8/17 & 18 そして旅の終わり

 泰輝くんの家から最寄りのバス停で降りると、ガラガラと荷物を引く。やけに荷物が重くて、後ろに引っ張られるような感じがする。たぶん今日は、いつもより重力が強い。

 この道を通るのも二週間ぶりだ。しかし懐かしさは憂鬱に押しつぶされる。

 お母さんに、会いたくない。

 そう思いつつ、泰輝くんの家の通りに差し掛かり――わたしは足を止めた。泰輝くんはそのまま進むけれど、わたしは思わず後ずさる。心臓がどくどくと速くなる。


「どうして、ここに……」


 家の前に、わたしのお母さんがいた。千和さんと何やら話をして、ぺこぺこ頭を下げている。

 きっと、今日えっちゃんちから帰ることを知らされてたんだ。まずい。とにかく、見つかる前に逃げないと――


『振り返るな』


 そのとき、泰輝くんの言葉が頭の中を叩いた。悪い妖精さんにまとわりつかれたみたいに、体が動かなくなる。時間が歪んだようにゆっくりに感じる。

 そんな中、お母さんは近づく泰輝くんに気づいたのか、こちらに振り返った。

 わたしと、目があった。


「――夏美!」


 お母さんが叫んだ。怖くて、わたしは俯く。どすどすと、怒った足音が迫ってくる。来ないで。来ないで。荒々しく襲いかかるように、迫ってくる。

 やがて足音はわたしの前で止まった。

 顔をあげられない。お母さんは絶対に怒っている。見なくても、その顔が想像できる。どんな怒鳴られ方をするかわからない。

 逃げたい――


『顔をあげろ。――お前なら大丈夫だ』


 ごくりと、固唾を呑んだ。本当に、信じていいの……?

 わたしはおっかなびっくり顔をあげる。はっ、と息を呑んだ。

 お母さんは泣いていた。

 涙の溢れる瞳で、わたしをじっと見つめていた。

 わたしはこのとき、心の底から思った。泰輝くんを信じてよかった。顔も見ないで逃げていたら、きっと後悔していた。

 そして溜まっていたものが噴火するように、胸の奥からものすごい衝動が湧いた。

 堪らず、わたしはお母さんの胸に飛び込んだ。


「ごめんなさい! いきなりいなくなって、連絡もしなくてごめんなさい! 心配かけてごめんなさい!」

「本当だよ! どれだけ心配したと思ってるの!」


 しがみついた感覚で、お母さんが手をあげるのがわかった。わたしは怖くて縮こまる。

 けれど――お母さんはぎゅっとわたしを抱きしめ返した。


「もう二度と顔を見られないじゃないかって、怖かった……」


 心の底から安心したような言葉で、わたしは止まっていた血液がふたたび流れ出したような気がした。息が楽になって、気づく。

 お母さんの体が、少し骨張っている。たぶん、わたしがいない間に痩せちゃったんだ。


「私のほうこそ、不甲斐ないお母さんでごめんね」


 お母さんはお腹を震わせながら言った。


「私のせいで家に居たくなかったんだよね……?」

「違う!」


 わたしは顔をあげた。お母さんは目をぱちくりさせて、わたしを見つめ返した。


「お母さんのせいじゃない! わたしのせいなの! わがままなわたしが悪いの!」


 お母さんは心苦しそうに表情を歪めると、堪らずわたしをもう一度強く抱きしめる。離さないように。

 そしてわたしがずっと言ってほしかった言葉を、言ってくれた。


「いいんだよ、夏美。子どもはわがままで。だから、私のもとに帰ってきて」


 こくりと頷いて、わたしは火がついたように泣いた。しばらく声をあげて泣きあった。




 深く息を吸う。泣いた後の空気は、光の一粒一粒が見えるくらい透き通っていた。

 少しして落ち着くと、わたしたちはひとまず泰輝くんの家にお邪魔することにした。けれど、まだふたりきりの時間がほしかったので、そのために食卓を貸してもらった。


「ねえ、夏美。夏休みに一人旅に出たってことは、家とか私に不満があったってことだよね?」


 お母さんは、いつものさっぱりしたお母さんに戻った。向かいの席に座って、怒っている風ではなく、ただ事実を確認するように尋ねてくる。


「そりゃもちろん、ないわけはないけど……」


 そもそもお互いに不満が一つもない関係性なんて、存在しないと思うし。


「この際だから、直してほしいところがあったら、言って」


 お母さんは真剣な眼差しで言った。わたしは確認する。


「言っていいの?」

「うん」

「怒らない?」

「怒らない」


『いいんだよ、夏美。子どもはわがままで――』


 今までお母さんに、不満を正面切ってぶつけたことなんてほとんどないから、少し緊張するけれど――お母さん自身がこう言うんだ。きっと怒らないで受け止めてくれる。


「まず、掃除にうるさい」

「ぐはっ」


 と、早くもお母さんは胸を押さえた。


「大丈夫?」

「大丈夫……。ちょっと、だいぶ大ダメージを食らっただけだから……」

「そ、そう?」


 なんだか心配だけど、ともかく切り替えてわたしは続ける。


「水をちょっと零すくらい、すぐに拭くから大目に見てほしい。それだけで怒って、一日中不機嫌になるのは流石に……ね?」

「はい……」

「それから、学校の成績が落ちたことは言われなくてもわかってる。ちゃんと自分で勉強する。だから、いつまでもネチネチ怒ったり、わたしがおやつ大好きだってことを知ったうえで、意地悪におやつ禁止令を出すのはやめてほしい」


 言って、わたしはこれ見よがしに、千和さんが用意してくれたお菓子のカステラを美味しそうに食べてみせる。実際甘くて美味しい。


「そしてわたしがテストで高得点を取ったら、当たり前みたいな顔しないで、もっと褒めてほしい」


 そうまくしたてると、お母さんはノックアウトされたように項垂れた。


「はい……」


 ちょっと言いすぎたかもしれない、と苦笑いしつつ、「だけどね、お母さん」とわたしは言う。


「それはそれとして、ちゃんと感謝してる」


 目を覚ましたように、お母さんは顔をあげた。


「お母さんのおかげで毎日美味しいご飯を食べられるし、お母さんのおかげで行きたい学校に行けるし、ある意味お母さんのおかげで旅に出て、泰輝くんに出会うことができた。全部、全部、ありがとう」


 わたしの言葉をゆっくりと呑み込むように、大きく頷いた。


「私こそ、ありがとう。私のもとに生まれて、ここまで大きく育ってくれて。夏美のことが、大好きだよ」

「わたしも、大好き」


 今までお母さんと、こうやって感謝を開けっぴろげに伝えることがなかったので、なんだか照れくさい。お母さんも顔が熱いのか、手で顔を扇いでいる。

 けれど胸の中は、不思議なくらいに満ち足りていた。

 やっぱり、家族というのは仲がいいものであってほしい。お互いに思いを伝えることができてよかった。


「あー、ほんと、夏美から旅に出たっていうメッセージが届いたとき、ものすごくびっくりしたんだからね? 連絡しても返ってこないし」


 少しして、お母さんが言った。すっきりとした笑顔で、どうしてくれるの? と冗談でからかうような感じ。

 なので、わたしも自然体で尋ねる。


「わたしが家を出たのには気づかなかったの?」

「なんかドタバタして、誰かが家を出たなとは思ったけど、まさか夏美が一人旅に出たなんて誰が思う? だからメッセージが届いたとき、最初は悪い冗談かと思ったよ。だけど、夕方になっても帰ってこないし連絡もつかないから、とんでもなく焦ったんだからね。すぐに緊急家族会議を開いて、私は夏美が今日中に帰ってこなかったら警察に連絡しようと言ったんだけど」

「そんなに早く!?」

「そりゃそうよ。あなたは女の子なんだから、誰と一緒かもわからない状況は心配に決まってるでしょう? もしかしたら悪い男に引っかかってるかもしれないし。誘拐されてるかもしれないし」

「まあ、そんなんじゃなかったけど、確かにね?」


 ありえない話ではない。


「だけどそれをお父さんと翔太(わたしの兄)に話したら、お父さんが――


『夏美はちゃんと荷物とお金と、保険証まで持って家を出たんだ。一時の気の迷いではないだろうし、事件でもないはずだ。だったら、自由にさせてやればいいだろう。夏美はもう十七だ。物事を自分の頭で判断できる歳だ。その結果何かが起きたら、それはもちろん僕たち保護者の責任だが、しばらくは自由にさせてやるべきだと僕は思う』


 とかそんな感じなことを言って、翔太もそれに賛同して、


『夏美はこれまでいい子すぎたからな。ちょっと遅めの反抗期だろ。そんな心配しなくとも、放っておけば、きっと宣言した通り夏休み中に帰ってくるさ』


 なんて言われたから、まあ確かにそうかも、と思って私はひとまず納得して折れてあげた。家族会議の結果、夏美が自ら帰ってくるまで待とうってことになった」


 わたしが呑気に旅をしている裏でそんなことがあったんだ。

 しかし――お兄ちゃん、お父さん、ありがとう。よくやった。そう労って肩を叩いてやりたい。ふたりのおかげでわたしの旅は滞りなく進んだようなものだから。


「けど、五日も六日も帰ってこないと、流石に不安が抑えられなかった。初めはあんなことを言って余裕ぶっていたお父さんと翔太も、この辺で音を上げ始めたしね。そんなわけで我慢しきれずに、あの『今日中に連絡がなかったら警察に連絡する』って脅すようなメッセージを送ったのよ」

「えっと……念のため確認するけど、それはまじのまじで警察に通報するつもりだったの?」

「何言ってるの、当たり前でしょう? その夜に千和さんと泰輝くんから電話がなければ、本当に相談して探しに出てたよ」

「ひええ」

「ひええ、じゃないよ! どれだけ心配したのか本当にわかってるの?」

「わかってます、わかってますっ!」


 慌てて言うと、はぁ、とお母さんは溜息をつく。

 そして、「ほんと、仕方ない子なんだから」と、愛おしそうにわたしを見た。


「まあ、結果としては無事だったからいいんだけどね。夏美を預かってくれた千和さんと泰輝くんには、感謝してもし足りないよ」


 それは、本当にそうだ。こんな見るからに怪しい高校生の旅人を受け入れてくれて、ふたりには頭が上がらない。


「それで、夏美がいなかった間の家のほうはそんなところだけど――夏美は家を出てから何をしてたの?」


 切り替えて、お母さんはそう尋ねてきた。わたしはよし来たと指を鳴らして、旅に出てからどんなことがあったのか、高らかに冒険譚を――もっぱら泰輝くんの絵の素晴らしさについて――語って聞かせた。


「ほほう? そんなとてつもない絵があるなら、ぜひ見てみたいね」


 聞き終えると、お母さんは値踏みするような目をした。


「泰輝くんの絵を見たら、きっと値踏みしようとしたことを恥じることになるよ?」

「そこまで? ハードルをあげてくれるね。それは楽しみになってきた」

「後で見てみるといいよ。絵が置いてある楽園に案内するから」

「そうさせてもらうね」


 泰輝くんには無許可で、勝手に絵を見せる約束をすると、いつの間にそんなに時間が経っていたのか、カナカナカナ……という美しい音色が外から聞こえた。


「あ、ひぐらし。へえ、こっちにもいたんだ」


 知識がなかったから今まで気づかなかった。窓の外を見やると、だいぶ日が傾いている。


「あ、もうこんな時間。もうすぐ帰らないとね」

「え、もう?」


 荷物を持って立ち上がるお母さんに、わたしは座ったまま聞き返す。ここに来たばかりなのに早くない?

 すると、パチ、と見計らったようなタイミングで電気をつけて、キッチンのほうから千和さんがお椀を持ってやってきた。


「あら、もうお帰りになるのですか? 四人分の夕食をもう作ってしまったので、ここで食べていきませんか?」

「食べていきますっ! いいよね、お母さん?」


 と、わたしは勝手に宣言をした。お母さんのほうを確認すると、渋々ながら「わかったよ」と頷いてくれたので、「やったー!」と、夕食はみんなで食べることになった。


「ねえ、泰輝くん。お母さんがここに来てることは事前に知ってたの?」

「いや、知らなかったよ。お前の母親と連絡を取ってたのは、主に母さんだからな」


 鉄火丼に醤油をかけながら、隣に座る泰輝くんは言った。


「ええ? でも、ほら、帰ってきてすぐさ、家の前で千和さんとお母さんが話しているのを見ても、泰輝くんは全然びっくりしてなかったじゃん。なんで?」

「そりゃ、普通に知らない人だったからだよ。誰かが引っ越してきたのかな、くらいにしか思わんかった」

「あ、そっか!」


 そもそもわたしのお母さんを知らないんだから、見てもわかるはずがないのか。めっちゃアホな勘違いをしてた。


「まあ、仮に事前に知ってたとしても、伝えなかったと思うけどな」

「え、なんで?」

「伝えたら、お前逃げるかもしれないだろ?」

「まあ……否定はできない」

「だけど逆にばったり会ったら、お前は逃げずに向き合えただろ?」

「…………」


 泰輝くんがこちらを見て、どうだ? と言わんばかりににやりとした。

 なんか、憎たらしい。


「いや、それは結果論じゃん」

「だな。ただの結果論だ」

「むう……」


 あっさり認めるところが、もっと憎たらしい。

 けど、ここでこう言えば、流石の泰輝くんも狼狽えるだろう。うしししっ……!

 わたしはにっこり笑って、言った。


「でも、ありがとね。泰輝くんのおかげで、お母さんと仲直りできた」

「ふん、わかってるじゃないか。よろしい」


 揺るがない泰輝くんに、わたしは項垂れた。呆れを通り越して、笑いが止まらない。

 ほんとう、泰輝くんは泰輝くんだなあ。




 わたしは泰輝くんとの話に夢中になっていたので、どうしてそうなったのかはわからない。しかし、夕食を食べ終える頃には、お母さんとわたしはここで一泊することになっていた。


「ささ、夏美ちゃんのお母さんは、こっちの部屋を使ってくださいねー」

「はい……」


 やけに生き生きした千和さんが、やけにげんなりしたお母さんを連れて食卓を後にする――その構図を見れば、まあ何があったのか大体想像がつくけれど。

 お母さんでも、浮かれている千和さんは止められなかったか。

 ともあれ、もう一泊できるのはわたしとしては願ったり叶ったりだ。泰輝くんの家に帰ってきたら、屋根裏部屋の楽園でゆっくりしたいとずっと思っていたのだ。

 その晩は泰輝くんと一緒にそこに登って、絵の海に浸った。絵の解説とかをしてもらいつつ、何でもないことを喋ったりした。途中でお母さんを呼んで、絵を見せた。お母さんのあんなに驚いた顔は、後にも先にも見たことがない。


「こんなすごいものを見せられたら、確かに、値踏みなんてしようとしたことが申し訳なくなってくるね……」

「言ったでしょ?」


 明日出発だとわかっているので、幸せな時間をしっかりとこの身で味わった。

 そうしてあっという間に翌朝になって、出発の時間がやってきた。


「千和さん、お世話になりました。いきなり押しかけてきたわたしを泊めてくださって、ありがとうございました」


 気温はまだ高いけれど、夏の終わりを感じさせる、うろこ雲の空。泰輝くんの家の前で、わたしたちはお別れの挨拶をする。


「いいのよ。夏美ちゃんが来たおかげで我が家はずいぶんと明るくなったし、たいちゃんに勉強も教えてくれたし、むしろこっちがありがとうよ」


 千和さんはいつもの魅惑的な微笑みを浮かべた。


「またいつでも来てちょうだい。おやつの準備をして待ってるから」

「おやつ! ありがとうございます!」


 決しておやつに釣られたわけではないけれど、絶対また来ると心に誓った。

 続いて泰輝くんと向き合うと、途端に隣から――


「重ね重ね、うちの娘が多大なご迷惑をおかけしました」

「いえいえ、全然いいんですよ」


 そんな会話が聞こえてきたので、わたしたちは無言で見合う。けれど、お互いに呆れているのがわかるその空気が可笑しくて、揃ってぶっと吹き出してしまった。


「まじで、これだから母親という生き物は」

「ほんとうね。それじゃ、泰輝くん――またね」

「おう、またな」


 軽く手を振ってから、わたしは踵を返す。ガラガラと荷物を引いていると、謝罪に満足したのか、お母さんがせっせと追いついてきた。


「夏美。ずいぶんあっさり別れたけど、もう少し何か話さなくてよかったの?」

「うん、大丈夫。泰輝くんとはもう心ゆくまで喋ったし、どうせまたすぐ会えるから」

「……そう」


 お母さんは納得したのかしてないのか、よくわからない頷き方をした。

 その後、行きは普通列車で四時間かかった道のりを、帰りは特急列車に乗って二時間で駆け抜けた。行きは寝過ごして見られなかった、沿線の田園風景もばっちりと眺めて、わたしは改めて実感した。――やっぱり日本の夏は輝いている。

 ずいぶんと懐かしく感じる最寄り駅に着くと、某ハンバーガーチェーンの前を通って――


「ただいま」


 家に帰ると、まず真っ先にお兄ちゃんとお父さんに、お騒がせいたしましたと謝った。

 全然いいよ、むしろ楽しんできたみたいでよかった。

 ふたりは笑顔でそう言ってくれたので、胸をなでおろした。

 こうして、夏休みの初日に始まり、およそ四週間に及んだ一人旅が幕を閉じた。

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