第6話 初対面の君と僕
*
僕と明日奈が出会ったのは、僕が高校に入学したばかりのときに訪れた図書室でのことだった。
当時から親と折り合いが上手くついておらず、できるだけ家に帰りたくなかった僕は、何か放課後に時間を使える場所はないかと探していた。
小・中と勉強しかしてこなかったから、部活の経験なんて皆無。運動もからきしだし、高校から何か始められる自信もあまりない。
それならば、親から黙認されている「読書」という行為に溺れてみるのもありかもしれない。そう思って、僕は放課後のあまり人気のない図書室を訪れていた。
「……へえ、蔵書の数多いんだ。読んだことない本がいっぱい……」
微かに開いた窓から、ほのかに春の匂いが流れ込んでくる。桜と、暖かな空気が、紙の匂いが染み渡っているこの空間に、優しく混ざり合う。
そんななか、僕は書架から一冊の本を見つける。
「……この本、なんだろう」
ソフトカバーの単行本、気になった本に手を伸ばそうとした瞬間、そっと春の香りに、甘いシャンプーの匂いが僕の鼻をくすぐったと思えば、
「「あっ」」
本の背表紙、横からすっと伸びてきた小さくて綺麗な手が、僕の手と重なり合った。
「すっ、すみません。ちょっと気になっただけなので。どうぞ」
リボンの色から、二年生の先輩なのはすぐに理解できた。ただ単に興味を惹かれただけだから、ここは先輩に譲ってまた別の本を探そう。
そう思って、そそくさと別の本棚に移動しようとした僕の肩を、彼女は引き止めた。
「きっ、君も、この本読むの?」
振り返ってみると、子供みたいに期待に満ち溢れた表情を浮かべた女子生徒が、一歩僕に近寄る。
「い、いえ。どんな本なのかなーって、思っただけなので」
「じゃっ、じゃあっ。まだ読んでないってこと? これから読むってこと?」
およそ図書室でする話し声としては、不釣り合いな大きさの声。が、首からぶら下がった名札を見て、ここは彼女の独壇場であることを知る。
「ご、ごめんね急にっ。私、図書局員で二年の深浦明日奈。ねえ、その本、まだ読んでないんだよね? 絶対読んだほうがいいよっ。すっごく面白いし、綺麗な小説だからっ。ね? ね?」
「え、い、いやっ、そのっ……」
「私その作家さんものすごーく大好きなんだけど、私の周りに知っている人いなくてさっ。もっと色々な人に読んでほしくて、私が希望出して図書室に配架してもらったんだ。まだ誰も借りてくれてないんだけど……。ね? 一目見て気になったんだったらきっと運命だよっ。絶対後悔させないからっ、とりあえず読んでみてよっ」
初対面でこのコミュニケーションの量。まあ、このときから明日奈は良くも悪くも明日奈だったわけで、僕にこれでもかとおすすめの小説を布教してきたわけだ。
「……まあ、そういうことだったら」
もともと、何か本を読むつもりで図書室を訪れたんだ。それなら、この先輩のおすすめに乗っかるのも、別に悪い話じゃない。
「わーい! ありがとう! 読み終わったら、感想聞かせてよっ。私、誰かと好きな本について感想語り合うの夢だったんだ。今、貸し出しの手続きをしてくるから。あっ、クラスと名前、聞かせてもらってもいいかな?」
「い、一年五組、鳴沢裕典です」
「ふむふむ、鳴沢くんね。ちょっと待っててねー」
風のようにカウンターに戻った彼女は、カチャカチャとキーボードを軽く叩いた後、ピッとスキャナーで本に貼られている図書室のバーコードを通し、
「はいっ。貸出期間は一週間。期間足りないってなったら、予約が入ってなければ延長もできるからね」
返却期日が記された案内を添えて、本を僕に手渡す。
「あ、ありがとうございます」
「いえっ。どういたしましてっ。それじゃあ、また来てくれるの、待ってるからね」
これが、僕と明日奈の出会い。どうしようもないほどありきたりで、けど、それでも僕にとって、忘れることのできない、出会いだった。
そうして借りた一冊の小説。僕は学校の休み時間や放課後、登下校の電車通学の途中、勉強の息抜きにページをめくっていった。
若手作家のデビュー二作目だというこの小説は、繊細に表現される心理描写と、とことんまでに登場人物を苛め抜く過酷な展開で、なるほどこれは人を選びそうな作品だと素人目にも感じられた。
ただ、その作風がどうやら僕の波長とはマッチしたのかもしれない。
ページを重ねるにつれて、自然と僕はその小説の世界にのめり込んでいた。
気がつけば僕は、
「……面白かったー」
借りてから三日も経たずして、その本を読破していた。
読み終わった放課後、僕はすぐに図書室に足を向けていた。別に返却の期限が迫っているわけではない。明日の昼休みに返しても何も問題はなかった。
でも、どうしてかはわからないけど、僕は読み終わったばかりのふわふわとした浮遊感を飼ったまま、家に帰りたくはなかったんだと思う。
つまるところ、僕は早く明日奈に会って感想を言いたかったんだ。待ってるよと言ってくれた、先輩に今すぐ会いたかったんだ。
はやる気持ちを抑えて、居残りしていた教室から図書室に移動する。扉を開け、図書室特有の本の匂いを全身で受け止めると、
「おっ、鳴沢くんだ。およ? もしかして、もう読み切ったの?」
カウンター内でひとり本を読んでいた明日奈は、僕の来訪にパタンと開いていた文庫本に栞を挟んでは、瞬間移動のごとく僕の目の前にやって来る。
「は、はい。それで、本を返しに来た次第でして」
パアっと瞳を輝かせた彼女は、すぐに僕の両手を取っては、ぶるんぶるん上下に振り回す。
「で? で? どうだった? 面白かった?」
「……面白かったです」
僕が答えると、目の前の先輩はそれは流れ星が煌めいたかのように表情を輝かせては、
「そっか、そっかそっか! それは良かったよ。じゃあさじゃあさ、実は同じ作者さんの作品私の希望で全作揃えてるんだけど、残りも読まない? これがハマるんだったら、きっと他の作品も好きになるって」
すぐに僕を図書室の本の海へと連れ出していく。
「あと、小説の中身もなんですけど、カバーイラストも妙に惹かれるというか、読み終わった後に改めてみると示唆に富んでるなあって思って」
「わぁ、うんうん、読む前と読んだ後でイラストから受け取る印象全然違うよねっ。うー、まさか感想を話し合える日が来るなんて夢にも思わなかったよー。えーっと、ここだここだ」
明日奈は僕らが初めて出会った書架の目の前まで来ては、作者の五十音順に整頓された棚から数冊のソフトカバーの単行本を丁寧に取り出す。
「はい。今うちの高校にある全部の作品だよ。どうする? 今日借りてく? 全部一気に、じゃなくてもいいけど」
「あー、さすがに一気だと一週間で読み切れる気がしないので、一冊ずつにしておきます」
僕は明日奈が持つ本の山から、デビュー作と帯に記されているものを選びとる。
カウンターに戻って、返却と貸出の手続きを取ってもらおうとすると、何かいいことを思いついたように明日奈はぱちん、と開いた手のひらに握りしめた反対の手を叩いて、
「あ、そうだ。鳴沢くん、部活は何か入ってる?」
「い、いえ。まだ何も」
「だったらさ、図書局入らない? 鳴沢くんとは本の趣味が合う予感がするし、これからももっと色々お話できたら嬉しいし」
僕を図書局へと勧誘した。
「ね? ね? 昼休みと放課後に、週何回か図書当番が当たるのと、月に一、二回定例の集まりがあるくらいだから、時間はさほど取らせないし」
渡りに船だった。
明日奈はもっと僕とお話をしたい。
僕は家に帰りたくないし、僕自身、このときから少しずつ、深浦明日奈という女の子に惹かれ始めていたのも、確かだったから。
「……僕でよければ、喜んで」
図書局入局を、断わる理由なんてどこにもなかった。
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