8/5 その二
家の裏の森では、木々は高く葉を伸ばし、草花は深く生い茂っていた。濃い緑の匂いに満ちた、手つかずの森という雰囲気。その中を小川が歌いながら流れていく。それに沿って泰輝くんが進むので、わたしはその背を追う。
ああ、どうしよう……! この先に、泰輝くんが人生で一番美しいと感じた何かがある。一体どんなものなんだろう。わたしの知るこの世で一番美しいものは、泰輝くんと初めて会った日に入り込んだ風景画の世界だけど、それを越えるようなものがあるのかな。
妄想に夢中になりながら、しばらく進んだ頃だった。
不意に泰輝くんが立ち止まった。わたしはそれに気づかず、その背中に頭からごっつんこする。
「いてっ。びっくりしたあ。止まったなら止まったって言ってよ?」
「ここだ」
「ここ? ……おおっ!」
そこにあったのは、滝だった。わたしを三人縦に並べたくらいの高さの、苔むした岩壁があって、その上から水が飛沫をあげながら下の池に落ちていく。あまり大きな滝ではないので、響く水の音は心地よい。
なかなか普段お目にかかれるようなものではない、美しい眺めだった。
「…………」
けれど、わたしはそれ以上何も反応しなかった。泰輝くんの感性を否定するつもりは決してない。その上で、率直な感想を言うとしたら――
この滝は確かに美しい。けれど、これが人生で一番というのには同意できなかった。こんなわたしでも、これより美しいものを知っている。もちろんそれは泰輝くんの絵だけれど。わたしは少なからず拍子抜けした。
「おいおい、これで終わりだと思ったらいかんぜ」
「えっ……?」
そんなわたしに、泰輝くんは自信ありげに言った。戸惑うわたしをよそに進み出す。どこに行くのかと思えば、彼は池の外周に沿って滝のほうに向かった。わたしは慌てて追う。近くに行けば何かがあるんだろうか。
そうして滝を違う角度から見て、すぐに気づいた。この滝が、ただの滝ではないということを。
池沿いに草木を掻き分けて進むと、すぐに岩壁についた。滝は近くで見ると、思いの外大迫力だった。けれど、重要なのはそこではない。
滝の裏の岩壁が、巨人の手でえぐられたみたいに窪んでいるのだ。正面からだと気づかなかった。滝の裏側に空洞があって、そこへ歩いて入ることができる。
泰輝くんは躊躇なく、滝の裏へと入っていく。それに続くのはほんの少し勇気が必要だった。わたしは覚悟を決めて、裏側に一歩踏み入り――息を呑んだ。
そこは別世界だった。濡れた岩に囲まれた薄暗い空間に、滝のカーテン越しに外の光が漏れ入る。水しぶきが冷たくて気持ちいい。滝のカーテンは透き通るように光り、木々の隙間から光の筋が降り注いでいるみたいだった。
「天使が降りてきそう……」
神秘的な光景に呆然としながら、わたしは自然と感想を漏らしていた。
「奇遇だな。幼い頃、初めてこれを見たとき、俺も同じことを思ったんだよ」
泰輝くんは懐かしそうに言った。滝の音にかき消されないように、声を張って。
「だから、クリスマスの夜にサンタさんが来るのを待って夜ふかしするように、俺はそのお盆の間、毎日ここに来て、天使が降りてくるのを待ってた。なんか、待ってれば本当に来るような気がしたんだ。まあ結局天使を一目見るよりも先にお盆が終わって、山井のほうの家に戻らないといけなくなったんだけどさ」
泰輝くんは少し寂しそうな顔をした。
けれど一転、彼は胸を張って、この世界をわたしに自慢するように言う。
「俺はこの風景を見て、初めて絵を描きたいって思ったんだ」
わたしは胸の奥が震えるのを感じた。
「そうなんだ……!」
ここが泰輝くんが描く世界の、始まりの地なんだ。そんな場所で、幼い泰輝くんが感じたものと一緒のものを、わたしは今感じている。そのことがたとえようもないくらい嬉しい。
けれど、わたしはふと我に返って、疑問に思う。
「ねえ、泰輝くん。どうして『絵』を描こうと思ったの? 美しい景色を残したいなら写真でもいいし、また来たいなって思うだけで、泰輝くんは別にまたここに来られるわけじゃん? わたしが泰輝くんの立場だったら、きっとそれで満足しちゃう。なのに、どうして泰輝くんは『絵』を描こうと思ったの?」
泰輝くんはものすごく不思議そうな顔をした。なので、てっきりわたしは的はずれな質問をしたのかと思った。けれど、そうじゃなかった。
「確かに……なんで、俺はこれを絵に描きたいって思ったんだろう」
「えっ……?」
泰輝くんは少し考えるようにする。
「絵を描くっていうのが俺にとって当たり前のことすぎて、そんなこと考えたこともなかったわ。それに、今考えても、あれは小学校低学年の頃のことだから、よく思い出せねえな。『絵を描きたいと思った』っていう印象だけが強く残ってるだけで、じゃあなんで具体的に『絵』なのかと聞かれても、それは俺もわからん……」
「そんなことってあるんだ……」
「そりゃあ、あるだろ。昔の自分が何を考えて生きてたかなんて、少なくとも俺はまったく覚えてないぞ」
「確かに、言われてみればわたしも」
靴下をくるくるしてドーナツみたいにするのが好きだった覚えがあるけれど、何を気に入ってそんなことしていたのかと聞かれてもわからない。なんか、好きだったみたいだね、としか言えない。
「ともかく、話を戻そう」
切り替えて、泰輝くんは見回す。滝の裏側の、濡れた光の世界を。
「俺は自信をもって言える。――ここが俺が今までで一番美しいと感じた場所だ。なので予定通り、依頼の絵はここを描く」
「サーイエッサー!」
泰輝くんは宣言するような言葉に、わたしはびしっと敬礼した。異論はもちろんない。今からもう完成した絵が楽しみなくらい、ここは絵の題材として素晴らしいし、ここなら真夏の昼間でも涼しい。ここ以上の場所は、少なくともわたしには考えられない。
そう思ったところで、わたしは水しぶきで服がぴったりと体に貼り付くのを感じた。やっぱりその感覚はあまり好きじゃないけど、これから毎日ここに来るんだ。慣れないとね。そう考えて、
「…………ちょっと待って」
ふと、悪い妖精さんが顔を出した。
「どうした?」
「ものの数分で服がこんなに濡れるってことは、ここで絵描いたらさ、水しぶきでキャンバスびしょびしょにならない? それって大丈夫なの?」
わたしの質問に、泰輝くんはぱちんと指を鳴らした。
「お前、天才じゃん。よく気づいたな」
わたしはほっとした。泰輝くんがわたしを褒めるということは、きっと彼も先に気づいていたということ。
「でしょでしょっ。で、キャンバスは水に濡れても大丈夫なの?」
「大丈夫じゃない。キャンバスが縮んで駄目になる」
「じゃあ、何か濡れないように対策とかしてきたってこと?」
「いや、それをどうしようか、今考えてる」
「へえ、そうなん……――え?」
わたしはあんぐりと口を開ける。
「お前は天才だ。俺が今言われるまで気づかなかったことを、先に気づいたんだからな」
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