8/12
わたしは逃げ帰って、自分の部屋の隅でうずくまった。手は空だった。お届け物の筆は、知らない間に落としてしまったらしい。何をする気にも、何を考える気にもならなくて、ぼんやりと、ただ時間がわたしの横を通り過ぎていくのを待った。
気づけば翌朝になって、灰色の空が広がるデッキで朝食の席についていた。
「聞いてる、なっちゃん? 何してるの? もうコップにお茶は入ってないよ?」
「あ、ほんとだ」
えっちゃんに言われて我に返る。中身を飲みきったのに、ぼうとしていてコップに口をつけたままだった。それにどうやら話も聞き逃していたらしい。
「すみません。それで何の話でしたっけ」
「たいちゃん、なかなか起きてこないねって話」
言われてみれば、普段ならとっくに起床している時間なのに泰輝くんの姿が見えない。泰輝くんは今、どうしてるんだろう。
『絵が、描けないんだ――』
わたしは昨日のことを思い出して、うまく息ができなくなった。
「まだ寝てるかもしれないから、起こしてくるね」
「いや、それはっ……」
泰輝くんの部屋に行こうとするえっちゃんを、とっさに足止めしてしまった。えっちゃんは不思議そうに振り返る。
「どうしたの?」
何と言い訳をしよう。いっそ、昨日のことを包み隠さず話そうか。
『なんで、あいつらに話すんだよ』
いや、絵をずたずたに破ったことなんて、泰輝くんは絶対人に知られたくない。
「……泰輝くんは、今日は部屋で集中して絵を描くらしいので、入らないであげてください」
ややあって、そんな嘘をついた。
「あら、そうだったんだね。教えてくれてありがとう」
えっちゃんは微笑んだ。わたしはなんだかひどく虚しい気持ちになった。
ああ、何してんだろ、わたし。泰輝くんをほったらかしにしてたのに、怖くなったら中途半端にかばうだけかばって。
昼になっても、夕方になっても、泰輝くんは部屋から出てこなかった。ひょっとしてこれは本当にまずいんじゃないかと、だんだんと不安が募ってきて、何にも手がつかなかった。
泰輝くんは思うように絵を描けなくなってしまった。このままでは依頼の絵にとどまらず、普通の絵も描けなくなるかもしれない。もう二度と、新しい泰輝くんの絵を見られないかもしれない。
悪い妖精さんがぴたりとわたしの後ろについた。息が止まる。
耳元でささやかれた。
『わたしの世界から、輝きが失われる』
『失われたら永遠に戻らない』
そんなの嫌だ。どうしよう。どうすれば泰輝くんはまた絵を描けるようになるの?
ぶんぶんと首を振る。ゆっくり考えてる場合じゃない。その方法をなんとかして、はやく探さないと。部屋の中をうろうろすると、ふと目に留まったものがあった。
部屋に飾ってある、フクロウを象った焼き物。
「あ、そうだ。ひょっとしたら、自分で絵を描いてみれば何か手がかりが見つかるかもしれない」
天才的な発想だと思って、早速ノートを取り出す。泰輝くんの絵を思い出しながら、鉛筆でフクロウの焼き物デッサンをしてみた。
自分はそこそこ絵心があるほうだと思っていた。けれど、出来上がったものを見てみると、
「なんだこれ。下手くそすぎる……」
泰輝くんの絵を見慣れてしまったせいで、落書きにしか見えない。
こんなの絵じゃない。途端に描く気が失せてしまった。わたし自身まで下手くそな落書きになってしまったみたいだ。ただイライラしただけで、何の手がかりも見つからなかった。
「やっぱり素人が考えたってしょうがないんだ。こういうのは同じタイプの人に聞かないと」
わたしは部屋を飛び出して、庭の菜園に行った。すると予想通り清さんがいた。屈んで土を手で触っていた。
「清さん清さん」
「ん? なんだ?」
「急な質問なんですけど、何かを創りたいのに、それがうまくできないって経験ないですか?」
「うまくできないこと? そりゃあ、あるよ」
「そうでしたか……!」
そっか、よかった。清さんもそういうときがあるんだ。手がかりが見つかったことへの喜びよりも、どうしてか安堵のほうが先に来た。
「そいで、なっちゃん。どうしてそんなこと聞くんだ?」
「あ、いや、たまたま気になっただけなので、深い意図はありませんっ」
「そうか?」
「はいっ。それで聞きたいんですけど。そうやってうまく創れないときはどうするんですか?」
「そうだなぁ」
清さんは日に焼けた手で、土を愛でながら語り出した。
「昔、この畑でまったく作物が採れなくなったことがあった。そのとき、僕は初歩的なことはすべてやっているつもりだったから、細かいところに原因を求めた。間引きをしすぎたせいじゃないか、根っこが切れていたせいじゃないか、はたまた豊穣の神様に見放されたせいじゃないか。そんな重箱の隅をつつくようなところに囚われた」
清さんは土でお山を作ると振り返って、むふふ、と怪しげに笑った。
「当時の僕は馬鹿だったな。結局、原因はただ単純に土に栄養が足りなかったというだけで、肥料を撒いたら全部解決したのに」
なんだ、とわたしはずっこけそうになった。
「そんなシンプルなことだったんですね」
「そう。何かがうまくいかないときは、案外シンプルなところを見落としがちだ。だから初心に帰って、基礎を見直すことが大事なのだよ。当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれないが、大事だからこそ当たり前なのだ」
そっか。そんなシンプルなことでいいんだ。その言葉を聞いて、わたしは足りなかった栄養が補給されたみたいに、頭が冴えるのを感じた。
早くこれを泰輝くんに伝えないと。
ありがとうございましたと言って、清さんのもとを後にすると、一直線に泰輝くんの部屋に向かう。
逸る気持ちを抑えて、今度はふすまの前で足を止めた。ノックをする。
「泰輝くん、わたしです。入っていい?」
「……好きにしろ」
ふすまを開ける。途端に部屋の中から、昏く淀んだ空気が這い出てくるような気がした。
畳にはくしゃくしゃに丸められた紙が散乱していた。泰輝くんは机に向かって、鉛筆で何かを描いている。ちっ、と舌打ちをすると、その紙も乱暴に丸めて叩きつけるように捨てた。
いつものわたしだったら、たぶんそれを見て怖気づいた。けれど、早く泰輝くんが絵を描けるようにしないと、という使命感みたいなものに駆られている今のわたしは、それでも揺るがなかった。
「泰輝くん、聞いて? 創作がうまくできないときは、初心に帰って基礎を見直すのが大事なんだって。ほら、そういうときって細かいところに囚われがちじゃん? だけど、結構初歩のところに見落としがある場合が多いからさ」
泰輝くんはゆっくりと振り返った。
きっと真夏の太陽でも照らせないくらい、虚ろな目だった。
「あっそ」
「あっそ、って……」
自棄になったような返事に、無性に腹が立つ。
「わたしは大事な話をしてるんだけど」
「なあ、お前。俺がそんなことすらわからないと思ってるのか?」
「え?」
「馬鹿にするな」
知ってたんだ。基礎を見直すのが大事なんだと。
「馬鹿にしてないよ。でも、じゃあ、泰輝くんは今初心に帰って、基礎を見直してるところだったの?」
「違う」
「なんで? そこをちゃんとやらないと。当たり前だからって切り捨てるんじゃなくて、当たり前だからこそ見直さないと」
「知ったようなことを言うな。お前に何がわかるって言うんだ?」
「わかんないけど、でも力になりたいから、わたしにできることをしてるの。清さんに聞いたら、こういうときは初心に帰るといいって――」
――バンッ!!
突然、破裂音が耳をつんざいた。一瞬何が起きたのかわからなかった。
泰輝くんが机を殴った音だった。机には大きく亀裂が走っている。わたしは心臓に杭を打たれたみたいに、動けなくなった。
「やってんだよ! 俺だってやってんだ! でも、わからねえんだよ――
はっとした。
『なあ、なんで俺は幼い頃、あの滝を見て絵を描きたいって思ったんだ?』
そうか。えっちゃんちに来てからずっと、泰輝くんは自分の原点を探してたんだ。
でも見つけられなくて、どうしようもなくて。
「なんで絵が描けねえんだよ。意味がわかんねえ。今までこんなこと一度もなかっただろ。いつからこんなことになっちまったんだ……」
そこまで言って、泰輝くんはわたしの顔を見る。
そして何かに気づいたように、目を見開いた。
「……お前が来てからだ」
「え……」
「お前と会ってから、俺は絵が描けなくなった。お前がいるから……お前のせいだ。――お前のせいで、俺は絵が描けなくなった」
ドッドッドッ……と心臓が速くなる。
息を吸う度に、全身が昏い空気に塗りつぶされるような気がした。周りまで黒く塗りつぶされたように見えなくなる。
『お前のせいで、俺は絵が描けなくなった』
ただその一言だけが、はっきりと頭の中で響いた。
「出ていけ。二度と顔を見せるな」
遠くのほうからそんな言葉が聞こえた。抵抗する力なんて、残されているわけがなかった。
わたしはそれに従おうとした。けれど足が持ち上がらない。黒い沼にはまったように、重い。壁を掴んで、体を引きずるようにして部屋を後にした。
ひぐらしに話を聞いてほしい。ひぐらしなら、きっと全部受け止めてくれる。
わたしは逃げるように家を出た。すぐ脇に木々の生い茂る、古池村の一本道をとぼとぼと進む。求めているのに、セミの鳴き声は聞こえない。風が吹いて、ザー、と森がざわめくばかり。
ねえ、ひぐらしはどこにいるの……? 出てきてよ。
体がどんどん重くなっていく。服がぴったりと貼り付いて、地面に引っ張られる。あれ? と違和感を覚えて、シャツに触れると生ぬるく濡れていた。
「なんでこんなにびしょびしょになってるの?」
見上げると、灰色の空から雨粒が降り注いでいた。
「……早く帰ろ」
わたしは引き返して、雨に打たれながら家に帰った。体も拭かず、キッチンに向かう。
無性に甘いものが食べたい。おやつが食べたい。床に水滴をぽたぽた落としながら、貪るように冷蔵庫と棚の中を漁る。味噌とか牛乳とか邪魔な食材を掻き分けて甘いものを探した。
けれど、何もなかった。
なんでないの……? わたしの家にはいつもおやつの備蓄があったのに。呆然と、キッチンで立ち尽くした。
「どうしたの!」
するとそこへ、慌てたようなえっちゃんの声がした。見ると、えっちゃんが青ざめた表情で駆け寄ってきた。
「どこか悪いの、なっちゃん? ひどい顔色だよ」
「甘いもの、甘いものがないの……」
「甘いもの? お腹が空いたの?」
「甘いものが、食べたい……」
えっちゃんはそれ以上追及はしなかった。わたしを部屋に連れて行くと、濡れた服を着替えさせて、布団を敷いてわたしを寝かせた。そしてしばらくいなくなったと思ったら、小さな鍋を持って帰ってきた。
「落ち着いた? おかゆ作ったけど、食べられそう?」
わたしは静かに頷く。えっちゃんは少し安心したような顔になった。
湯気の立つおかゆをレンゲに掬って、ふーふーすると、
「甘いものじゃなくてごめんね。はい、あーんして」
と、優しく食べさせてくれた。おかゆはほとんど味がしなかったけれど、お腹は空いていたのか、食べても食べても飽き足らなかった。
わたしに何があったのか、えっちゃんは一度も聞いてこなかった。ただひたすら優しさで包み込むように、おかゆを食べさせてくれた。
もっとも、聞かれても話す気はなかった。
「ご飯が食べられたのはいいことだね。それじゃあ、なっちゃん、ひとりでも大丈夫?」
完食すると、えっちゃんがそう尋ねてきたので、わたしは頷く。
「そっか。何かあったらすぐに呼んでちょうだいね」
そうして、ひとりになった。考えなしに頷いてしまったけれど、やっぱり心細かった。かと言ってえっちゃんを呼ぶ気力はない。なんだかもうすべてが嫌になって、ぐっと目を瞑った。
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