第1章

第1話 ドキドキの制限速度超過

 その日の夜。ひとり暮らししているアパートの自室でひとりお風呂上がりにアイスを齧りながら、適当な動画をパソコンで流し見していると、僕のスマホが明日奈からの着信を知らせた。


「あっ、さっきぶりー裕典。こんばんはー。今何してたー?」

「こんばんは、明日奈。何って……アイス食べながら動画眺めてたけど」

「えっちなやつ?」

「……アイス咥えながら僕にナニさせる気なんだよ。それで、何か用?」


 再生していたゲーム実況動画を一時停止させた僕は、デスクチェアからベッドの上へと場所を移動する。


「あはは、ごめんごめん。ほら、こういうふうに夜に電話するのも、恋人らしいでしょ? 前からやってみたかったんだよねー。病院だとほら、できなかったから」

「……まあ、それはそうだね」

「それに、裕典の声聞きたくなったっていうのもあるし」


 あまりの直球のデレに、僕は一瞬言葉を失う。おかげで、齧っていたガ〇ガリ君が部分的にポロリと膝の上に落ちてしまった。


「これからは、聞きたいときに裕典の声が聞けると思うと、なーんか嬉しいなあって、そう思うわけですよ私は」

「……だからと言って、夜中にいきなり電話かけたりしないでよ」


 明日奈のデレに反応したことを知られると、ますます調子づかせるだけなので、零れたアイスの欠片を拾い上げて口に放り込んでから、僕は落ち着いたふうに明日奈にそっと釘を刺す。


「さすがにそこまで非常識なことしないよー。モーニングコールくらいならするかもしれないけど」

「その絶妙にありがたいのかありがたくないのかわからないラインを攻めるのもできれば遠慮していただきたいのですが……」


「んー? 裕典は彼女からの甘い囁き声で目覚めたくないのかなー?」

「……それで? そろそろ本題に入らない? 話したいことがあるから電話したんじゃないの?」


 駄目だ、無抵抗だとどんどん明日奈のペースに巻き込まれてしまう。いや、別に駄目ってことはないんだろうけどさ。

「あー、ごめんごめん。裕典いじるの楽しくてつい」

「……楽しいのならそれは何よりです」


「うん、それでね? やっぱり恋人らしいことと言えば、デートでしょ? ふたりで、遊びに行かない?」

 そして電話越しに聞こえたのは、予想はしていた単語だった。


「どう?」

「彼女からデートに誘われて断る彼氏なんていると思いますか」

「さすが裕典―。話がわかるー。ってことは、裕典が私からのお誘いを断るようになったら、浮気を疑ったほうがいいと」


「…………。心配しなくても、明日奈以外の女の子と付き合う予定はないから」

「えへへー、やっぱり裕典に愛されてるなー私」

 心の底から嬉しそうに、蕩けた声を漏らす明日奈。


「おっといけない、それで、デートのことだけど。都合いい日ある? 私はいつでも大丈夫なんだけど」

 そのタイミングで、僕は齧っていたガ〇ガリ君を食べきり、残った棒をゴミ箱に放り投げてから、驚きの白さを保っているカレンダーを眺めながら答える。


「奇遇だね、僕もいつでも平気なんだけど」

「……えっ。前々から思ってたけど、もしかして私の彼氏、友達いない……?」

 事実だから何も言い返せない。いや、これを言うと明日奈が気を使ってしまうだろうから、本人には絶対言わないけど。


 毎日病院に通うために、サークルとか部活とか、やっている暇を作れなかったから。これに尽きる。

 だから、病院に通うという習慣が無くなった今、僕のスケジュール帳が洗剤もびっくりの驚きの白さを誇っているのは当然なわけだ。


「いないわけじゃないから。作らなかっただけだから。そこ、大事だから間違えないで」

「……それ、本当にぼっちな人がよく言う常套句じゃ」

「で、僕はいつでもいいんだけどさ、明日奈も退院したとは言え病み上がりなわけじゃないですか、そんな急に動きまわって大丈夫なの?」


「んー、まあ様子見つつってところだよね。大丈夫大丈夫、そんな富士山登頂とか、フルマラソン完走とか、バケツリストにありそうな過酷な目標立ててるわけじゃないから」

「……それを聞いて安心したよ」


「じゃあ、いつでもいいなら、明後日の午前十時に駅に待ち合わせでいい?」

「うん、いいよそれで」

「やった。じゃあそういうことで、よろしくね? 当日」


 そんなふうにして、付き合ってから初めてとなるデートの約束を取りつけた僕と明日奈。デートの話が終わってからも、ベッドの上でゴロゴロしながら取り留めのない話をしていた僕らは、気がつけば時計の針が頂点を越える頃合いまで、心が弾まずにはいられない雑談を繰り広げていた。


 迎えた二日後。明日奈とのデート当日。午前十時待ち合わせという、大学生にしては早起きで健全な時間集合ということもあって、目覚ましは何重にもかけた。

 が、その目覚ましを僕は使うことはなかった。どうしてかと言えば、


「あっ、おはよー裕典。起きた? 起きてるよね? あ、この電話切ってから二度寝しようとしたら駄目だからね?」

 朝七時きっかりに、枕元に置いていたスマホから騒々しい着信が鳴り響いたと思えば、電話の向こう側から調子のいい明日奈の声が聞こえてきたから。


「……朝からハイテンションなことで」

「清々しい朝だとは思わないかね、ワトソン君」

「……僕が朝あまり強くないの知ってるよね」

「うん。だからかけたの、モーニングコール。やったね、これでバケツリストひとつ達成だ」

「……それは、良かったです」


 朝起きた後は低体温なことが多い僕。小学校のときプール授業がある日の朝、検温をすると大概三五度ちょっとしか出ず、ちょくちょく保健の先生から心配された。

「それじゃ、予定通り十時に駅前でね。遅刻したら駄目だぞー」


 ピロンという音とともに、通話が終了する。そこで虚ろだった僕の意識がにたびベッドの上に吸い込まれかける。暖かい夢心地の世界に今にもダイブしかけると、

「……裕典のねぼすけさん」

 予想してかしらずかはわからない。ただ、狙ったようなタイミングでもう一度明日奈から電話がかかり、通話を始めた瞬間。


「おわわっ!」

 どこぞのASMR動画かってくらいの囁き声で僕を起こしにかかるものだから、あまりの衝撃に飛び跳ねるようにベッドから起きてしまった。


「わー、ほんとに起きたー。えー、裕典こういうのが好きだったのー? ちょっと意外だったんだけどー」

「そ、そんな急にアニメみたいな囁き声出されたら誰だってびっくりするってっ」

「あーあ。二度寝したら駄目だよって言ったのになー、悲しいなー私」


「起きました、今完全に起きましたので許してください」

「しょうがない、霞ケ浦ばりに広い私の心に免じて許してあげよう」

「……茨城県民には悪いけどなんで二番目を。普通琵琶湖じゃ」


「普通じゃない私も愛してくれるのが裕典でしょ?」

「……朝からこっぱずかしい話してますね僕ら」

 おかげでみるみるうちに意識が覚醒していくよ。


「まあまあ。無駄話もさて置いて。ねぼすけの裕典もきっちり起こしたことだし、今度こそ十時駅前ね。そいじゃ、よろしくー」

「了解でーす」

 通話が終わり、スマホを力なくベッドに置く。

「……とりあえず、シャワー浴びるか」


 待ち合わせに指定されたのは、お互いの家の中間地点の多摩センター駅だ。

 約束の十五分前に到着した僕は、小田急線の改札前、適当な柱に位置を取って明日奈のことを待つ。


「……ちょっと早かったかな」

 でもまあもし明日奈より後に来ようものならそれはそれで弄られ倒されること請け合いだし、早めに着くに越したことはないか。


 明日奈が来るまでの間、読みかけの本でも読んで暇を潰すかと、トートバックに忍ばせていた文庫本を開くと、

「だーれだ」

 活字が目に入ることはなく、ついこの間も感じた手のひらの温もりと暗闇が代わりに飛び込んだ。


「……この間もそれやらなかった? 好きなの? だーれだで現れるの」

「答えてくれないとずーっと目隠ししたままだぞー?」

「はいはい、明日奈だよね、明日奈」

「…………。ピンポーン、せいかーい。うーよしよし、偉いぞー裕典」


 僕が彼女の名前を呟くと、目を覆っていた明日奈の両の手は僕の頭をわしゃわしゃと撫でた後に両肩を抱き寄せ、人通りの多い改札前で、僕はいわゆるあすなろ抱きをされてしまう。


「……あの、ほんとに恥ずかしいんだけど」

 めっちゃ見られてる。平日の朝ラッシュが過ぎた午前とはいえ、それでもたくさんの人が行き交う多摩センター駅。そんな駅の改札前で抱き合っている男女がいたらそりゃ見られるわけなんだけどさ。


 僕のか弱い抗議に、明日奈は脇からひょこりと顔を覗かせて目と目を合わせニッコリと微笑む。

 ……いやなんで笑いかけられるだけで許しそうになっているんだよ、チョロすぎかよ僕。可愛いは正義かよ。

 かと思えば、そのまま僕の心臓あたりに耳をぴったりくっつけては、


「ふふふ、なんか鼓動速くない? ドキドキしちゃってる裕典可愛いなーもー」

 ニッコリだった表情を一瞬でニンマリへと移し変える。

「……彼女に抱き着かれてドキドキしない彼氏がいるとお思いで? っていうかこのくだり何回やればいいんですか」


「えー? 真理に辿り着くまで?」

「真理ってなんだよそんな深い話だったのかよっていうかそろそろほんとに離れてもらっていいですか真面目に恥ずか死ぬから僕」

 いい加減周囲の目が痛くなってきた。


「もー、そこまで言うなら仕方ないなー」

 やっと抗議が受け入れられたのか、ようやく僕の背中から離れた明日奈は、くるりと一回転しながら正面に立ち位置を持っていく。


 先日のショートパンツにシャツというカジュアルな格好から一転、今日の明日奈は思いきり夏らしい清楚な白のシャツワンピースだった。

 いや、正直に言えば、明日奈の私服に免疫が無かった僕は、彼女がチョイスしたザ・清楚を地でいく今日の服にただでさえ加速している胸の鼓動がさらに速くなっていた。……もう制限速度超過して交通事故起こすってレベルで。


「どう? 可愛い?」

「僕の負けです可愛いです対戦ありがとうございました」

「ふふふ、今日のために悩んで決めた甲斐があったっていうものだよ」

 えっへん、と自慢げに胸を張る明日奈。結局、どうあっても明日奈に弄られる展開しかなかったことはさて置こう。


「……それで、今日は何をする予定でいるの? プランは明日奈に任せてたけど」

「心配しなくてもいいよ、ちゃんと決めてるから」


 僕の問いに対して、明日奈はすっと淀みなく答える。


「カラオケっ。行こうっか」


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