8/9 & 10

 えっちゃんちにいるからといって、勉強をサボっていいわけではない。最初の二日はドタバタしていたので仕方がないにしても、三日目からは勉強会を再開した。

 この日もデッキで朝食を食べた後、午前中は泰輝くんの部屋で勉強をした。


「おお、泰輝くんこの問題よく解けたねっ。これ結構難しいやつだよ?」

「まあな」


 夏休みが始まった当初と比べて、泰輝くんはなんというか、勉強の仕方がうまくなった。純粋な学力が上がったかどうかは置いておいて、勉強の効率だけを見ると間違いなく上がっている。なのでこれからも勉強を続ければ、それがちゃんと結果に出ると思う。

 泰輝くん自身はそのことに大した感慨もないみたいだけれど、飲み込みが早くて、先生としてはやりがいがある。

 昼食にみんなで焼きそばを食べると、午後は依頼の絵を描きに件の滝へやってきた。

 滝の裏側では、外から漏れ入る光で、水しぶきがきらきら舞っていた。泰輝くんは腕を組んで、しぶきから守られたキャンバスと滝を見比べる。そして何かを描こうとして、やめて。

 改めて、深呼吸するような筆使いで、一筋一筋光を描き加えていく。

 今回の絵。ここの湿度が高すぎるせいで、一日に描ける時間が短い。なのであまり時間をかけないように、素早く描いていくのかとわたしは思っていた。


「けど、まさかここまでゆっくり描くとはね……」


 わたしは静かに驚きながら、絵を眺める。光のカーテンみたいな滝と、その奥に透けて見える緑と青空、という大まかな構図は決まっている。しかし、細かい質感はまだほとんど描かれていない。描き始めて既に三日目でこれは、相当慎重に、丁寧に描いているみたい。

 やっぱり、誰かに向けて描くものだからかな。人にプレゼントするものだからいいものを描きたいとか? もしくは逆に失敗しないように、慎重になっているとか?

 あるいは、シンプルに題材が難しいから、というのもあるかもしれない。わたしは滝のほうを見やる。

 きらきら光っていた水しぶきに、気づけば虹が掛かってる。思わず見惚れてしまうくらい綺麗だけれど、今話したいのはその美しさについてじゃない。

 この滝は、時間とともに姿が変わっていくのだ。太陽の角度、気温や湿度、木々の揺れ方。色々な条件が移り変わっていく中で、この滝もその姿をころころと変えていく。さっきも空に雲がかかると、光の筋みたいだった滝が、ただの美味しそうな天然水に変わったりした。

 そんな滝を一枚の絵にするのは至難の業だということは、素人のわたしでもわかる。

 そういえば。

 泰輝くんがこの間こんなことを言っていたのを思い出した。


「絵を描くことは、移り変わっていく世界から一瞬を切り取って、時間を止めることだ」


 そのときはいまいち賛同できなかったし、滝と向き合って、丁寧に筆を進める泰輝くんを見てもやっぱりそれは変わらない。

 確かに、絵を客観的に見たらそうなのだと思う。絵は一瞬だけを映して、止まっている。

 けれど、泰輝くんの絵を見るとき、わたしはそれがただの止まった一枚絵に見えているかといえば、まったくそんなことはない。

 わたしの目には――絶えず移り変わっていく世界が見える。

 わたしの心は、その一瞬の前後にある時間の厚みを感じる。

 泰輝くんの絵は、生きている。

 止まった一枚の絵で、それを感じさせてしまえるところが、泰輝くんの絵のすごさだと思っている。


「うーん……」


 しばらくして、泰輝くんが背伸びをした。一段落ついたのだ。池の水に手を突っ込んで、気持ちいい……ってやっていたわたしは、それに気づくとすたすたと駆け寄る。

 今日の進捗を確認すると、やっぱりあまり進んでいなかった。本当に完成するのかな……。少し心配になった。

 けれど、わたしは屋根裏部屋の楽園を思い出す。泰輝くんは今まであんなにたくさん絵を描いてきたんだ。きっと大丈夫だ。


「ゆっくり見てる場合じゃないぞ。何回も言うけど、キャンバスをここの湿った空気に晒す時間はなるべく減らしたいからな」

「はーい」


 わたしはまだ眺めていたかったけれど、ちゃちゃっと絵を片付けて家に帰った。



 夕食後のおやつに、えっちゃんがお餅を焼いてくれた。砂糖醤油が香って、見るからに美味しそう。いただきますと言って、わたしはお茶の間でアツアツのそれをふーふーしながら食べる。テレビから今年のお盆は猛暑になるというニュースが聞こえてきた。


「暑くなるのはいやだねえ」


 と言いながらキッチンのほうに行くえっちゃん。それと入れ替わるように、泰輝くんがやってきた。


「ねえ、泰輝くんは暑いの好き?」

「まあ、寒いよりはましだな。アイスが美味いし」

「へえ、意外っ。泰輝くん暑苦しいのは嫌いなタイプかと思ってた。ああでも、言われてみれば暑い中でも平気で絵描いてるもんね」

「そうだな」


 思えば、ここでの生活にもすっかり慣れてしまった。それを実感しながら、のんびりそんな話をしていると、泰輝くんがこんなことを言った。


「その絵のことだけどさ――明日から俺、一人で集中して絵を描きたいんだ」


 わたしは一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「…………え」


 凍りついた頭で、考える。一人で集中して、絵を描く。それはつまり――


「わたしは、ついていっちゃだめってこと……?」

「いや、ついてくるのは構わない。だけど描くときに人が周りにいると、やっぱり気が散っちゃうんだよ。だから描いてる間は一人にさせてほしい」


 気負うわけでもなく、投げやりな感じでもなく。

 ただ淡々と、告げられた。


「そ、そっか……」


 わたしは胸の中がずんと重くなるのを感じた。冷たい石を置かれたみたいに。

 もちろん、わたしは泰輝くんが絵を描くところを見たい。それがわたしの生きがいみたいなものだ。

 けれど、それが泰輝くんの邪魔になってしまうなら、そんなことはしなくていい。しないほうがいい。


「うん、わかった。一人でも頑張ってね。わたしは家でお留守番するか、森をうろうろしてるから、描き終わったら進捗を見せてね」

「それなんだけど……」


 少し言いにくそうに、泰輝くん目を隠す。わたしは嫌な予感がした。悪い妖精さんがわたしの心臓を速くする。


「しばらく一人で、絵と向き合いたいんだ」


 だから見せられない。



   ◆



「やっぱり避けられてるのかな……」


 翌日。午後の日差しが強い、普段なら泰輝くんが絵を描くところに、一緒にいる時間。わたしは適当な空き地に来ていた。

 積み重なっていた小さな気まずさが、昨日のあれで溢れてしまったような気がする。午前中は何もなかったみたいな顔をして勉強会をしたけれど、そこまでが限界で、昼食を食べたらすぐに一人で家を出た。滝まで一緒に行くことは許されていたけれど、行かなかった。

 わたしは木陰に座り込んで、ひぐちゃんに話しかける。


「ひょっとして泰輝くんの友達に絵のことを話しちゃった件を、恨まれてるのかな……」


 あれは双方に謝ったけれど、なんだか消化不良な感じだったし――確かにそんな人が近くにいたら、絵に描くのに集中なんてできないよね……。

 ああ、そっか。絵の進捗が遅かったのは、わたしのせいなのか……。

 ぬるい風が吹いて、木がざわめいた。

 無性に甘いものが食べたくて、昨夜から既に四枚もクッキーを食べてしまったのに、また持参してきた一枚を食べる。

 ああ、ここまで落ち込むとは思わなかった。泰輝くんの絵は、わたしの中で本当に大きな存在なんだ。そう実感した。


「どうすればいいのかな……」


 語尾に毎回『かな』をつけてあげたのに、ひぐちゃんは何も答えてくれない。

 ひぐちゃんは、目の前の木に止まっているひぐらしだ。わたしは先程からひぐちゃんに相談に乗ってもらっているのだけれど、呑気に樹液でも吸ってるのか返事をしてくれない。

 本当はこういうとき、お母さんに話を聞いてもらってたんだけどな……。

 はぁと溜息をついて、項垂れる。


「聞いてるのー? 何か答えてよ、ひぐちゃんー」

「聞いてるよー」

「――ひゃっ!」


 すぐ耳元で声がして、わたしは飛び跳ねた。振り向くと、そこには口元を隠して笑うえっちゃんがいた。全然気づかなかった。なんという気配の隠し方。やっぱり忍者なんじゃないの?


「なっちゃん。残念だけど、ひぐらしはこの時間には鳴かないよ」

「そ、そうだったんですか」

「うん。でも、やっぱり生きてると、自然に話しかけたくなるときっていうのがあるよね。私も昔はよくあったよ」


 えっちゃんが森のほうを眺めて、しみじみと言った。


「私の場合は何か嫌なことがあると、自然に話を聞いてもらってたのよ」


 わたしはどきっとした。わたしもちょうどそんなところだった。

 振り返って、木に止まって静かにするひぐちゃんを見つめる。


「わたしは……」


 言葉は、勝手に口を零れ落ちた。


「わたしは小さい頃に見ていた世界が、一番輝いていたんです。それがわたし自身も知らない間に、同じようには見えなくなって。泰輝くんと出会ってから、世界がもう一回輝くようになったんですけれど、それが今、逆戻りしてて」


 これからしばらく泰輝くんの絵が見られない。そう思うだけで、旅に出る前のわたしに戻ってしまったみたいに、空の本当の青さが見えなくなる。


「本当は輝いてるはずなのにそう見えないから、どうにもならない気持ちで悲しくなってしまうんです。えっちゃんにはそういうことってないんですか?」

「そうだねえ」


 わたしの話を聞いて、えっちゃんは寂しそうに微笑んだ。


「もう数えきれないくらいあるよ。変わったつもりはないのに、気づけば色んなことが変わってて。大切な記憶を、いつの間にか思い出せなくなって。私もいつまでも若いままだと思ってたのに、手も顔もこんなにしわくちゃになって。時間ばっかりが私を置き去りにして、どんどん進んでいっちゃうのよ。寂しくなるけど、仕方ないね。きっとこれが歳を取るってことなのよ」


 すべてを受け入れたような言葉に、わたしは何も言えなかった。

 それが。

 それがもし、歳を取るってことなのだとしたら。

 わたしは心の底から、歳を取りたくないと思った。


「だからこそ――」


 えっちゃんはそう言って。

 いつの間にか俯いていたわたしのおでこをつん、とつつく。顔をあげたわたしに、えっちゃんは顔をしわくちゃにして無邪気に笑った。


「今は今しかないんだからこそ、若いなっちゃんは今を精一杯生きなさい」


 その言葉は、乾いた花壇に注がれた水みたいに、わたしの心にじんわりと染み込んできた。

 ああ、そうだね。今しかない今を生きないと。自然とそう思わせてくれた。

 わたしは晴れた夏の匂いをいっぱいに吸う。そして大きく頷いた。


「はいっ!」

「よしっ。じゃあ、早速だけど一つ、なっちゃんにお願いをしようかな」

「なんでしょう!」

「今、清が庭の菜園で野菜を収穫してるから、それを手伝ってもらえるかしら?」

「はい……! 任せてくださいっ!」


 ホーホケキョ、とうぐいすが鳴くのを聞きながら、菜園にスキップして行く。菜園では清さんが真っ赤なトマトを収穫していたので、それを手伝った。


「若い子が手伝ってくれると助かるよ、夏美ちゃん」

「いえいえっ。また何かあったらすぐに言ってください。喜んで手伝いますっ」


 実を言うと、えっちゃんちに来てからわたしは家事を手伝わせてもらえていなかった。手伝います! と言っても、いいのよ、と毎回断られて。たぶん子ども扱いされているのだ。泊めさせてもらっているのに何も返さないのは心苦しかった。

 なので、清さんの畑仕事を手伝うことができて気持ちがすっきりした。

 夕食には、今日収穫したトマトを使ったサラダが出てきた。


「ん~、甘いっ!」


 なんだかトマトがフルーツみたいに甘かった。


「どうしてこんなに美味しいんですか!」


 むふふ、と怪しく微笑んで、清さんが答えてくれた。


「そりゃあ、自分で収穫したからだろう」

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