8/5 その三
早くも、まずいことが起きた。
「まずこの水しぶきの中じゃ、絵は描けんな」
『キャンバスが濡れてしまう問題』を解決しない限りは、依頼を一切進められないことが発覚した。うっかりじゃ済ませられない見落としだ。こんな状況だというのに、
「うーん、どうしようかな……」
泰輝くんは大して動揺することもなく、滝のほうに手をかざしながら考える。どうして冷静でいられるんだ。依頼達成が一気に遠のいたような気がして、わたしは焦りで頭がいっぱいだった。
「どうして事前に気づかなかったの!」
という気持ちが喉まで出かかって、しかし言葉にはできなかった。
泰輝くんの顔を見ると、怒ったら後で気まずくなるだろうな、と思ったのだ。一気に水しぶきに頭を冷やされたような気がした。
わたしはぶんぶんと頭を振る。
怒るとか気まずくなるとか、今はそういうことを言ってる場合じゃない。依頼を進めることが最優先。そのために泰輝くんと一緒に、どうやって絵を描くか考えないといけない。
切り替えて、わたしはぱっと思いついたことを言う。
「キャンバスをここに置くから濡れるわけじゃん? だったら、この景色を写真に撮って、その写真を見ながら別の場所で描くのはどう? この前のMVを題材に描いたときみたいにさ」
「うーん。それも手だけど、正直絵のクオリティは落ちるんだよな。だからそれは最終手段だな」
「そっかぁ……」
「それで言うと、俺は、滝の近くだけど濡れない場所にキャンバスを置いて、滝の裏側と行き来しながら描くことを考えたけど、それも同じ理由でだめだな」
「そうだね。それだと、シンプルに集中できなさそうだしね」
そんなふうにしばらく意見交換をしたものの、結局、その場で納得の行く案は出なかった。なのでこの問題はひとまず宿題として、後で考えるなり調べるなりしようということになって、わたしたちは滝を後にした。
帰宅後、濡れた服を着替えると、えっちゃんに家を案内してもらった。平屋の母屋と、菜園のある庭に続いて、母屋と繋がったウッドデッキを紹介してもらった。
けれど、そのデッキを眺めて、わたしはふと違和感を覚える。
「ひょっとしたらわたしのセンスの問題かもしれないですけれど、日本家屋にデッキって、なんか変じゃないですか?」
「それはそうだよ。この家はもともと母屋しかなかったところに、後からデッキをくっつけたんだから。ねえ、清」
そう言って、えっちゃんは突然、泰輝くんの祖父である清さんに話を振る。
清さんはお茶の間であぐらをかいてテレビを見ていた。こんがり焼けた肌。引き締まった腕。ヨレヨレの白シャツ。畑が似合いそうな、タフなおじいさんだ。とっつきにくそうな見た目だけれど、優しい人だとわかっているので怖くはない。
清さんが何かこのデッキと関係あるんだろうか。きょとんとするわたしに、清さんは振り返ると、得意げに腕を組んで言った。
「僕は日曜大工が趣味でな。デッキは、僕が手ずから建てたものだ。設計から施工まですべて一人でやったのだよ」
「ええっ!?」
デッキを手作りするなんて、日曜大工とかの域を超えてない? それを聞くと、日本家屋に似合っているかどうかなんてどうでもよくなった。清さんすごい、という気持ちしかない。
「だけど、どうしてわざわざデッキなんて造ったんですか? デッキがなくても十分素晴らしいお家なのに」
「むふふ。それはそのときが来ればわかる」
そんなことを言って、意味深に微笑む清さんだった。
何なんだろうとわくわくしつつ、そうしてルームツアーを終えて、夕方。天気がいいので、夕食はデッキで食べることになった。四人でテーブルを囲んで冷やし中華をすする。
ああ、めっちゃ酸っぱい。実をいうと、わたしは酸っぱい食べ物が苦手だ。いただいている立場で文句をつけるなんてありえないので、満足そうな顔ですするけど。
思えば、我が家にいた頃は、わたしの苦手な食べ物は滅多に食卓に並ばなかった。たぶん、お母さんがわたしのために除いてくれていたんだ。
そう考えているうちに、清さんの言う『そのとき』がやってきた。
「わあ……! デッキからは毎日、こんな景色が見えるんですか……!」
真っ赤な夕陽だった。それに照らされない山並みは巨大な陰になって、空の赤色とくっきり世界を分けている。泰輝くんの絵の世界とはまた違う、色の強烈さだ。
「そうだよ。いいところでしょう?」
夕陽から目が離せないわたしに、えっちゃんが嬉しそうに答えてくれる。
「この夕陽を眺めるためだけに、清が頑張ってここを建ててくれたんだから」
「やっぱりそうだったんですね! 最高ですよ、清さんっ!」
わたしは清さんのほうを向く。すると清さんは真剣な顔をして「いやいや、何を言っているんだ」と言った。
「僕はこうして、セミの声をゆっくりと聞ける場所を作っただけだ」
「え? セミ?」
「ほら、聞こえるだろう?」
わたしは耳を澄ます。すると裏山のほうから、カナカナカナと鳴き声が聞こえてきた。
「あ、ほんとうだっ。これ、何の鳴き声なんですか?」
「知らんのかい? これはひぐらしの声だよ」
「へえ、これってひぐらしの鳴き声だったんだ……!」
聞いたことのある虫の音だったけれど、まさかセミの鳴き声だとは思わなかった。こんなに美しい音色で鳴くセミがいるんだ。少しびっくりした。
カナカナカナ……。
夕陽とともに聞くと、不思議ともの寂しい気持ちにさせられる音色だった。確かにこのデッキは、セミの鳴き声を聞くのにもお誂え向きかもしれない。
「清はね、昔っからセミが大好きな男の子だったんだよ」
秘密をこっそり教えるような口調で、えっちゃんは言った。細めた目尻にしわができる。
「中学生になっても、制服着たまんま虫取り網を持って森に入ってって、大量にセミを捕まえて帰ってくるような男の子でね。網の扱いがやけに上手いらしくて、年下の男の子たちからは英雄みたいに慕われてたんだよ」
清さんは腕を組んで、誇らしげに頷く。
そんな清さんを見て、えっちゃんは困ったように、けれど同じくらい愛おしそうに息をつく。
「ほんと、私はどうしてそんな子どもっぽい男の子を好きになっちゃったんだろう。今でも不思議だよ。だって、雨の日でもかっぱ着て、どろんこになって帰ってくるのよ? そしてそれを反省もしない。もう恥ずかしくて仕方な――」
微笑ましい、おふたりの若い頃のエピソードはそこで途切れた。
「――あ! かっぱだ!」
と。
わたしが天才的なことを閃いて、思わず立ち上がってしまったのだ。
「そうだ! 泰輝くん、そうだよ! かっぱを着せればいいんだ!」
「は? 何言ってんだ?」
泰輝くんに冷静に言われて、はっと口を押さえる。しまった。つい興奮に任せて喋ってしまった。気づけば、えっちゃんと清さんが揃ってびっくりしたようにこちらを見ている。顔が熱くなるのを感じながら、わたしは縮こまる。
チリン、と風鈴が鳴った。
「すみません……」
「いいのよ。なっちゃん、そんなに話したいことがあったんだね。いいよ、話してごらん?」
えっちゃんはくすくすと笑って、快くわたしに話を譲ってくれた。
ああ、やっぱり優しいおばあちゃんだ。わたしはほっとした。
その反面、少し申し訳なくもあるけれど、ここはご厚意に甘えて、
「すみません、泰輝くんにしか通じない話なんですけど」
と言って、泰輝くんに向き直る。
「わたしが言いたいのは、依頼の絵のことだよ。滝の裏側を描くときのこと。水に濡れたらだめなんだったら、キャンバスにかっぱを着せれば――つまり、レインカバーみたいなものを被せれば、水しぶきを防げるんじゃないの? ほら、カメラとかでもあるじゃん? 全体をすっぽり覆って、雨とか砂とかからカメラを守るようなやつがさ」
「なるほど、うーん……」
泰輝くんは考えているのだろう、山のほうを見て唸る。
「絵画用のレインカバーなんて、聞いたことがないからな。そもそも存在するかどうかすら、俺は知らない」
「え?」
「驚くようなことじゃないだろ。雨に打たれる場所で絵を描くこと自体、普通はしないからな」
そうなのか。いい案だと思ったんだけどな……。わたしはしょんぼりする。
けれど、泰輝くんの言葉には続きがあった。
「だけど――もしそんなものがあれば、確かに水しぶきは防げそうだな」
「ほんとう!?」
「ああ。だからとりあえず、ネットとか見てみようか。もしかしたらいいのが売ってるかもしれない」
「うん……!」
「まあ、時間はたっぷりあるんだ。なかったら手作りしてみるのもアリだ」
「手作りすることになったら、僕に任せなさい」
そう言って、自分の胸を叩いたのは清さんだ。このデッキを手作りしたような、根っからの工作人間だ。彼より頼もしい助っ人はいない。
そうして、夕食後は『キャンバスが濡れてしまう問題』解決への糸口――キャンバス用のレインカバーを探して、泰輝くんと一緒にネットをサーフィンした。
ちなみに、その作業にわたしのスマホは使っていない。わたしのスマホはこの二週間、ずっと機内モードで、通信を断ったままである。すっかりそれには慣れてしまったのだけれど、それはともかく。
結果から言うと、見つけられなかった。
やっぱり、泰輝くんの言う通り、雨に打たれる場所で絵を描くこと自体想定されていないみたいだ。『キャンバス、雨除け』『キャンバス、レインカバー』などと検索しても、キャンバスという車のドアバイザーや防水シートばっかり出てきて、話にならなかった。ひょっとしたら、ブランクでネットの扱いが下手になったかもしれない。
そんなわけで、ネットで既製品を調達するのは諦めて、自作する方向に方針を転換した。
その晩、部屋に戻ると布団がふたつぴったりと並んで敷かれていた――みたいな定番なことがあったら笑っちゃうな、と思っていたけれど、ありがたいことに一人部屋をいただけた。
そのことに、やけにほっとしている自分がいた。
山間部だから通り抜ける風が涼しい。クーラーがなくても気持ちよく眠れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます