8/13 その三

 やがて落ち着くと、わたしたちは体を離して、正座して向き合った。


「ありがとうな、来てくれて。おかげで気持ちがすっきりした」


 泰輝くんは言った。拾い直した帽子で目を隠しながら。


「うん。全然いいよ?」


 わたしもぎこちなく答えて、目を逸らしてしまう。そして無言。

 あれ、わたし今まで泰輝くんとどうやって話してたんだっけ。

 どうしてもさっきのことを思い出してしまって、泰輝くんの顔が見られない。抱き合ったぬくもりがまだ体に残っているような気がして、恥ずかしい。どきどきする。

 けれど、それは今までとは違って、幸せな恥ずかしさだった。


「ねえ、泰輝くん?」

「ん? どうした?」

「えっちゃんが用意してくれたんだけど――」


 言って、わたしは部屋の前に置いておいたバケツをすたすたと取ってくる。そしてその中身を取り出して、尋ねた。


「花火、一緒にやらない?」


 えっちゃんが持たせてくれたのは、カラフルな袋の手持ち花火セットだった。これでふたりで息抜きをしよう、ということである。


「今から?」

「うん」

「まあ、いいけど……」


 泰輝くんはかりかりと頬を掻く。


「どうせこれからすることもないし」

「そっか……!」




 日は沈んで、外はすでに真っ暗だった。懐中電灯で足元を照らしながら森に入って、慣れたルートで小川まで行くと、いつもとは反対に川を下る方向へ。少し進むと、開けた芝生と小さな池があった。


「花火するのにちょうどよさそうな場所だねっ。ここにしよっか!」

「おう、そうだな……」


 泰輝くんは何かが気になるように、きょろきょろ見回していた。


「なあ、なんかここ……いや、気のせいか?」

「どうしたの?」

「……なんでもない。気にすんな」


 もちろんこの池は、昼間にえっちゃんが見せてくれた絵に描かれていたものだ。しかし暗いから、泰輝くんはここがどこなのかわからないみたい。うしししっ……! と笑ってしまいそうになるのを、わたしはぐっと我慢する。

 楽しみは最後まで取っておかないとね。

 さて、と。

 虫の大合唱を聞きながら、早速バッグからバケツを取り出して、花火の準備に取り掛かる。わたしはバケツに水を汲んできて、その間に泰輝くんがカチッ、カチッ、とろうそくに火をつける。そして花火を開封したら、ふたりでろうそくを囲むように屈んで、花火のひらひらを火に近づける。


「あれ? なかなかつかないね……」

「どうしてだろ……」


 少し気まずくて、むず痒い思いをした、そのとき――

 シュウウウ、と鋭い音を立てて、光が吹き出した。


「ついたっ!」

「おお!」


 思わず揃って立ち上がる。手の先で、色とりどりの火花が弾けて踊る。真っ暗闇のなか、泰輝くんの姿がそれに照らされて、ぼうと浮かび上がる。

 色とりどりの光を映すその瞳。花火を見る泰輝くんは、嬉しそうだった。


「綺麗だな」

「うんっ!」


 それを見てわたしも嬉しくなっちゃって、一本目もまだ消えてないのに、


「泰輝くん、見てて!」


 と言って、泰輝くんに注目される中、花火を五本束にして火をつけた。おお、と思わず声が出てしまうくらい、ものすごい勢いで光を吹くそれを掲げて、池のほとりを走る。


「見て! 見て! 聖火ランナー!」

「そうかそうか。よかったな」


 泰輝くんは花火を片手に、はしゃぐ娘を見守る父親みたいな顔で見ていた。


「反応薄いよー! そこは『次の走者は俺だ。俺に火を託せ』くらいのことは言ってくれないと」

「いや、俺は走らんよ」

「なんで! いいじゃん今日くらい!」

「走らん」

「むう」


 乗りの悪さ健在か。こうなったら、あの手を使うしかない。


「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな」

「おい、俺を悪者に仕立て上げんな」

「あっかんべーだ!」


 はぁ、と泰輝くんは息をつく。そして「やれやれ。わかった、やるよ」と言った。

 思いの外まんざらでもなさそうだった。


「やったー!」


 池を一周して帰ってくると火はもう消えていたので、新しくトーチを作って、今度は泰輝くんと一緒に夜空に聖火を掲げながら、池を回った。

 そうして、ときにはわいわい騒いで飛び跳ねながら、ときにはしゃがみ込んで静かに花火を楽しんだ。輝く時間は、花火のようにあっという間に過ぎた。



 線香花火に火をつける。雫みたいな真っ赤な玉が、火花を散らしながら小さく震える。ちちちちち……。その音に耳を澄ますと、自分の体がここにないみたいに心が静かになる。

 そんなわたしの隣に泰輝くんも腰を下ろすと、そっと線香花火に火をつけた。

 振り返ると、袋に入った花火も残りわずか。たくさんの燃え尽きた花火がバケツの水に浮いている。

 そろそろ時間かな。わたしは立ち上がって、火の消えた線香花火をバケツに放り込むと、カバンから『例のもの』を取ってくる。うしししっ……! このときのために、わざわざえっちゃんに許可をもらって持ち出してきたのだ。


「ねえ、泰輝くん。この場所に見覚えはない?」


 例のものを背中の後ろに隠して、わたしは尋ねる。泰輝くんは線香花火から目を離して、辺りの暗闇に目を凝らした。


「なんか、見覚えがあるような気はするんだけど……暗すぎてわからん」

「そっか。じゃあ、これ見て」

「ん?」


 こちらを向いた泰輝くん。わたしは彼に例のものを見せて、カチッと懐中電灯をつけた、その瞬間――

 世界が昼になった。気持ちのいい日差しが降り注ぐ、初夏の陽気。芝生の匂いと色とりどりの花に満ちた、森の切れ目。アメンボが波を立てる池の水面へ、風に乗って、花びらがくるくると舞って落ちていく。何もかもがきらきらと輝いていて、あまりの眩しさに目を細めると――そこで、わたしは我に返った。

 世界が夜に戻った。見通しのきかない夜闇に、太陽も池も草木も覆い隠された。

 おっとっと、わたしのほうが絵の世界に入り込んでどうすんのよ。

 ともあれ、わたしが今懐中電灯で照らしているのは、この池を描いた例の風景画だ。こうして泰輝くんに見せるためだけに、ここまで持ち出した。

 果たして泰輝くんは、声も出ていなかった。信じられないものを見るように目を見開いて、絵を見つめていた。

 そして、


「これだ……」


 と、小さく呟く。


「これだ、これだ、これだ……!」


 その声が、目が、だんだん子どものように輝いていく。泰輝くんはついには、ばっとわたしから絵をひったくると、


「ああ、なんで忘れてたんだろ! うわあ、これだー!」


 もうなくさないように抱きしめて、溢れて止まらないように叫んだ。


「――これを見て、俺は絵の世界を知ったんだ!!」


 かつてないくらい愛おしそうな、心の底からの叫びだった。

 わたしは自然と笑顔が溢れる。やっぱり、わたしの想像通りだった。この風景画が、泰輝くんの絵との出会いなんだ。これと出会ったから、滝の裏側の絶景を見たとき、『絵』を描きたいと思ったのだ。泰輝くんを彼の原点と再会させることができて、わたしは嬉しい。

 泰輝くんはしばらく、池の風景画と見つめ合うと、


「あ、わかった」


 と、突然閃いたように言った。


「? どうしたの?」

「俺の絵の何がいけなかったのか。なんでうまく描けなかったのか。この絵を見てわかったような気がする」

「本当に!?」


 頷きながら、泰輝くんは立ち上がる。そしてそれ以上何も説明しないまま、早くも一目散に森のほうへ進んでいく。


「え、ちょっと、どこ行くの?」

「えっちゃんちに帰って、絵の下描きをする」

「キャンバスは? キャンバスはあるの?」

「もしものために予備のキャンバスは持ってきてるから、それを使う。だから、後片付けは頼んだ!」

「え、ちょっと、え!?」


 いきなりすぎる。片付けを任せるなら少しは悪びれてよ、とは思ったけれど、こんなにわくわくした様子の泰輝くんはこれまで見たことがなかったので、まあいいかと思った。


「そういえば、泰輝くん! 帰りも暗いけど、懐中電灯ちゃんと持った?」

「あ」


 泰輝くんは足を止めると、気まずそうに引き返してきた。


「浮かれすぎだよ。気をつけてね」


 わたしはくすくす笑いながら、懐中電灯を手渡す。


「すんません」


 しょんぼり受け取ると、泰輝くんは少し迷うように立ち止まった。それから帽子を目深に被り直すと、


「俺がこうして絵に向かえるのは、本当に全部お前のおかげだ。ありがとう」


 小さくそう言ってから、今度こそすたすたと帰っていった。

 わたしは自然と鼻歌を歌いながら、片付けに取り掛かる。絵の技術的なところは、わたしにはさっぱりわからないけれど、池の絵を見て何か閃いたなら持ってきてよかった。


「泰輝くんが思うままに、絵を描けるようになりますように」


 しばらくわたしの中にあった気まずさの種みたいなものが、花火に吹き飛ばされて消えたような気がする。久しぶりにただ純粋に、泰輝くんと一緒にいる時間が心地よかった。

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