第7話 臆病者のかけた保険
図書局に入ってからというもの、ほぼ毎日の放課後を僕は図書室で過ごすことになった。そして、それは明日奈のほうも同じだったみたいで、出会いの段階から好感触だった僕らの仲が進むのに時間はそれほど必要としなかった。
これまでほとんど娯楽という娯楽に触れることができなかった僕に、明日奈は次から次へと小説に限らず、漫画、映画、アニメとおすすめの作品を教えてくれる。
日々の図書局の活動に加え、たまに局員で誘いあって放課後に遊びに出たりと、僕が知らなかったことを、たくさん教えてくれた。
そんな経験が、度重なる受験失敗で行き詰っていた勉強面でもいい影響を及ぼしたのかもしれない。高校に入ってからは、成績に関して親から何か口を挟まれることは無くなった。中学のときなんか、定期テストのたびにため息とともに小言を言われていたのに。
親との関係がぎこちないのは、過去も現在も変わらない。進路についてはきっちり口を出されていた。そんなのに嫌気が差して、大学だってひとり暮らしを無理やりしている。
明日奈と過ごす時間だけが、僕にとっての救いだった。
僕は明日奈と過ごしていると、自然と表情が綻ぶ。
明日奈だって、僕にたくさんの笑顔を見せてくれる。唯一にして、無二の。
気がつけば、もう僕は明日奈の虜になっていたんだ。
彩りを加えられた僕の高校生活は、あっという間に過ぎていった。春夏秋冬、それを二回繰り返すと、ひとつ学年が先輩の明日奈が、高校を卒業する季節が訪れた。
卒業式当日。卒業生とその家族だけが基本参加する式が終わった頃、僕は明日奈に呼び出されて慌てて学校へと向かっていた。
「伝えたいことがあるから、図書室に来て欲しい」
そう言われてしまえば、僕に断る余地はない。
桜が舞い散る校地内を駆けて、最上階にある図書室に到着する。
「深浦さん、来ましたよー」
が、しかし。鍵が開いていた図書室には誰もおらず、もぬけの殻になっていた。
「……いないのかな」
いや、いくらなんでも呼び出しておいて放っておくなんてことを彼女がするわけがない。そんな確信をもとに、僕はこれまで数え切れないほど明日奈と座ったカウンターの中を覗き込む。
「……ん? これは」
・913 Ⅰ9 7
・933 A28 17
・915 YO3 2
・913 KE13 5
・913 I9 2
カウンター内のテーブルの上には、見覚えのある字で書かれた一枚のメモがそっと置かれていた。
傍から見れば、意味のない英数字の羅列でしかないかもしれない。
「……茶目っ気あることするなあ、深浦さんは」
でも、図書室の住人になって、この羅列を見れば、自然と明日奈がしたいことがなんとなくわかってくる。
「……913は日本文学の分類番号、それの著者名『い』で始まる九番目の作者ってことは」
あった。……僕らが出会うきっかけになった本じゃないか。
この英数字の羅列を見れば、その図書館に配置されている本をひとつに特定することができる。図書分類の方法のひとつで、この番号を頼りに、どこの棚に本を入れるか決めるんだ。
そんな調子で図書室のなかを動き回った僕の手元に集まったのは、五冊の本。どれも、僕と明日奈にゆかりがある本。
「……それで、本を集めさせて明日奈さんは一体何を……」
何か共通点があるわけでもない。作者もジャンルもバラバラだし、じゃああとありそうな仕掛けがあるとすれば……。
「タイトルの頭文字……?」
そんな可能性に行きつき、僕は明日奈が並べた順番通りに本を並べ、頭文字を繋げて読む。
「屋上でまつ。……屋上? そんなところ、入れるの?」
……ええい、考えても仕方ない。僕の灰色の頭で考えつく答えがこれしかないんだから、それを信じるしかない。違ったらそのときはまた考え直せばいいだけの話。
僕は明日奈のメモを左手に握りしめ、図書室からまだ一度も足を踏み入れたことがない屋上へと向かい始めた。
高校の屋上と言えば、漫画やアニメ、小説において学園ものの鉄板と言えるくらい出てくるパワースポットだ。
ただ、現実に置いて屋上というものは、大抵が一般生徒の立ち入りは禁じられているケースがほとんどで、それは僕らが通う高校でも例外じゃなかった。
だから、屋上なんて訪れることさえ今までなかった。
恐る恐る、誰かに見られてないか周りを気にしつつ、屋上へと繋がる古びた扉のドアノブを回すと、なるほどかかっていないとおかしい鍵はかかっていなくて、すなわちそれは僕の答えが正解だったことを教えてくれた。
一歩踏み出すと、頭上には透き通るような青空と、風に吹かれる桜の花びらが広がる。柔らかな春の風は、僕と明日奈が出会った季節を思い出せる。
瞬間。
「だーれだっ!」
頭上に映っていた青色写真は一瞬で暗闇に包まれ、そんな耳触りの良い快活な声が聞こえてきた。
「……深浦さんですよね?」
「ふふふ、ぴんぽんぴんぽーん! 正解―! いやー、さすが鳴沢くん。私のメッセージもちゃんと解読してくれて安心したよー。もし来なかったら、このまま屋上で星空観察しないといけないところだったからさー」
明日奈は満足そうに頬を緩めては僕に視界を返し、両手に何かを隠しながらいそいそと僕の目の前に立つ。
「それで、伝えたいことって、何ですか? こんな、わざわざ回りくどいことしてまで」
「ちっちっちっ。演出だよ演出。どんな作品にだって舞台装置は必要でしょ?」
いつから僕らの人生は作品になったのだろうか、と内心突っ込みを入れたくもなったけど、ひとつひとつ丁寧に入れているとキリがないのでここはスルー。
「いやー、だってかれこれ二年も先輩後輩やってきたわけじゃん? 鳴沢くんとは」
「おかげさまで、僕は随分と楽しい高校生活を送らせてもらいましたけど」
「色んな本漫画アニメを布教してはさ、一緒に沼にハマってもらったり。たまーに放課後カラオケ行ったりさ? 特別なことは全然してこなかったわけだけど」
柔らかな表情を崩すことなく、明日奈は一歩、二歩と近づいては、桜色に染まった頬を僕の眼下に映り込ませる。
「……春から、大学生と高校生、ってなっちゃうわけだけど。私は、もうちょっと、君とトクベツ、なことしたいなーって。ほっ、ほらっ。聖地巡礼とかっ。私たちが出会ったきっかけの小説の聖地っ、神戸にあるんだけどさっ、ふたり泊まりがけで行ったら、楽しいって思わないっ?」
「……そ、それって」
その言葉の意味が察せないほど、僕は鈍くなかった。
男女が泊まりで出かけるなんて関係に、ラベルを貼りつけるなら、それは。
先輩後輩なんてもので足りるはずはない。
恥ずかしそうに、いじらしそうに、頬を指先で掻いた明日奈は、背中に隠していた三本の向日葵の花束を差し出して、
「……気がついたらさ、鳴沢くんと会える図書当番の日が楽しみになっちゃってさ。次はいつだっけなー、早く来ないかなーって。それが恋って知ったらさ、もう、ダメだよね」
立ち尽くす僕の胸元に、コツンと華奢な身体を預ける。
「……好き、なんだ。あっ、友達としてとか、後輩としてとか、そんな枕詞は抜きにね? そうじゃなきゃ、こんな、回りくどいこと、しないよ」
だから、と言葉を繋げた明日奈は、
「卒業してからも、鳴沢くんの側にいる理由を、私にくれませんか?」
淀みない声で、迷うことなく僕に想いを告げる。
一秒、二秒、三秒。僕らの間に沈黙とともに、温かな春の陽射しが流れ込んでくる。
向日葵に誘われた温かな空気が、一緒に僕の心までもポカポカとさせていく。
いや、側にいる理由が欲しかったのは、僕も同じだ。卒業を機に離れてしまうのが、僕は怖かった。
「……僕も、同じ気持ちですよ。だから、そう言って貰えるの、すごく嬉しいです」
答えなんて、決まりきっていた。
それが、僕らの始まりと、神戸が少し「トクベツ」な理由。そんなトクベツな場所を訪れるのに、このときから四年もかかる理由は、もはや言うまでもないと思う。
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