第10話 ありたい生きかたとか

 そして、海に着いたところで僕の心拍数が落ち着くか落ち着かないかで言われたら、答えは後者しかありえない。

 なぜかと聞かれたら、理由なんてひとつしかないだろう。


「ごめーん、お待たせー」

 半強制的に持ってこさせられた水着に着替え、砂浜にビニールシートと日除けのパラソルを差して体育座りで半裸待機をしている僕の真横に、ぴょんと跳ねるように明日奈が飛び込んできた。


「水着なんて着るの久々だからさー、手間取っちゃったよー」

 ピカピカの笑みを携えている明日奈は、何ひとつ混ざっていない純白のビキニに、上はパーカーをゆるく羽織り、どこにしまっていたのか向日葵の花飾りのついた麦わら帽子までかぶっていて、


「……小説のヒロインか何かですか」

 思わずそんな感想がふいに零れてしまった。


「んー? 裕典、何か言ったー?」

 近い近い近い、こんな状況で手と手を重ね合わせないで、ときめき過ぎて倒れちゃうでしょうが。


 というかそんな至近距離近づかれたら、普段目にすることのない明日奈の真っ白なお腹の凹んだ部分だとか、開いたパーカーのチャックから覗く年相応それなりに膨らんだ胸だとか、あ、胸のところにホクロあるんだとか、考えなくていいことまで考えちゃうでしょうが。


「かっ、可愛いです、すごく似合ってます。な、なのでこれ以上僕を虐めないでください、どうにかなっちゃいそうなんです……」

 降参の意を伝えるためにも、両手をあげて僕は素直に思ったことを言葉にする。すると、


「…………。も、もっかい言ってくれない?」

 なぜからしくなく顔を赤くさせた明日奈が、照れたように俯いて視線を僕から逸らす。


「こ、これ以上僕を虐めないでください」

「ちっ、違うよ、そこじゃないよ」

「すごく似合ってます」

「お、惜しい、もう一声っ」

「どうにか──」

「──もーっ! わかってるくせにっ。あんまりひどいと怒るよっ?」


 そう言っている割には、耳まで熱くなっているのが見え見えで、それは普段から僕をおちょくって遊んでいる明日奈からすると、あまり見ないリアクションなわけで。

 いや、そんなところもギャップだと言うのなら、それも含めて、


「……か、可愛いです」

「……に、にへへ、裕典に可愛いって言われちゃった。嬉しいなあ」


 僕は明日奈をそう形容するしかなかった。

 さて、海に来たとて、海に入って泳いだりするかと言われたら、それも答えはノー。


 そもそもとして、明日奈は泳げないらしく、海で遊ぶ道具を持って来たわけでもないので、波打ち際でふたり並んで立って波に足を預け、水平線を眺めるなんてことをしていた。


「そういえばさ。明日奈って、向日葵好きだよね。何か、理由あったりするの?」

 太陽の光が反射して白く煌めく水面と、その奥に映る淡路島。足元を定期的に攫ってくる波に一抹のこそばゆさを感じつつ、僕は明日奈の麦わら帽子についている花飾りを見つめながらふと尋ねた。


「……僕に告白したときも、向日葵の花束持ってたし。使っている栞もさ、向日葵柄だったよね」

「んー、なんでだろうな。そんな、ちゃんとした理由があるわけじゃないんだけどさ」


 かぶっていた帽子を外して、向日葵の花飾りを優しく撫でながら明日奈は答える。

「常日頃から向けてくれる誰かの温かさに、きちんと向き合いたかったんだと思うんだ」

「……そ、それって?」


「ほら、私ってこんな体だったでしょ? だから、小さいときからみんなに優しくされるわけだよ。お母さんにも、お父さんにも、知奈にも、先生や看護師さん、近所の人、もうみんなから」

 過去を懐かしむように、明日奈はゆっくりと、僕に向けて言葉を編んでいく。


「それはそれで嬉しいんだけどさ、子供ながらに私は、誰かに優しくされればされるほど、自分に明日が来ないんじゃないかって、思うようになっちゃってさ。被害妄想もいいとこだけど。……それでさ、一回知奈のこと本気で傷つけたことがあって」


「喧嘩でも、したの?」

「そんなところ。私の誕生日に知奈、すごく大きな花冠作ってきてくれたことがあってね? まだ小学生でお金もないから、知奈なりに私を喜ばせようとしてくれたんだけど、私、自分の名前が大嫌いになるほどささくれてたからさ。せっかく作ってくれた花冠、ぐしゃぐしゃにしちゃって」


「それは、また」

 なんというか、今の朗らかで快活な明日奈からは一切想像ができない。


「もうお母さんにこっぴどく怒られてねえ。そのときに、ふと目に入ったんだ。……真夏の太陽を追いかけるように咲く、向日葵が。誰かの優しさを太陽とするならさ、その温かさを素直に享受できる、そんなふうに生きたいって思ったから、かな。つまりは、こうありたい私の姿ってわけだよー」


 最後に、明日奈はいつもの軽い口調に戻して話を締めた。

「……思った以上にちゃんとした理由でなんてリアクションしたらいいかわからないんですけど」


「へー、裕典が私のことどう思っているかがよくわかったよー」

「あっ、いやっ、ちがっ。別に、悪い意味じゃなくてっ──ぐえっ」

 僕が反応に困っていると、明日奈は突然足元に押し寄せた波をすくって僕のほうへかけてきた。おかげで、顔面から海水まみれだ。


「もー、湿っぽい話はやめやめっ。せっかく楽しい旅行なんだからさ、楽しいことしないと」

「……やってくれたね、明日奈」

 僕も仕返しとばかりに、明日奈に同じ攻撃をする。


「ひゃっ、ちべたいっ! やったね? 裕典、もうこれは宣戦布告と捉えていいわけだね?」

「……先に仕掛けたのは明日奈のほうだけどね」

「そうと決まれば……くらええっ!」


 結局、真面目な話は長くは続かず、ふたりでひたすら水を掛けあう不毛な争いが始まった。……いや、僕らが出会ったきっかけの小説のなかにも、こんなワンシーンがあったから、ある意味聖地巡礼と言えばそうなのかもしれない。


 数十分もすれば、全身水浸しになった男女ふたりが見事に出来上がった。


「……と、とりあえず。一回ホテル戻らない?」

「そ、そうですね……。さすがに、はしゃぎ過ぎたかもしれないです」


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