7/29 その一

 翌朝。昨夜はほとんど眠れなかったので、わたしはいつもより早くに起床して一階に降りていった。キッチンには千和さんの姿があった。せっせと朝食を作っていた。


「おはようございます、千和さん」

「あら、おはよう、夏美ちゃん。今日は早いわね。朝ご飯もうすぐできるから、ちょっと待っててね」

「わかりました」


 頷くわたしを見て、千和さんは首を傾げる。平静を装ったつもりだったけれど、わたしの態度が何かおかしかった? にわかに不安になるけれど、特に何もなかったみたいで、千和さんはすぐに朝食作りに戻った。わたしは静かに息をつく。

 やがて泰輝くんが起きてきて、一緒に朝食を食べた。いつも通り、特に変わったこともないおしゃべりをしながら。

 朝食は卵焼きだった。千和さんの卵焼きはしょっぱい。お醤油をたっぷり入れるんだと、この間教えてもらった。

 けれど、今日はいつもより控えめにしたのか、味が薄かった。


「行ってくるね、ふたりとも」

「いってらっしゃーい、千和さん」


 やがて千和さんがパートに出かけた。泰輝くんと千和さんは同じ部屋にいながら、結局一言も言葉を交わさなかった。

 いつもだったら、これから泰輝くんの部屋に行って勉強会を始める。けれど、今日はその前に泰輝くんに話があった。ふたりきりになれるタイミングを、わたしは窺っていたのだ。

 本当は、このことに触れるべきでないのはわかっている。わたしはあくまでよそ者で、これは家庭内の話だ。わたしが口を出すのは筋違いだ。

 けれど、訊かずにはいられなかった。


「ねえ、泰輝くん」


 朝食の片付けを終えた泰輝くんは振り返る。もったいぶる必要はない。悪い妖精さんが出てくる前に、わたしは腹をくくって尋ねる。


「昨日の夜のあれは、どうしたの……?」


 泰輝くんは虚を突かれたように、目を瞬いた。けれどたちまち、帽子で隠す。


「見てたのかよ」

「ご、ごめんねっ? 盗み聞きするつもりはなかったのっ。水を飲みに行こうとしたら、たまたま聞こえちゃって。悪気はなかったの……」


 悪い妖精さんが出てきて、わたしは自然、言い訳がましくなってしまう。というか、言い訳以外の何物でもなかった。本当は立ち止まって全部聞いていたのだ。なのに怖くて、正直なことを言えない。自分の意気地のなさが嫌になる。

 そんなわたしに、泰輝くんは溜息混じりに言う。


「別になんでもいいよ。悪気があろうとなかろうと、聞かれたことに変わりはないんだからさ。今更そんなことどうでもいい」


 拍子抜けだった。てっきり怒って口も利いてくれなくなるんじゃないかと思っていた。それがやたらと割り切っている。それか、諦めているのか。

 どちらにせよ、それを見て、わたしもくよくよしてる場合じゃないと思った。


「昨日のあれは、どうしたもこうしたもねえ。見ての通りだ」


 わたしの質問に、泰輝くんは投げやりにそう答えた。

 見ての通り、ということは。

 絵はもうやめなさい――

 あれは何かの間違いではないということ。千和さんが泰輝くんに絵をやめさせようとしている、ということ。わたしはじーんと、頭の芯が痺れたようになる。

 しかし、それが事実だとして――それでもわたしにはわからないことがある。


「……どうして千和さんは、泰輝くんが絵を描くことに反対するの?」

「そりゃ、俺への当てつけだろ。画家になりたがっている俺への」


 当てつけ? どういうことだろう。その答えにわたしはいまいちぴんとこない。

 けれど、台詞の後半部分にやけに気を引く文言があって、


「……え、ええっ!? ええええっ!!」


 と、一拍遅れて大声を出した。


「うるさいな、急に叫ぶな。つーか、そんなに驚くことか?」

「いや、驚いてるんじゃないよ! 喜んでるんだよ! ハッピーなんだよ! ――やっぱり泰輝くんは将来、画家になりたいんだ!」


 泰輝くんは絵に対してものすごく真剣だ。わたしはその姿を見て、きっと泰輝くんは画家を目指しているのだと勝手に思っていた。

 けれど、泰輝くんの口から直接それを聞かない限りはもしかしたら違う可能性だってある。ただ趣味に熱中しているだけかもしれない。もしそうだったらどうしようと、わたしは心配だったのだ。


「その言葉を聞けて嬉しいよ! だって、泰輝くんが画家になれば、これから一生、わたしは泰輝くんの新作を見続けられるってことでしょ!?」


 うへへへ。想像するだけで笑顔が溢れて止まらない。ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねてしまう。

 しかし、わたしはふと冷静になる。泰輝くんが画家になりたいのはわかった。

 その一方で、忘れてはいけない――千和さんがそれに反対している事実もある。その理由を、泰輝くんはこう言った。


「泰輝くんへの、当てつけ……? それはどういうこと?」

「それを説明するためにはな、まずはあいつの若い頃のことを話さないといけない」

「千和さんの若い頃?」

「そう。それこそ俺らくらいの歳だった頃の話だ」


 泰輝くんは言った。


「あいつは歌手になりたかったんだ」




 歌手。泰輝くんに続けて明かされた、千和さんの若い頃の夢。

 歌手!? と、わたしはついいつもみたいに大袈裟なリアクションを取ってしまったけれど、しかし言われてみれば、それはそこまで意外なものではなかった。そういう華やかさが千和さんにはあるのだ。ステージの上に乗っている姿が想像できるというか。すんなり飲み込める話だった。

 そこから語られたのは、千和さんの過去だった。


「あいつは歌手を目指していた。実際、歌は上手かったらしいし、今もお世辞抜きで上手い。幼い頃、俺もよく聴かせてもらったのをよく覚えてる」


 だけど、歌の世界はあいつの想像を遥かに超える厳しさだった――と、泰輝くんは帽子で目を隠して言った。まるでその事実から目を逸らすように。


「歌手は、人より歌が上手い程度でなれるものじゃない。それなりに努力はしただろうし、チャンスはいくつかあったらしいけど、結局のところ、あいつは歌手にはなれなかった。というより、自分で見切りをつけたらしい。自分はそこまでの器だったって。そうして歌手の道を諦めた。それが賢明な判断だったかどうかは、俺にはわからん。なぜなら、じゃあ他に進める道があるのかと言えば、なかったからだ。あいつは自分の歌の才能に自惚れて、学生時代まったく勉強をしてこなかった。勉強しなくても、どうせ歌手になって食べていけるから、何の問題もないと思ってた。だから路頭に迷ったのは、言っちまえば当然の結果だ。その後しばらくして父さんと出会って結婚するまでは、随分とひどい生活をしてたらしい。詳しいことは知らないし興味もないけどさ」


 そんな感じで、あいつは歌手になりたかったけどなれなかったんだ――と、泰輝くんは纏めるように言った。そして溜息をつく。

 そうだったんだ、千和さん……。話を聞いて、わたしは感傷的な気持ちになった。

 その一方で、ああでも、これはありふれたことなんだろうな、とも思う。歌手なんか、誰もが一度は憧れるけれど、現実にはほんの一握りの人しかなれない。話題にされないだけで、なれず終いの人のほうがよっぽど多いはず。そういう人はきっと世の中に溢れるくらいいて、けれどそんな過去はなかったかのように、当たり前に別の仕事をしたり、主婦になっていたりするんだろう。

 わたしは下を向いて通勤するサラリーマンの姿を思い出した。あの中にどれだけ、夢に敗れた人がいるのかな――


「それで、本題だ――」


 切り替えて。

 泰輝くんはそう言った。強い口調だった。いつもの不機嫌さとは違う、千和さんのことが嫌いだと言った初日の夜のような。

 わたしは一気に現実に引き戻された気がした。


「あいつは自分が歌手になれなかったからって、当てつけで俺も画家になれないって決めつけやがるんだ。いや、面と向かってお前は画家にはなれないとは言ってこないさ。だけど、俺は画家になれないってのを前提に話してるのが、まざまざと伝わってくる。だから平気で言うんだよ。絵なんてやめて勉強しろって。一時期ひどい生活をしてて、それが辛かったのかは知らないけど、とにかく腹が立つ。てめえができなかっただけだろ。なんでそれに俺まで巻き込まれて、できないことにされなくちゃならねえんだよ」

「いや、勉強しろって言うのは、たぶんそういうことじゃないと思うけど……」

「そういうことだろ。確かに、画家として食っていくのは難しいさ。なりたいって言ってなれるもんじゃねえ。ほんの一握りの、才能の塊みたいなやつしかなれねえ。歌手と同じだ」


 歌手と同じ。千和さんと――同じ。


「俺がまだ一度もコンクールでいい成績を残せてないのも、事実だ。否定はできない」


 だけどなぁ、と泰輝くんは言う。ぎりぎりと手を握りしめて、震える声で。怒っているのに、泣きそうでもある声で。


「だからって、俺がなれないとは限らねえだろ。違うか? 俺はあいつじゃねえんだよ。俺は画家になるつもりだ。才能はないかもしれないし、センスもないかもしれない。だけど、それだけやってきた。何枚も何枚も描いてきた。それを、あいつは……」


 そこでわたしは身構えた。泰輝くんが叫び出す。――と思った。そのくらい怒りに溢れていたのだ。けれど、泰輝くんはなんとか呑み込んでゆっくりと息をした。その息はまだ怒りに震えていた。


「あいつは……自分が歌手になれなかったからって、お前もどうせ無理だって俺を真っ向から否定してくる。本当に、堪ったもんじゃない」


 堪ったもんじゃない。泰輝くんは繰り返した。

 わたしは気圧されてしばらく言葉が出なかった。しばらく固まって、立ち尽くした。泰輝くんの言いたいことはわかる。感じている気持ちも、たぶんわかる。

 けれど――わたしはゆっくりと息をしてから、言った。


「わたしは、違うと思う」


 こんな言葉で泰輝くんが納得してくれるとは思っていない。それでも、わたしは自分の思ったことをそのまま言葉にする。


「千和さんは、泰輝くんを否定したいわけでも、画家になれないって決めつけてるわけでもなくて……ただ、後悔してるんだと思う」

「あ? 後悔?」

「そう。千和さんは自分が勉強をしてこなかったせいで、自分が苦しい思いをした、でしょ? それを後悔してて、だから、泰輝くんには同じ苦しみを味わってほしくない。自分と同じ道を辿ってほしくない。だからそうならないように、勉強をしてほしい。ただそれだけなんじゃない? 泰輝くんを信頼してないんじゃない。心配してるんだと思う」


 わたしの言葉を受けて、泰輝くんは少し考える。もしかしたら納得してくれるかもしれないとにわかに期待した。

 けれど、やっぱり期待はハズレだった。泰輝くんはじろりとこちらを見ると、呆れたように言った。


「どっちでも同じことだろ。俺が画家になれない前提なのに変わりはないじゃねえか」

「確かに、それはそうだけど……」


 千和さんの気持ちも泰輝くんの気持ちもどっちもわかる。歌手と同じで、画家はなりたいと思ってなれる職業じゃない。だから、もし泰輝くんが自分と同じようになりたいものになれなくて、路頭に迷ってしまったら。そんな場合を考えてしまい、勉強して、安定した仕事に就いてほしいと願う千和さんの気持ちはわかる。

 一方で、そう願われることが、自分の夢を否定されることに感じて、反発する泰輝くんの気持ちもよくわかる。

 どちらもわかるからこその板挟みで、わたしは何も言えなかった。


「俺より美術や絵画への造詣が深い人からの批判だったら、俺は受け付けるよ」


 そうしてしばらく考えていると、泰輝くんは突然そんなことを言った。


「だけど、絵のなんたるかをまったく知らねえ輩が、コンクールの結果だけを見て、俺の絵に対して知ったようなことを言ってくるのは我慢ならねえ。まじで気持ちわりい。素人は黙ってろ」


 それがきっと千和さんに対する言葉なのはわかった。わたしは息を呑んで、無反応で受け流した。ただ、心のなかで、ひどいことを言うのはやめてほしいと願った。

 すると、おい、と言って泰輝くんはわたしを見る。わたしは肩をびくつかせる。次の標的はわたしかと思ったのだ。


「お前、こんなことにマジになってる俺が、見るに堪えないって思っただろ」

「い、いや、思ってないよ? 全然そんなこと、思うわけないじゃん?」


 思った。マジになっていることに対してではないけれど。泰輝くんがひどいことを言っている姿は見たくない、と思ったのだ。図星を指されて、冷や汗だらだらだった。

 けれど、そんなわたしに泰輝くんは思いもよらないことを言う。


「いいんだよ、思っても」

「え?」

「ここで大人しく素人の意見を聞き入れたり、突っかからずにスルーするのが立派な画家なんだとしたら、俺はそんなものにはならなくていい。大前提として、そもそも――創作っていうのは恥ずかしいものなんだ」


 泰輝くんはそんなことを言った。


「恥ずかしいもの? そうかな……」

「恥ずかしいよ。自分の中にあるどうしようもない何かを一生懸命表現して、形にして、誰かにわかってほしい、誰かに伝えたい。そんな欲求が恥ずかしくなくて何だって言うんだ?」

「…………」

「見るに堪えないくらい恥ずかしいさ。そんな欲求が自分の中に溢れていて、それに従って自分は絵を描いてるんだなんて、考えるだけでどうにかなりそうだ」


 だけどな、と泰輝くんは言う。


「創作からその恥ずかしい欲求を取り除いたら、もうそこには何も残らねえんだよ。わかってほしい、見てほしい、知ってほしい――そういう欲求なくして創作はありえない。創作とは恥ずかしさの結晶みたいなものだ。恥ずかしさこそが、創作の原点だ。だから、俺は創作する一人の人間として、恥ずかしくて一向に構わない。みっともなくて一向に構わない。――俺はありったけの恥ずかしさを抱えて、これからも絵を描き続ける」


 宣言するような泰輝くんの言葉に、わたしはなんとも言えない、不思議な感慨を覚えた。

 わたしはたぶん、恥ずかしさの感覚が人よりも鈍感だ。よほど大きな失敗をしたり人にからかわれたりしない限り、あまり恥ずかしいとは思わない。なのでそもそもの大前提である、創作が恥ずかしいということにはいまいち共感できなかった。

 自分をわかってもらいたいと思うのは当たり前のことで、それを実現できる創作はいいものじゃん、とわたしは思う。もちろん泰輝くんの絵も立派だ。もし泰輝くんの絵をからかうやつがいてそれが恥ずかしいんだったら、それはそいつのセンスがこっちと違うだけだ。人それぞれ違うのは当たり前なんだから、恥ずかしがるようなことじゃない。

 そう思う。けれど、それはそうとして。

 わたしは泰輝くんの言葉を思い出す。

 俺はありったけの恥ずかしさを抱えて、これからも絵を描き続ける――


「え、ちょーかっこよくね?」


 と思った。一発でハートを掴まれた感じだ。もし泰輝くんの名言集を作るとしたら、この言葉は入れると断言できる。

 ただ、わたしはふと疑問に思う。泰輝くんはある意味割り切った考え方をしているのに、どうしてわたしに他の絵を見せてくれないんだろう。恥ずかしくて構わないんだったら見せてくれればいいのに。

 思ったけれど、深く考えることはできなかった。ふと気づけば、何も言わず泰輝くんがキッチンからいなくなっていたからだ。


「あ、こら、言い逃げしたね、泰輝くん! かっこいい台詞を言ったからって、勉強免除にはならないからね! ちょっと遅くなったけど、今から勉強するよ!」


 わたしは泰輝くんを探して、すたたたと家を駆け回る。泰輝くんと千和さんの問題が宙ぶらりんになったまま、こうして今日という日はいつものルーティンに戻った。

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