におでこをぶつけながら、明日奈はか細い声で言葉を漏らす。


「全然。軽かった軽かった。僕のほうこそ、段差にちゃんと気づいてたら、こんなことにならなかったわけだし。明日奈だけが悪いわけじゃないよ」

「……やっぱり、裕典は優しいなあ。そういうところ、大好きだよ」


 明日奈の優しい声が耳元に囁かれると、ベッドに備えつけられているデジタル時計が「0:00」を示す。それはつまり、

「誕生日、おめでとう。明日奈」

 今僕の目の前にいる女の子が、ひとつ年を重ねたということ。


「えへへ、二二歳になっちゃいました。まさか、こんなに大人になれるなんて、小さい頃の私なんか想像もできなかったよ」

「まさか。来年も、再来年だって。五年後十年後だって、もっと先だって。明日奈の誕生日が来たらお祝いするよ」


「っ。十年後なんて、三二歳だよ? もうその年になったら誕生日嬉しくなくなるよーもう」

 僕の言葉に、一瞬声を詰まらせた明日奈。しかし、すぐに首を左右に振っては、ベッドの上で横向きに向かい合った僕の目を恥ずかしそうに見上げてくる。


「……夏休みの最初にさ。私、誕生日プレゼントは、裕典がいい。って言ったでしょ?」

「う、うん。だから、色々明日奈に付き合っているわけで」

「今。……今、この瞬間。裕典が欲しいって言ったら、応えてくれる?」

「……へ? それって、どういう」


 瞬間、向かい合っていた明日奈に僕の身体をきつく抱きしめられる。薄い浴衣の生地越しに、明日奈の全てが伝ってくる。

 熱い体温も、早くなっている心臓の鼓動も、途切れ途切れに聞こえる吐息の音も。全部が。


「……どういうって、こういうことだよっ」

「……明日奈、ちょっと落ち着いて」

「落ち着いてる。私は落ち着いてるよ。……四年だよ? 付き合い始めて。裕典には長いこと我慢させてきたって自覚してる。私を大切にしてくれてるのも伝わってる。……だから、欲しいんだよ、裕典の全部が」


 そして、それが明日奈だけじゃなく、僕もだっていうことに気づくのに、時間はかからなかった。


「……ぴったりだと思わない? 誕生日に、はじめてを迎えられるんだから。今日逃したら、一体いつするんだよって、裕典だって思うでしょ?」

 舞台は、これ以上ないほどに整っていた。明日奈の言い分もわかる。僕らは四年かけて、関係を大事に積み上げていった。


 ……そろそろ、次のステップを踏んでも、いい頃合いというのも、理解できる。それが、明日奈からの誘いなら、なおさら。

 僕が曖昧な態度を見せてお茶を濁していると、指先を絡め合って繋いでいた手から、くるりと体勢をひっくり返されて、


「……どう? これで、少しはその気になった?」

 僕が明日奈の上に重なるような格好になった。挑発するような目に、はだけた浴衣の隙間から、真っ白な明日奈の柔肌が暗闇に浮かび上がる。


「ほら、据え膳食わぬは男の恥って言うでしょ? 目の前に格好の据え膳がいるよ? 美味しく食べてもらえると私としては嬉しいんだけどな」

 クラクラしそうだ。一体全体、好きな人からこんなこと言われて、冷静でいられる人間なんているのだろうか。いたら教えて欲しいくらいだ。


 強引にでも気持ちを落ち着けるために、僕はひとつ深呼吸を挟む。

 ベッドの上、一五センチにも満たない僕らの顔と顔の距離。

 僕は、意を決して明日奈と事をするため、桃色の唇めがけて自分の顔を近づけた。はずだった。


「…………?」

 残り五センチ。それでも何回かしたことのあるキスをしようとした瞬間、繋いだままの明日奈の手がビクン、と微かに跳ねたように感じた。


 僅かに抱いた違和感は、次に目に入った、ブルブルと震えている華奢な肩で確信へと変わった。


「……ゆ、裕典?」


 が始まる覚悟を決めていたのかもしれない明日奈は、動きを止めた僕をやや不安そうな目で見上げる。


「今日は、止めよう」

「……え、え? どうしたの?」

「だって、明日奈、本当は怖いんでしょ?」


「……っ。こ、怖くなんて、ないよ。全然、いつでもウェルカムだよ、私は」

「強がらなくていい。体は正直だよ。思い切り、震えてる」

「そっ、そんなことない。む、武者震いってやつだよ。これは。怖くなんて、怖くなんてないよ、裕典が気を遣うことなんて、何もっ」


 なおも食い下がろうとする明日奈の両肩を掴んで、僕は自分の首を大きく左右に振る。


「……何年付き合ったとか関係ない。僕らは僕らのペースで進んでいけばいいんだよ。四年だから、誕生日だからって、焦ってするようなことじゃない。……それで、お互い嫌な思いするのも、違うでしょ?」

 最後に、はだけた明日奈の浴衣をそっと直して、胸元に映るホクロを視界から消す。


「僕は、明日奈が怖がっているのに無理にするつもりなんて更々ない」

 苦しそうに作り笑顔を浮かべた明日奈は、そんな表情を隠すためか、僕の身体を強く引き寄せ顔を埋める。


「……なんで、そういうことはすぐ気づくのかなあ、裕典は」

 浴衣に擦りつけるように漏れた明日奈の呟きは、はっきりと聞き取ることができなかった。

 そのまま僕らは、何もすることなく、ただただ同じ布団のなかで夜を明かした。


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