8/11

 翌日。えっちゃんと清さんとのそんな良好な関係とは裏腹に、泰輝くんとの間は気まずさが拭えない。今日もご飯は一緒に食べたし、勉強会も一緒にやったのだけれど、いつもより泰輝くんの口数が少ない。するとわたしのほうもうまく喋れなくなってしまう。

 ただ単に避けられているだけなんだとは思う。

 しかしその一方で、わたしはどうしてか不吉な予感に囚われた。


「なあ、なんで俺は幼い頃、あの滝を見て絵を描きたいって思ったんだ? なんで絵なんだ?」


 少ない言葉の中、泰輝くんは何度も何度も、独り言のようにそんなことを聞いてきた。

 確かに気になるのはわかるけれど、そんなに深刻に思い悩むことか? なんか胸騒ぎがする。


『変わったつもりはないのに、気づけば色んなことが変わってて――』


 それから一日中、悪い妖精さんがえっちゃんの言葉を囁いて、背後霊みたいにつきまとってくるような気がした。

 そんな気持ち悪さを抱えたまま、気づけば夕食後だった。


「これさっき届いたものなんだけど、たいちゃんに渡してもらえる?」


 えっちゃんにお願いされたので、もちろん快諾した。

 届いたものってなんだろう。思いながら、紙の包装を少し開けて見ると、絵画用の筆が入っていた。


「へえ、泰輝くん、新しい筆買ったんだ」


 そういえば、わたしが見てない間に、依頼の絵のほうはどうなってるんだろう。一人で描いて、筆の進みが早くなったなら嬉しい。けれど、絵があまり変わっていてほしくないとも思ってしまう。置き去りにされたみたいで悲しくなってしまうから。

 泰輝くんの部屋に行っても絵を見せてくれるわけではないのに、そんなことを考えて進み、部屋の前についた。そして特に何も考えず、ふすまを開けながら、「泰輝くん、入るよー」と言った。

 だから――


「――待て!」


 慌てた声が響いた、そのときには、もう遅かった。

 わたしはもう部屋のなかを覗いて、『それ』を見てしまった。

 背筋が凍りついて、声も出せなかった。


 そこに滝が描かれていることすら、もうわからないくらい。

 ずたずたに破られた依頼の絵が、畳に打ち捨てられていた。

 木枠は叩きつけられたようにひしゃげて、キャンバスは引き裂かれたように破れている。


 どくん、どくん、と心臓が暴れる。

 口の中が乾いて、息ができない。足がすくんで、動けない。

 目線をあげる。泰輝くんがわたしを見て、ショックを受けたような顔で固まっていた。


「た、泰輝くん……これ、これは……なんで……」


 言葉は、勝手に口から零れ出た。自分がどうやって声を出したのかわからない。頭が真っ白になって、わたしは目の前で何が起きているのか、まったくわからない。

 いや、わかる。この絵が破れたのは、どう見ても事故じゃない。意図的に壊さないとこうはならない。

 つまり。

 泰輝くんが自分の絵を叩きつけて、引き裂いて、ずたずたにしたのだ。

 けれど――そんなことあるはずがない。


「なんで、あんなに頑張って描いてきたのに……こんな……」


 泰輝くんは、ただ逃げるように顔を伏せて、目を隠すだけだった。

 沈黙が流れる。胸の中が苦しいくらい熱くなる。

 ねえ、お願い。何か答えてよ。


「違うって、言って……。泰輝くんがやったんじゃないんだよね……? 何かの間違いで、こうなってるんだよね……!?」


 わたしはどうしてか自分が泣きそうになっていることに気づいた。


「うそだって、言ってよ……」

「俺がやった」


 わたしは心臓が凍りついた。

 泰輝くんは辛そうだった。奥歯をぎりぎりと噛みしめて、肩をがくがくと震わせる。そして畳に打ち捨てられた絵を見ると、知られたくないけど、それ以上に吐き出したくてたまらないことを告白するように、言った。


「絵が、描けないんだ」


 泰輝くんの絵がなかなか進まない理由をわたしは勘違いしていた。人に描くものだから。題材が難しいから。わたしがそばにいるから。そんなものだと思っていた。

 もちろんそれも無関係ではないのかもしれない。

 けれど一番の理由はもっと単純で、そしてもっと深刻なことだった。

 絵が、描けないんだ――

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