8/13 その一

 冷たいような、ぬるいような水しぶき。光が微かに差し込む滝の裏で、泰輝くんがわたしを指差す。


「お前のせいで、俺は絵が描けなくなった」


 泰輝くんはキャンバスを地面に叩きつけて、ずたずたに引き裂く。すぐ横で降り注ぐ滝の音が、わたしを襲うようにどんどんと大きくなる。怖くて、わたしは逃げ出そうとするけれど、悪い妖精さんに足首を掴まれて動けない。

 泰輝くんの絵からあんなに輝きをもらっているのに、わたしは泰輝くんのために何もできない。それどころか、泰輝くんから輝きを奪っている。最悪だ。最低だ。

 わたしなんて、いなくなってしまえばいい。

 そのとき、足元が池に変わって、わたしはどぼんと落ちる。水面にあがろうもがくけれど、見えない力に引っ張られて、光の届かない底へと沈んでいく。息ができない。苦しい、怖い、怖いくるしいくるしいくるしい。


 はっ――と、汗だくで目を覚ました。




 心臓がばくばくと鳴っている。

 カーテンの隙間から日が差すえっちゃんちの部屋で、わたしは寝ていた。

 なんだ、夢か……。息を落ち着けると、シャンシャン、とセミの鳴き声が聞こえる。


「おはよう、夏美ちゃん」


 突然声を掛けられて、びっくりした。えっちゃんが布団のそばに座って、口元を隠してくすくすと笑っていた。相変わらず気配がない。


「び、びっくりしました……。おはよう、ございます」

「ごめんね、驚かせちゃって。うなされてたけど、大丈夫?」

「えっと、たぶん?」

「そっか」


 部屋の時計を見ると、朝十時だった。いつから眠っていたのか、よく覚えていない。ずっと夢と現実の間を、ふわふわと行き来していたような気がする。

 えっちゃんはゆっくりと振り返って、泰輝くんの部屋のほうを見た。


「ほんと、たいちゃんは素直じゃないよね」

「え……」


 いきなりそんなことを言われて、わたしは目をぱちくりさせる。


「泰輝くんとわたしの間に何があったのか、知ってるんですか?」

「いや、なんにも知らないよ。たいちゃんに聞いても、ちっとも答えてくれないし。けど、喧嘩したってことくらいはわかる」


 喧嘩した。確かにその表現は、あながち間違いでもない。訂正する気力もなかったので、その認識のままでいっか、と思った。


「たいちゃんが素直じゃないのは今に始まった話じゃなくてね、昔からずっと、好きなものがあっても好きだって言えなくて、困った子だったのよ。私や千和なんかは長い間一緒にいるから、それでも大体たいちゃんの気持ちがわかるけど、出会ったばっかりは大変だよね。すれ違って、ぶつかっちゃうかもわからないね」


 だから、と言って、えっちゃんは踏ん張って立ち上がる。


「たいちゃんの好きなものを、一つ見せてあげるよ」


 そう言って、部屋のカーテンをシャッと開けた。差し込む眩しさに、わたしは目を細める。そしてゆっくりと目を開けて――あっと声が出た。

 えっちゃんが、一枚の絵を胸の前に掲げていた。

 水面に花びらを浮かべた、小さな池の絵だった。周りの草花が緑に満ちて、ひらひらと風に散る花びらと一緒に、白いちょうちょが舞う。何もかもが陽の光を受けて、きらきらと輝く。

 わたしは久しぶりの感覚を味わった。

 心奪われて、絵の世界に入り込むあの感覚。胸の奥が震える、泰輝くんの絵を見たときにしか得られない喜び。

 えっちゃんは言う。


「裏の森に入ると小川があるじゃない? 遡っていくと裏見の滝がある、あの小川。あれを逆に下ったところにこの池があってね、村の生まれの子どもはみんな、夏の季節にはここで水遊びをしたものだよ」

「そうなんですね……」


 わたしはだんだん我に返ってきて、ふと違和感を覚える。

 なんか、絵が古い。色が心なしか黄ばんでいて、絵の具にも亀裂が入っている。


「これは泰輝くんがいつ描いた絵ですか……?」


 えっちゃんはゆったりと首を振った。


「これは泰輝くんの作品じゃないよ」

「え?」

「五十年以上前に、私のお父さん――つまりたいちゃんのひいじいさんが描いた絵だよ」

「ええっ!? そんな前のもの!」


 なるほどそれは古いわけだ。

 そんな大切なものを、どうしてわたしに見せてくれたんだろう。


「たいちゃんは小さい頃、この絵が大好きだったのよ。自分から見たいとは言わなかったけど、見せてあげたらいつも目をきらきらさせて見入った。ほんと、可愛かったのよ……」

「想像するだけで微笑ましいですねっ」


 いつもむすっとしているだけに、ギャップがかわいい。思い返せば、滝の裏側に行って、天使が降りてくるのを待っていたエピソードもめっちゃかわいい。

 あのとき初めて、泰輝くんは絵を描きたいって思ったらしいから……


「……あ」


 そういうことか。

 はっと目が覚めるくらい、わたしの中でいろんなことが繋がった。

 泰輝くんの探しものは、これか。



 天気予報の通り、お盆初日の今日は猛暑だった。えっちゃんちにはエアコンがないので、部屋を開け放って風の通り道を作った。

 風鈴と扇風機の音を聞きながら、しばらくゆっくりと過ごして、心に整理をつけた。昼が過ぎ、外が暗くなり始めても、泰輝くんは部屋から出てこなかった。


「えっちゃん。ちょっと相談があるんだけど」


 夕食後、わたしはついに腹をくくって、お茶の間で向き合ってえっちゃんにすべて打ち明けた。

 わたしのせいで、泰輝くんが思うように絵を描けなくなったこと。わたしが差し出がましくもアドバイス的なことをしようとして、泰輝くんを激昂させたこと。

 胸が苦しくて、途中で何度も言葉に詰まりながらも、ここ数日で起きた出来事をすべて話した。


「そっか、辛かったね……」


 えっちゃんはわたしの背中を撫でながら、それを受け止めてくれた。優しい手つきのおかげで、苦しいのが少し楽になった。落ち着くのを待ってから、今度はわたしの頭を撫でながら、えっちゃんは言った。


「たいちゃんに早く絵を描けるようになってほしくて、焦っちゃった気持ちもわかる。けど、ちゃんとやりなさいって、頑張ることを押し付けるのはよくなかったね」

「どうして……?」

「頑張ってるのにうまくいかないときに、もっと頑張りなさいって言われたら、もう頑張るのは嫌になっちゃうでしょ?」


 言われたことに、わたしは心当たりがあった。小学生の頃、わたしは算数が好きだった。けれど中学にあがって数学になると、急に難しくなって全然できなかった。勉強はちゃんとしているのにできなかった。もっと勉強しなさい、とお母さんに言われて頑張ったけれど、やっぱりできなかった。それでも勉強を続けて、続けて――

 気づけば数学が嫌いになっていた。もう数式を見るのも嫌になった。


「頑張ることと同じくらい、休むことも大事なのよ」

「そっか……」


 盲点だった。わたしの気持ちが、逆に泰輝くんを急かしてしまっていたんだ。


「ああ、どうしよう……」


 わたしのせいだ。なんでそんなことにも気づけなかったんだろう。なんでわたしはいつもこうなんだろう。もう、嫌だ。

 泰輝くんには、絵を嫌いになってほしくない。だけどそのためにわたしに何ができるんだろう。


「そもそも、こんなわたしにできることなんてあるの……?」

「あるよ、もちろん」


 静かに息を呑む。えっちゃんは微笑んでいた。


「口で言うほど簡単なことじゃないってわかってるけど――たいちゃんのそばにいてあげて、絵に打ち込んでるときは応援して、疲れてそうだったら一緒に息抜きをしなさい」

「むりだよそんなの!」


 思わず前のめりになって、叫んでしまった。


「わたしがいるから泰輝くんは絵が描けなくなるって!」

「それは嘘だよ」


 断定的な口調だった。わたしはぐっと詰まる。


「それはきっと嘘だよ、なっちゃん。たいちゃんはそんなこと本当は思ってない。それを言っちゃったことを、ものすごく後悔してるはず」

「どうして、そう思うの……?」

「何年おばあちゃんとして、たいちゃんのこと見てきたと思ってるのかしら? そのくらい見ればわかるよ。――なっちゃんと会ってからのたいちゃんは、今までとひと味違うもの」


 えっちゃんに目をにやにやさせる。わたしを元気づけようとしてくれているのはわかる。

 しかし、心から怖さが消えてくれない。足に力が入らなくて、立ち上がれない。


「でも、やっぱりわたしのことなんて嫌いになってるよ……」

「じゃあ、逃げちゃう? 逃げたらもう大好きなたいちゃんの絵は見れないし、そしたら一番後悔するのはなっちゃん、あんた自身だよ」


 ばっ、とわたしは顔をあげる。けれど、言葉は出てこなかった。

 そんな言い方しなくてもいいじゃん、とふてくされるだけだった。


「ごめんね。意地悪な言い方しちゃったね。よしよし。でも、なっちゃんの心配は大丈夫。私が約束する。たいちゃんは、なっちゃんのことを嫌いになんてなってない」

「ほんとう……?」

「本当。だから一回たいちゃんと会って、話をしてみなさい。もしもたいちゃんが素直になれなくてまた突き放してきても、そのときのことはそのときまた考えればいい。頭を撫でて一緒に考えてあげるから、私のところにおいで」


 うん、と小さく頷くわたしを確認してから、えっちゃんは言った。


「今はちゃんと、今のことに向き合いなさい」


 その一言で、全身に息を吹き込まれたような気がした。憂いが消えて、気持ちが一新された。

 そうだ。今は今しかないんだから、今を生きないと。

 わたしは立ち上がった。自分の足で、しっかりと。


「そうだ、なっちゃん。これ、持っていきなさい」


 そう言って、えっちゃんはテレビの裏からバケツを持ってきて、わたしに手渡した。なんだろうとその中身を見て、おおっ、と声が出た。


「いいでしょう? 使わなくても、お守りくらいにはなるかね」

「えっちゃん、何から何までありがとうございますっ! これがあれば、なんか無敵になったような気がします!」

「そう? よかった。それじゃ、行っておいで」

「はいっ!」


 えっちゃんはくすくすと笑って、わたしを送り出した。

 えっちゃんに励ましてもらったおかげで、泰輝くんともう一度話をする決心ができた。

 泰輝くんの絵からもらったたくさんの輝きを、今度はわたしがプレゼントするんだ。

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