プロローグ(2) 君が描いた絵空事
迎えた明々後日。前日夜遅くまで授業のレポートの執筆をしていて、夜更かしをしていた僕が起きたのは、けたたましく鳴り響くスマホの着信音でだった。
「……やべ、寝落ちた」
目覚めてまず視界に入るノートパソコンのキーボード。そして、やりかけだったレポートには、意味のない文字の羅列が。きっと、突っ伏したときに何かの拍子でキーが押したまんまになってしまったのだろう。
幾許かの失敗感を抱きつつ、目をこすりながら僕は電話に出る。すると、聞こえてきたのは耳に馴染んだ朗らかな女の子の声だった。
「あー、やっと出たー。またどうせ夜遅くまで勉強してたんでしょー。ちゃんとベッドで寝ないと体壊すぞー? おはよう、裕典」
「……おはよう、明日奈」
エスパーか何かなのか、明日奈は。なんで僕の行動を言わずとも把握しているのか。こりゃ浮気はできそうにないな。する予定もつもりもないけどさ。
「勉強頑張るのもいいけど、ほどほどに休むんだぞ? 裕典、放っておくとずーっと頑張っちゃうんだから」
「ご心配ありがとう、でも大丈夫だから」
「大学受験のとき、私のお見舞いと予備校両立させようとしてパンクしたのはどこの誰かな?」
「……誰なんでしょうね。それで、何かあった? わざわざ電話してくるなんて。今日は病院に行くつもりだったんだけど」
風向きが悪いと踏んだ僕は、話を本筋に戻すことで形勢を立て直そうとする。
「あー、うん。そのことだったんだけどね? 今日は病院じゃなくて、大学のほうに来てくれないかなあ」
「え? 大学に? なんでまた」
「まあまあまあ、多くは聞かないでおくれよ。騙されたと思ってさ。それじゃ、二時間後に大学の学食に来てね」
が、会話のペースは変わらず明日奈が握ったままだし、あろうことか病院じゃなく大学に来てねと言われる始末。
「ちょっ、簡単に言うけど、外出許可とか大丈夫なの?」
「それじゃ、またねー」
「って、まだ話はっ──……切られたし」
一体、何がどうなっているのか。理解は全然追いつかない。
「……でも、来いと言われたら、行くしかないよなあ」
小さく嘆息した僕は、ひとまず昨日寝落ちして入り損ねたシャワーを浴びることにした。
身支度を整えて、夏の炎天下のなか病院ではなく大学に向かう。
自宅から、僕と明日奈(さらに言うと知奈も)が通う大学までは電車で一本、三十分程度。電車に乗ってさえしまえば、空調の効いた空間にいられるから、快適と言えば快適。
大学最寄り駅に到着し、歩くだけで滝のように汗をかいてしまうほど暑い道を歩き、大学構内に入る。
夏休み期間中ということもあり、キャンパス内は閑散としており、授業期間中は学生で賑わっているメインの通りも、今はチラホラと人影が見える程度。まあ、用事が無ければ大学になんて来るわけもないからね。
待ち合わせに指定された学食にも同じことが言えるみたいだ。
普段のランチタイムだと空席を見つけるのにも一苦労するのだけど、今日に関して言えば埋まっている座席を探すほうが大変だ。
「……まだちょっと時間あるし、アイスでも食べて待ってようかな」
適当な四人掛けのテーブルにポンとバックを置いて座席を確保。まあ、こんなことしなくても今日の込み具合なら大丈夫なのだろうけど、荷物で席を取るのは大学生の性って奴だろう。
そうして、ひとり学食に出店しているファストフード店で注文したクリームソーダをちびちびとつつきながら、僕は明日奈の到着を待つ。
「……にしたって、本当に明日奈来るよね? 実はドッキリでした、とか言わないよね」
年に何日か、かれこれ三年入院し続けている明日奈にも外出許可が下りるときもある。ほんとに何日かだけど。
だから、今日のいきなりの待ち合わせも、全部が全部嘘だとは思わないけど、茶目っ気のある明日奈のことだから何か仕掛けているのではないかと考えてしまったり。
そんなことをぼんやり考えていると、突然僕の視界が真っ暗になるとともに、ほんのり温かくて柔らかい感触が目のあたりに広がる。
「ふふふ、だーれだ?」
耳をくすぐったのは、いつも聞いている調子のいい声。こんなことするのは、僕の周りではひとりしか考えられない。
「……明日奈しかいないでしょ」
「…………。せいかーい。さすが裕典―、何でもお見通しだね?」
視界が開けると、真横の席に座っていたのはしたり顔の僕の彼女。いつも着ている病衣ではなく、ショートパンツにTシャツという軽めの服を選んでいた。
「……それで、なんで今日は病院じゃなくて大学なの? 外出許可でも下りた?」
「んー、そういうわけでもないんだなー、それが」
明日奈がそう口走った瞬間、ゾクリ、と背筋に悪寒が走る。いやだってそうだろう、外出許可を取ってない入院患者が外に出てるならそれはもう脱走でしかない。
「さすがに病院抜け出す悪いことには付き合えないからね、僕」
場合によっては首根っこ掴んででも病院に連れ戻さないといけないことも頭に浮かべると、またまた予想だにしないことを彼女は呟く。
「……検査の数値が安定してきたからね? 退院して自宅で過ごしてもいいですよって先生に言われたんだ」
「はい? 今、なんて?」
「うん、退院したよ? 私」
隣で小首をいじらしく傾げる明日奈の横顔と、ほのかに漂う制汗剤のシトラスの香りだけが、僕の五感をくすぐる。
「……ドッキリなら早めに言ってね?」
「ドッキリじゃないんだなあこれが」
「ほら、いつもの『噓噓ごめん、空言だから』使うなら今だよ?」
「嘘でも空言でもないからなあ」
まじで言ってる? 電話のときより理解が追いつかない。
「……ほら、サプライズだよ、サプライズ。退院したよーって言って裕典驚かせたかったんだよ」
だとするなら、そのサプライズは大成功と言えるだろう。
いきなり告げられた嬉しい予想外のニュースは、じわじわと僕の表情を綻ばせていっているのが自分でもわかるのだから。
「……本当、なんだ?」
「…………。本当、だよ」
明日奈と付き合い始めて三年。恋人としてスタートした時期と入院し始めた時期がほぼ一緒だった僕らにとって、それはいつか夢に描いた未来希望図。
もしかたら、もう手に入れることが叶わないのじゃないかと頭を過ったこともあった。
病院の外で、こうして「普通」に会って、話して、同じ時間を過ごすことが、何より欲しかった。
「……そっか、そっかぁ……。良かった、良かったよ……ほんとに」
だから、綻んだ僕の表情から、勝手に涙が零れるのに、時間を必要としなかった。
先日見た明日奈のお墓参りをする「悪夢」との対比も相まって、どうしたって感極まってしまうのは当然の帰結。
「えっ、ちょっ、な、泣くほど? な、泣かないでよ裕典―、私が何か悪いことしたみたいになっちゃうよー」
「ご、ごめん。つい……す、すぐ、すぐ収まるから」
ポケットから取り出したハンカチで涙を拭い、僕は冷静さを取り戻そうとする。
「もー、私のこと好き過ぎかよう」
ぽんぽん、と僕の頭をわしゃわしゃと撫でた明日奈はすると、持ってきていたトートバックから、一冊の桜柄のリングノートを取り出す。
「さてっ。それで、本題に入りたいんだけどね?」
「……本題まだだったの? もう退院したこと自体が本題レベルのビックニュースで、これ以上は情報過多になる気しかしないんだけど」
「もうちょっと頑張れー、裕典の頭―」
明日奈がテーブルに置いたリングノート、表紙は空欄だった。しかし、ページを一枚めくると、ある単語が視界を踊った。
「……バケツ、リスト?」
「そうそう。あまりにも入院生活が長かったからね? あれやこれや、人生でやり残したことを暇な時間に書き留めていたんだ、私」
ああ、映画や小説、それこそフィクションとかでしばしば見たことある。死ぬまでにやりたいことをリスト化していく、あれだ。
「するとね、リストの中身を見ると、大概のもの裕典が絡んだものになるわけでね?」
「……え? 僕?」
「そうそう。それで、この間裕典、誕生日プレゼント何がいいかって私に聞いてきたでしょ?」
「う、うん」
つらつらと、一ページ目に記されたバケツリストをか細い白い指でなぞり終えると、そっと口元を緩めて穏やかな笑みを浮かべた明日奈は、
「やっぱり、プレゼントは裕典がいいな、私」
至って真面目なトーンで、隣に座る僕に告げた。
「いつ死ぬかわからない生活を何年も続けるとね? やり残したことがある、っていうのはなんとなく気持ち悪いものなんだよ。それにほら、私、裕典と付き合い始めた頃に入院したから、恋人らしいこと全然してあげられてないでしょ?」
「それは、別に僕は気にしてっ」
「まあまあ。せっかく退院したことなんだし、そういうことも込みで、やり残したことを元気なうちに叶えていきたいなあって、そう思ったわけですよ、私は」
「……だから、プレゼントは僕がいい。そういうこと?」
「さすが裕典。すぐに理解してくれて助かるよ」
嬉しそうに薄茶のロングヘアーをかきあげた明日奈は、バケツリストのあるページを開いては、おもむろに僕が食べていたクリームソーダをひょいと持ち上げて、
「では、はい。裕典、あーん」
スプーンにメロンソーダでひたひたになったアイスクリームを乗せて僕の口元に差し出した。
「……あ、明日奈? どうしたの、急に」
いきなりの行動に、口ごもる僕。そんな僕の反応を見てニヤニヤした明日奈は、反対の手でトントンと、バケツリストを指し示す。
「……僕に、あーんする」
いや、なんだその微笑ましい死ぬまでにやりたいリストは。
「な、なんでまた、あーん……?」
「バケツリストは自分が思うままに書くのがいいらしいからねっ。無理そうだから、とか、現実的に無理、とかそういうこと抜きに書かないと」
「僕に対するあーんはスカイツリーばりにハードルが高いのでしょうか」
「んー、どうだろうね? でもやりたいことだったから仕方ないよ。ほらほら、早くパクっていっちゃってよ。それで私のリストにひとつチェックが入るんだからさ」
変わらずぶれずにスプーンを持つ明日奈は、緩み切った表情を惜しみなく僕に見せてくれる。……明日奈がこれで喜んでくれるなら、と自分のなかで納得させ、一応周りに見られていないかキョロキョロと辺りを見回してから、僕はアイスにかぶりついた。
「くふふふ、どう? 彼女っぽい?」
「……否定はしないです」
「よおし、これでバケツリストひとつ達成だね。この調子で、これからもどんどんリストを叶えにいこうと思うから、裕典。付き合ってくれる?」
満足そうにペンで何やら書き加えた明日奈は、ニコっと微笑みを携えたままそそくさとノートをカバンにしまい込む。
「断れる……わけないよ。僕に」
「…………。うん、裕典ならそう言ってくれると思ってたよ。じゃあ、これからよろしくね、裕典。ちょうど大学も夏休み期間中だし、この長期休みといううってつけのシーズンを生かして、色々やりたかったことを叶えていこっかっ」
猛暑厳しい、今年の東京の夏。これまでの夏は、ただただひたすら病院に通い詰める日々が続いていたのだけど、どうやら今年はそうもいかなくなるみたい。
これは、君が描いた絵空事。君と僕が巡る、ひと夏の夢みたいな時間を切り取った、ささやかな物語だ。
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