第12話 いつだって笑ってくれていたから

 そうして、神戸の星空と夜景に別れを告げ、僕は明日奈を背中に抱えたままロープウェイとケーブルカーを乗り継ぎ、摩耶ケーブル駅まで引き返すことができた。

 が、運が悪いのかタイミングの問題か、次の三ノ宮駅までの路線バスは三十分以上間が空くダイヤになっていた。


「明日奈、悪いけどここから駅まで歩くとどれくらいか調べてくれるかな」

「え、えっと……阪急の王子公園駅が割とすぐ近くにあるよ」

「……阪急なら三ノ宮までは帰れるね。よし、歩いちゃおう」

「え? け、結構キツい下り坂じゃない? 裕典の負担すごいじゃ」


「上りじゃないから大丈夫。それに、おぶってバス乗せて、降りるのも大変でしょ? 電車のほうが楽ちんだろうし」

「……そ、それは否定できないけど」

「よじ、じゃあ決まりね。明日奈、道案内よろしく」


 三十分バスを待つよりも、近くにある駅まで坂道を下りたほうがいいと判断した僕は、明日奈を背負ったまま閑静な住宅街が立ち並ぶ道を歩き出す。


「とりあえず、そのままずーっと道なりに進んでいっていいよ。そしたら阪急線の線路とぶつかるから、ぶつかったら右に曲がれば、もう駅だから」

「おっけ。りょーかい」


 人っ子ひとりもすれ違わないような静かな街並みで、ぺた、ぺた、とコンクリートを蹴るスニーカーの音だけが辺りに響き渡る。


「小学生くらいのときさ、この丸く掘られたところだけ踏んで帰る遊びとかしなかった?」

「……ごめん、僕そういう遊びとか無縁だったから」


 すると、坂道によくある丸い模様──正式にはOリングと言うらしい滑り止めを指さしながらふと明日奈はそんなことを言い出した。


「えっ。じゃあ横断歩道の白いところだけ踏むとか、日陰から出たらダメなゲームとか、そういうのもしてないの?」

「……してないね」


「まあ、それやりすぎて帰り道具合悪くなって救急車で運ばれたこともあったんだけどね。いやー、あのときはお母さんに怒られた怒られた。ちゃんと真っすぐ帰ってきなさいって」

「……そんな小学生の定番の帰宅ゲームに壮絶なオチつけなくていいから」

 なんだろう、明日奈のこの手の話で笑えないオチがついていること多い気がするんです。


「じゃあさじゃあさ、裕典も今から丸いところしか踏んじゃ駄目ってルールで坂下りようよ」

「……無茶ぶりにもほどがない?」

「だって、全人類が一度は通る遊びをしてないのは人生の〇割五分くらい損してるって」


「何その妙に説得力のある比率は」

「今なら背中に彼女がついてきます」

「彼女ができるような年頃の人間がする遊びじゃないんだよなあ」


「でも、最近の小学生は進んでるって話じゃん? もしかしたら彼氏くんが彼女ちゃん背負って丸いところだけ踏んで帰るゲームしているかもよ」

「……論点ずらさないで、僕ら大学生だから」

「もー、ノリ悪いぞー裕典―」


 背中からぶーぶーとブーイングが飛んでくる。……さすが明日奈の話術というか、こんなときでもあっという間に自分のペースに持ち込んでしまう。


「……僕が丸だけで歩こうとしたら、結構無理な歩幅で歩かないといけなくなって、明日奈の足に響くと思うんだけど」

「大丈夫大丈夫、いけるいけるー」

 そう唆されたので、試しに丸いところだけを踏むように歩いてみると、なるほど勝手に歩幅が大きくなるし、どんどんどんどん歩くスピードも加速してしまう。するとどうなるかと言うと、


「っっっっ、いたたたたっ、タンマタンマっ」

 そりゃあ明日奈の足も揺れるわけで、悶絶する彼女の悲鳴が背中から聞こえるのはあっという間だった。


「……ほら、言わんこっちゃない」

「うう……わかったよ、普通に歩いていいよ」

「賢明な判断ありがとうございます」


 無事明日奈の足を痛めつけながら歩かなくてよくなったところで、徐々に閑静な住宅街に線路を走り抜ける電車のガタンゴトンという音が僅かに聞こえようになってきた。


「駅もうすぐだね、裕典」

「うん、あとちょっとあとちょっと」

 坂の勾配が緩くなり、平坦な道に飲食店やコンビニの灯りも見えてくる。すれ違うこともなかった人の姿もチラホラと現れた。


「……あのさ、裕典」

「うん? どうかした?」

 それに機を発したのか、しみじみとした口調で明日奈が言葉を漏らす。


「……私と付き合ったこと、後悔してない?」

 ぽつん、と穏やかな水面が僅かに揺れるように、言の葉が僕らの間に舞い落ちる。


「……後悔って?」

「……そんなの。決まってるじゃん。身体のこと隠したまま裕典に告白してさ、いざ付き合い始めたらガタが来て長期入院だよ? ……重たい事情に、巻き込んじゃったって、ずっと思ってて。せめて、告白したときに、私が倒れる前に、話せてたら、また違ったのかもしれないけど」


 カンカンカンと、夜の帳が落ち切った住宅街に踏切の警報音が鳴り響く。歩き続けて数十分、ほんとにすぐに阪急線の線路に辿り着いたみたいだ。


「……私がこんな身体だって知ってたら、付き合わなかったでしょ?」

 踏切待ち、自嘲するような声を、接近してくる電車の走行音に紛れて僕の耳は拾い上げた。


「普通、嫌じゃん。病気持ちの彼女なんて。……したいこともろくにできずにさ、ただただ病室っていう箱庭だけが会える唯一の空間って。……息が詰まっちゃうよ。……だから、後悔させてないかな、ってずっと思ってて」


「……馬鹿も休み休み言ってくれないかな」

「へ?」


 展望台で怪我をして、こうしておぶられてホテルに戻る状況が、明日奈を珍しく弱気にさせたのか、僕の本心とは真逆の推測を立てては尋ねてくるものだから、

「一瞬だって、後悔したことはないよ」

 きっぱりはっきりと、僕は背中の彼女にそう告げた。


「……後悔なんて、するわけない」

「ど、どうして……?」

「明日奈のおかげで、今の僕があるんだよ。そうじゃなかったら、今頃僕は浪人生になって死んだ魚の目をしながら机に拘束されてるか、グレて親と家族の縁を切ってるか、二択だよ」


 この二択は言い過ぎかもしれないけど、実際明日奈に救われたのは事実だ。生きる屍になりかけていた僕に、生命を吹き込んでくれたのは、あの図書室での時間だ。


「そんなふうに出会った大切な人が、実は身体があまり思わしくなかった。だから何? それは、後悔する理由にはならないよ」

「でっ、でもっ。……裕典をあの病室に閉じ込めたのは事実でっ」


「……不謹慎かもしれないけど、病院に通い続けたのも、僕にとっては貴重な時間だったよ」

「あ、あんな狭苦しい空間にいて、いいことなんて」


「……図書室だって、狭い空間だったよ。それに、図書室だって、病室だって、狭い空間だったかもしれないけど、息苦しいと感じたことはない」

「な、なんでっ」

 そんなの、決まっている。


「……いつだって、明日奈は笑ってたから」

 それ以外に、理由なんて必要だっただろうか。


「どんな日だって、明日奈と会えば明日奈は僕に笑顔を見せてくれた。家族の笑顔さえ最後に見た記憶が思い出せない僕にとってみればさ、生きる希望だったんだよ。明日奈は」

「……あ、あう」


「だから、怖いよ。めちゃくちゃ怖い。明日奈が倒れて入院し始めたときから、今の今まで、いつだって明日奈を失うかもしれないことに怯えてる。……でもさ。だからって、明日奈と出会わなければよかったとか、付き合わなければよかったなんて、考えることにはならないじゃん」


 すると、僕の投げた言葉に悶えたのか、明日奈が背中にぐりぐりと自らの頭を埋めて「うううう」と音にならない声を漏らしている。


「な、なんだよう、私のこと好きすぎかよう」

「……好きだけど、何か?」


「聞いてない聞いてない、年下の男の子にここまで弄ばれるなんて私聞いてない」

「自分から話題振っておいてそれはないんじゃないですか……」


「反則っ、反則だよっ。ペナルティで裕典はずーっと私の側にいることっ、いいっ?」

「頼まれなくても、嫌って言っても側にいますよ」


 瞬間、高速で駆け抜ける電車が踏切を通過していく。轟音とともに僕らの目の前を走り抜けたそのとき、

「……嘘つき」

 囁くような声で、背中に擦りつけるように彼女は何かを呟いた。


「明日奈、何か言った?」

「ううん、何も? 気のせいじゃない?」

「……そっか。もうすぐ駅に着くし、ホテルまでもうひと頑張りだから」

「裕典も、だけどね」

「それもそうだね」


 遮断機が上がり、残り僅かとなった道のりもゆっくりと進んでいく。

 そうやって、僕と明日奈の夜ののんびりしたお散歩みたいな時間は、終わりに近づいていっていた。


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