8/13 その二
薄暗い廊下。物音一つしない、泰輝くんの部屋のふすまの前に立つ。バケツを置いて一つ深呼吸をしてから、覚悟を決めてノックした。
「泰輝くん、わたし。入っていい?」
カナカナカナ……。外でひぐらしが鳴いただけで、中は静かなまま。
「泰輝くん、大丈夫? 生きてる?」
繰り返しノックしても、返事がない。中の様子が心配で、堪らず無断で入ろうと思うと――
「なんで、来た」
はっ、と息を呑んだ。微かに震える、泰輝くんの静かな問い。わたしが来たことに怒っているのではなく、純粋に理解できないという声だった。
「二度と来るなって言ったのに、なんで来た……」
「泰輝くんを支えたいから。泰輝くんのためになりたいから。泰輝くんの絵を、もっと見たいから」
「は……?」
ふすま越しでも、泰輝くんがあんぐりと口を開けるのが見えるみたいだった。
「何を言ってんだ? 俺を支えたいって……俺はお前を傷つけたんだぞ。絵を描けない鬱憤を晴らすために、お前をそのはけ口に使ったんだぞ。なのに、こんなどうしようもない俺を、なんで……」
わたしは静かに首を振る。お前のせいだと言われて、確かに傷ついた。その事実は消えない。
「それでも、だよ。それでも、泰輝くんを支えたいと思うわたしの気持ちはおかしい?」
「おかしいだろ……ありえない」
受け入れられないような声。
「もしそれが本当なんだったら、俺は……俺はもう自分に耐えられない。本当は俺のほうから謝らないといけないのに、どうせもう手遅れだって決めつけて何もしなかった。いや、違う。本当は傷つけたお前に会うのが、怖かった。怖くて、逃げた。そのくせ、お前が部屋の前に来たとき、俺はどう思ったと思う?」
「来ないで、とか……?」
わからないけれど、当てずっぽうに言った。
は、と自嘲するように笑う泰輝くんの気配。
「嬉しかったんだ。自分からは動かないくせに、お前に嫌われてないことを密かに期待してたんだ。お前を傷つけておきながら、都合よく。……何なんだ、俺は。気持ち悪すぎる。消えたい……」
もう限界だとばかりに、うう、とうめくような声が聞こえる。たぶん、泣いているのだ。
何か声を掛けないと、とは思うけれど何も言えない。こういうとき、どうすればいいの……?
とにかく、泰輝くんのそばに行かないといけないと思って、ふすまに手をかけた、そのとき――
「――入るな!」
がちっ、と手首を悪い妖精さんに掴まれたような気がした。心臓がばくばくと鳴っている。
けれど、
『今はちゃんと、今のことに向き合いなさい――』
そうだ。ここで退くわけにはいかない。泰輝くんと、向き合わないと。
わたしは悪い妖精さんを振り払うように、力を込めてふすまを開けた。
昨日よりも紙や絵の道具が散乱している部屋。夕陽が届かなくて薄暗い片隅で、泰輝くんはうずくまって泣いていた。迷子の子どものように、その姿は小さかった。
彼は顔をあげてわたしに気づくと、涙の零れる目を見開いて、
「来るな!」
と叫んで、畳に落ちているものをわたしに投げた。
「来るな! 見るな! どっか行け!」
丸めた紙を、筆を、鉛筆を、半狂乱になったように投げつけてくる。わたしはそれを避けるでもなく払いのけるでもなく、全身で受け止めながら、前だけを見て、一歩一歩泰輝くんに近寄る。
「来るな! こんな俺に、構うな――!」
ついには自分の帽子を投げた泰輝くん。それが脇腹に当たると、思わず「痛っ」と声が出てしまった。はっとして、泰輝くんは固まる。
それでも構わず、わたしは膝をついて両手を広げる。
「泰輝くん。『こんな俺』だなんて、自分を卑下しないで」
そう言って、静かに泰輝くんを抱き寄せた。
ごめんね、泰輝くん。わたしがもっと上手に、気の利いた言葉を言ったりできたらよかったんだけど、こうするしか泣いてる人を慰める方法を知らないの。
泰輝くんは腕の中で硬直していたけれど、やがて力が抜けたようにわたしに身を預けてくれた。
「ごめん……。お前のせいじゃないってわかってたのに、描けない怒りをお前にぶつけて、ごめん……」
しゃくりあげながら謝る泰輝くんに、ううん、とわたしは首を振る。気づけば、わたしも溢れるように泣いていた。
「わたしのほうこそごめんね。いつも絵を見せてもらってるのに、何も返せなくて。泰輝くんがここまで追い詰められるまで、何もしてあげられなくて。今も……泰輝くんのためになるようなことは、できなくて……」
「何を言ってんだ」
泰輝くんは顔をあげた。真剣な眼差しだった。久しぶりに、ちゃんと目を合わせたような気がする。
「俺はお前から、両手から零れそうなほどたくさんもらってる」
「え?」
「俺は絵を描くとき、気づけばお前が喜んでくれる顔ばっかり考えてる。今回の絵だって、もちろん依頼主のためもあるけど、何よりお前に喜んでもらいたくて描いてるんだ。だから、お前が見てくれるだけで、十分すぎるくらいもらってるよ」
「え、ええ、えええ!?」
わたしに喜んでほしくて描いてる? 嘘でしょ? そうだったの? 顔が沸騰したみたいに熱くなる。絶対真っ赤になってる。それを見られるのが恥ずかしくて、わたしはぎゅっと泰輝くんを抱きしめた。密着して、やっぱりまだ熱い。
ああ、でも、そっか。わたしも少しは、泰輝くんの力になれてたんだ。嬉しい。胸の底がじんわりと温かくなった。
「けど……」
一転、逆戻りしたように、暗い声で泰輝くんは言う。
「今までこんなに期待されたことなかったから、どうしても失敗したときのことが頭をよぎって、描く手が竦むんだ。失望させたくないって思えば思うほど、自分の描いてるものが間違ってるような気がしてくるんだ。もう、どうすればいいのかわからねえよ……」
そう言って、泰輝くんはわたしの胸に顔を埋めて、また泣き出してしまった。
わたしは少し呆然とした。そっか。わたしは泰輝くんの力になれた一方で、重荷にもなっていたんだ。泰輝くんの背中をとんとんと優しく撫でる。
「ごめんね、重荷になっちゃって。辛かったよね」
つられてわたしも涙がこみ上げてきた。
そうしてしばらくふたりで泣きあった。
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