8/17 その二
行きと同じ、のどかな盆地の駅で電車に乗り換えて、きらきら輝く渓流沿いを下っていく。
「えっちゃんのご飯を食べられるのも、これでしばらくお預けか……」
持たせてもらった風呂敷を解きつつ、わたしはそう零す。中にあるのは梅おかかのおにぎりだった。うわ、絶対酸っぱいやつだ……。
「本当に、また来る前提なのな」
口元に運ぶだけで唾液が溢れるわたしに、泰輝くんは少し呆れたように言う。
「そりゃ、また来たいよ」
「そうかよ。だけど、それを考えるより先にまず、お前は自分の帰る場所について考える必要があるだろ?」
ガタンゴトン、ガタンゴトン……。
泰輝くんは続ける。
「きりがいいっていう言い方が合ってるのかはわからんけど、とにかくお盆も終わって絵も完成した。そろそろ、お前はお前の家に帰るべきじゃないか?」
わたしは黙ったまま、おにぎりを持った手をゆっくりと下ろした。
この話題を、わたしはこれまでずっと避けてきた。とはいえ、いつまでも逃げ続けることはできないことも、わかっていた。
どれだけ馴染んでも、泰輝くんの家はわたしの帰る場所ではない。
そうわかっていたからだろうか、今までみたいにこの話題そのものを拒絶することはなかった。
けれど――
「嫌だ」
おにぎりを握り潰してしまうくらい、無意識に手に力が入っていた。
「帰りたくない。どうせ家族はわたしの心配なんてしてない。だって、一ヶ月帰らなくても音沙汰なしなんだよ?」
それはわたしがネットを絶っているせいだけど……。
「わたしのことなんでどうでもいいって思ってるに決まってるじゃん」
「本当にそう思うのか?」
揺るがない態度で泰輝くんは尋ねる。
「想像してみろ。お前の親か兄弟がある朝突然、旅に出るって書き置きだけ残してどこかに消えて、一月経っても帰ってこなかったら」
「知らない。どうでもいい」
即答すると、埒が明かないとばかりに、泰輝くんは溜息をつく。
「覚えてるか? 一度だけ、お前に親と連絡を取ることを提案した夜があっただろう?」
「……うん」
結局連絡は取らずに、泰輝くんを部屋から追い出してそのまま眠った日だ。
けれど、それがどうしたんだろう?
「その前日の夜のことだ。母さんと仲直りした後、俺たちはふたりで話し合ったんだ。どうもお前が親と連絡を取ってないみたいだ、なんかおかしいぞってな」
「ああ、だからあの夜、親と連絡を取れって話をしてきたんだね」
「そう。だけど、結局その話だけじゃお前の家の事情がわからなかった。俺の聞き方も悪かったけど、お前が何も話してくれなかったからな」
そりゃ、いきなり親に連絡しろ、なんて言われたら話すわけがない。
「だから俺たちは心配した」
「心配? 何の?」
「もしかしたらやむにやまれぬ事情があって、お前は家に帰れないんじゃないかっていう心配だ」
はっ、と思い出した。
『もし俺たちの助けが必要なら言ってほしい。力になるからさ。言いたかったのは、ただそれだけだ。おやすみ』
確かにあの夜、泰輝くんは去り際にそんなことを言っていた。もしかしたらわたしが家に帰れない、本当に深刻な事情があることを考慮に入れていたんだ。
決してそんなものはないのに……。心の中に影がかかった。
「だから、あの後――こっそりお前の母親と連絡を取ったんだ」
突然明かされたとんでもない話に、頭の中が空白になった。
「…………え」
わたしのお母さんと、連絡を取った……?
意味がわからない。意味がわからないのに、顔から血の気がさーっと引いていく。
「え、うそだ……。だって、わたしのお母さんの連絡先とか、どうやって……」
「スマホだよ。爆睡してるお前の指をこっそり借りて、指紋認証でロックを解除して、スマホを持ち出したんだよ。そうしたらなぜか機内モードになってたからそれも解除して、そんで――お前の母親に電話をした。すぐに応答があったから、『あなたの娘は無事で、うちで預かっている』ってことを伝えた」
その話を聞いて、わたしは一気に頭に血が上った。
「余計なことしないでよ!」
「お前に秘密でこんなことをしたのは悪かった。――だけど、余計じゃねえよ。連絡が一日でも遅れてたら、お前の母親は警察に捜索願を出すつもりだったからな」
「え……」
「本当に心配だったんだろうな。お前の無事を聞いたとき、嗚咽して泣いたよ」
またショックで、頭が空白になる。
お母さんが、わたしの無事を聞いて泣いた……?
「そんな、うそ……」
「嘘だと思うなら、自分のスマホで確認してみれば?」
そうだ。体が操り人形になったみたいに勝手に動く。感覚の痺れる手でスマホを取り出すと、機内モードを切ってメッセージを開いた。目がくらんだ。
お母さんから、おびただしい数のメッセージが送られてきていた。
『旅? 急に何?』『冗談?』可愛らしいスタンプ。『どこに行ってるの? 何時に帰るの?』『そろそろいい加減、返信して』『今どこ? 誰と一緒?』『心配させないで。既読くらいはつけて』スタンプ連打。着信履歴の連続。『今すぐに帰ってきて、説明しなさい』『もしかして何かに巻き込まれてるの? 助けは呼べない? 通信が繋がってないとか?』
そんな連絡がずらっと並んでいて、一番下までスクロールすると、
『もう辛抱の限界です。今日中に連絡がなければ警察に連絡して探しに行きます』
このメッセージが最後だった。
「本当だ……」
心配のと怒りの気持ちが滲み出るメッセージの数々から、目を離せない。胸の奥が詰まったように苦しい。
こんなに心配されてたのに――心配されてるということを、心のどこかではわかっていたのに、わたしはそれを無下にした。帰るのが嫌だからなんて子どもみたいな理由で。ぎゅうとスマホを胸の前で握る。自分が恥ずかしすぎる。
「やっぱりわたしがこんな聞き分けの悪い子どもだから、お母さんは見限って、わたしを連れ帰りにこないんだよね……」
お母さんがわたしの無事を知って、そして居場所も知ってからすでに二週間以上経っている。なのに未だに連れ帰りにこないということは、そういうことだと思ったのだけれど、
「ばかか。ちげえよ」
ぴち、と泰輝くんに軽くデコピンをされた。
「ちょっと、なんでいきなりデコピンするの!」
「落ち着いてよく聞け。電話でお前の母親に、お前の無事を伝えた後のことだ。お前がどういう経緯でうちに泊まることになったのか、うちでどうやって過ごしてるのか、とりあえず俺たちが知っていることを全部話した。そうしたら、お前の母親がこんなことをお願いしてきたんだ」
厚かましいお願いだとはわかってるけど、もしあなたたち――つまり俺と母さん――がいいなら、そして本人がそれを望んでいるなら、もうしばらく娘を預かっていてほしい。
「何度も謝りながら、誠心誠意お願いをされた。そんなことをされなくても、俺たちはお前を追い出す気なんてなかったからそれを受け入れたんだけど、だから、連絡が繋がった後も、お前の母親はお前を連れ帰りにこなかったんだ」
「なんで……? お母さんはなんで、そんなお願いを……」
「さあな。俺は母親という生き物の気持ちなんてさっぱりわからん。ただ、これは俺の想像だけど、そっちのほうがお前にとって幸せだと思ったんじゃねえの?」
わたしにとって幸せ。
悪いことだってわかった上で一人旅に出て、こんなに心配をかけるような娘なのに。
そんなわたしの幸せを尊重してくれたって言うの?
そしてそんなことも全部わかった上で、泰輝くんと千和さんはわたしを受け入れてくれていたの?
なんかもう、何もかもが恥ずかしい……。泣きたい。
「まったく俺が言えたことじゃないけど、母親に心配かけたことを悪いと思ってるのなら、とにかく、早く帰って謝るんだな」
「でも、わたしはどんな顔して帰ればいいの……?」
「どんな顔をしたって変わらんだろ」
「そういうことを言ってるんじゃないの!」
「わかってる、わかってる」
怒鳴ると、無神経な泰輝くんはわたしを宥めるようにそう言って、
「嫌なのはわかるさ。だけど、逃げたところで何も解決はしない。振り返るな。そして顔をあげろ」
――お前なら大丈夫だ。
大して心配もしてないような、いつものむすっとした表情で、そう言った。
止まってほしいと願っても、窓の景色は止まることなく後ろに流れていった。
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