7/29 その二
泰輝くんは普通に自分の部屋にいたので、その後、そのまま勉強に移った。
「今日は午後から何描くの、泰輝くん?」
「昨日の続きだ。山にある、倒木に押し潰された小屋を描きに行く」
「はーい!」
ということで。
手早く昼食を済ませると、昨日と同じようにバスで山の中腹に行き、ちらちらと木漏れ日が降る杉並木を進んで例の場所へやってきた。そこには今日も、昨日とまったく同じように、古びた小屋に木が倒れていた。
泰輝くんは早速キャンバスを取り出し、集中して昨日の続きを描き始める。もしかしたら今日で完成するかもしれないと言っていたので、わたしは完成まであえて進捗を見ないことにした。完成してからのお楽しみ、というやつだ。
早く絵を見たい気持ちをぐっと我慢しながら、今日はやけに蚊が集まってきたので、何度も激闘を繰り広げた。そうしてあっという間に、時間が過ぎた。
「うーん……」
サー、と木の葉を揺らして風が通り抜ける。泰輝くんが大きく背伸びをした。描画に一段落ついた合図だ。近くで咲いているお花を観察していたわたしは、それに気づくと振り向く。
「あれ、今日はもう終わり? もうそんな時間?」
「もうそんな時間って、もう六時だぞ」
「え、うそ。はやっ。じゃあ、もしかして絵は完成した?」
「ああ、完成した」
「おお、完成! ほんとうに!」
わたしの問いかけに、泰輝くんは満足げに頷く。珍しく、不機嫌じゃない表情だった。
わたしはぴょんと飛び上がった。完成前から美しかったあの絵が、完成なんてしたら、一体どうなっちゃうんだろう。見たい気持ちをここまで頑張って我慢したけど、完成したと聞いたらもう待ち切れない。わたしはすたたたと走って、横からキャンバスを覗き込んだ。
「…………あれ?」
濃い緑に覆われて、朽ちていく過程にある小屋と倒木。その物悲しさが見事に描かれていて、言うまでもなく美しかった。
けれど、引き込まれない。惹き込まれない。色が踊って、光が弾ける、朽ちる音も、風の匂いも、寂しい味も本物以上に鮮烈に感じられる、あの没入する感じが――絵の世界に入り込む感じが――いつまで眺めていてもやってこない。
わたしは肩透かしを食らったような気持ちだった。高得点を確信していたテストが、いざ返却されてみると微妙な点数だったときみたいな。
え、どうして……? と、頭の中が空白になった。
これは、わたしの知っている泰輝くんの絵じゃない。昨日の時点のほうがわたしは引き込まれた。それがどうして今日になって引き込まれなくなったんだろう。そりゃ、泰輝くんだっていつも完璧な絵が描けるわけではないだろうけれど……。
昨日と今日で、何が変わってしまったんだろう。
「……あ」
そのとき、わたしはひゅんと心臓が縮んだような気がした。昨日と今日で、何が違うって? そんなの、考えるまでもない。間違いない。これしかない。
絵はもうやめなさい――
昨日のあのやり取りで、泰輝くんは自信を失っているのだ。
夕食後。リビングのソファで、わたしは居候として、千和さんが洗濯物を畳むのを手伝っていた。今日の家事手伝いである。ちなみに、泰輝くんはもう自分の部屋に戻っている。
「昨日言ってた、倒木に押し潰された小屋あるじゃないですか。あれの絵が今日、完成したんですよっ」
「あら、そう? どうだった?」
お腹がいっぱいに満たされた、落ち着いた時間。わたしの何気ない雑談に、千和さんはにっこりと笑顔で答える。いつも通りだ。思わず寛ぎそうになるくらい、いつも通り。
ただ、もちろん、こんな時だから、いつも通りなのは表向きだけだ。
ようやく、千和さんとふたりきりになれるときが来た、とわたしは思う。ずっとこの時を待ち望んでいたので、それは嬉しくもあり、その反面怖くもある。わたしは自分の性質をわかっているつもりだ。このタイミングを逃してしまったら、次はない。ちゅうちゅうと悪い妖精さんにやられて、何もできなくなってしまう。
だから、やや突然だけれど、話のとっかかりができたので――声色を真剣にして、わたしは切り出した。
「その泰輝くんの絵のことで、千和さんに伝えたいことがあります」
千和さんの表情が、一気に引き締まった気がした。笑顔のまま、引き締まった。その一言で、わたしが色々知ったということを察したのかもしれない。
「なに、夏美ちゃん?」
「泰輝くんが絵を描くことを許してください――と、言う資格はわたしにはありません」
千和さんは目を瞬かせる。てっきりわたしがそうお願いすると思っていたみたい。その表情が泰輝くんにそっくりだった。
やっぱり二人は親子なんだ。そんな時でもないのにわたしはほっこりして、なればこそ改めて、二人には仲良くしてほしいと思った。
「わたしはあくまでよそ者ですから、家庭内の問題に口を出すのは、たぶん間違ってます」
「え、ええ……」
「だけど、わたしは千和さんに、なんとしてもこれだけは伝えたい」
千和さんは目を泳がせる。その目をわたしはじっと見つめる。千和さんの意識をわたしに固定するように。
この胸の奥で震える、焦がれるほどの思いが、ちゃんと伝わってくれるかな。心配だけど、伝わるといいな。どうか伝わりますように。わたしは心のなかで願う。
すると、なんだろう。何かがやたらとむず痒くて、わたしはそわそわしてしまう。緊張とも不安とも同じようで違う、とても落ち着かない感じ。ここにいたいのに、逃げ出したくなる感じ。自分を見てほしいのに、見ないでほしい感じ。その感覚に心当たりがあるような気がして――あ、とわたしはすぐに思い出した。
『自分の中にあるどうしようもない何かを一生懸命表現して、形にして、誰かにわかってほしい、誰かに伝えたい――』
ああ、そっか。ようやくわかった。泰輝くんが言っていたのは、こういうことだったんだ。
これをまっすぐ口にするのは、ちょっと恥ずかしいな。
「わたしは泰輝くんの絵が大好きです」
千和さんは――目を見開いた。まるで信じられないものを見たみたいに、固まった。そうしてしばらく時間が止まった。わたしは自分の心臓のうるささを、初めて自覚した。
「そうだった……」
ややあって、千和さんは思い出したように、小さくつぶやいた。
「そうだった、そうだった。私もそうだった。なんで忘れてたんだろう……」
なくしたはずの宝物を見つけたような、千和さんの表情だった。宝物のことを忘れていたのが恥ずかしくて悔しいけれど、なお一層、泣きたくなるほど愛おしいような。
「私が歌を歌うのが好きだったのは――いつも私の歌を聴いて、私の歌が好きだって喜んでくれる人がいたからだわ。そんな人が、そばにいてくれたからだわ。どうして、こんな大切なことを、忘れてたんだろう。今の今まで、ずっと……」
千和さんはそのまま、涙の浮かんだ目でわたしをじっと見る。
「ああ、でも、そっか」
千和さんは少し、寂しそうだった。
切なげな。懐かしげな。
どこか遠くへ行ってしまって、もうここにはいない人を想うような、息遣い。
それでいて愛するように。慈しむように。
目の前にいるわたしを見て。
目の前にしかいないわたしを見て。
ゆっくりと、微笑んだ。
「たいちゃんにもついに、そんな人ができたんだね」
その飾らない笑顔は、女のわたしでも心奪われるくらい、美しかった。
ああ、ちゃんと伝わったんだ――わたしの気持ちが。その笑顔を見て、わたしはなんとなくそうわかった。そう伝わってきた。
全身から悪い妖精さんが抜けていって、力が抜ける。息が楽になる。伝わったなら、もう大丈夫だとわたしは思った。
けれど、千和さんの表情からふと、色が消える。血の気が失せる。
「千和さん、どうしたんですか……」
急な変化に、わたしも口の中が乾く。頭を抱えた千和さんは、震える声で言った。
「たいちゃんにも、自分の絵を好きだって言ってくれる人が現れたのよ。たいちゃん自身、どれだけ嬉しかっただろう……。どれだけ心強かっただろう……。本当は親として、私もそれを喜ばないといけなかったのに。祝わないといけなかったのに。私はなんて酷いことを……」
ああ、そうか。千和さんは自分のしてしまったことを後悔しているんだ。
しかし、それは何に対する後悔なんだろうか。夕食の席で、嫌がらせのようなことをしたことに対してだろうか。絵はやめなさいと言ったことに対してだろうか。わたしにはわからない。気になるけれど、それを訊くのはでしゃばりすぎだと思った。
忘れてはいけない。あくまでこれは家庭のことで、わたしは家庭の外の人だ。今更無関係を気取るつもりはないけれど、線引はしないといけない。これ以降のことはわたし相手ではなく、泰輝くんと千和さんのふたりで話し合うべきことだと思う。
けれど――
「ごめんなさい」
その矢先に、千和さんに突然、頭を下げられた。わたしはきょとんとする。はて、わたしに謝られる謂れなんてあったっけ? まあ、心当たりがないでもないけれど……。
ともかく、はい、とわたしはとりあえず謝罪は受け取ってから、
「わたしは大丈夫です。だから、早く行ってきてあげてください」
と、笑顔で言った。千和さんははっと顔をあげる。そして少し迷うと、ごめんなさい、ともう一度誠心誠意謝ってから、千和さんは走ってリビングを後にした。階段を登る音が聞こえる。
それを見送って、わたしはゆっくりと息をついた。色んな思いのこもった、長い息だった。
その後、果たして千和さんと泰輝くんの間にどんなやり取りがあったのか。それは家族水入らず、二人だけの話であり、あくまでよそ者であるわたしの知るところではない。
けれど少なくとも、両者の納得の行く形で和解はしたみたいだった。
なぜかというと、
「おはよう、母さん」
「ええ、おはよう、たいちゃん。今日の朝ご飯はフレンチトーストよ。冷める前に食べちゃって」
「洋風の朝ご飯とか、珍しいな。何かいいことでもあったんか?」
「いや、別に? 今日パートお休みだから、ちょっと気合を入れただけよ」
「ふうん。まあ、いいや。いただきます」
翌朝。朝食の場でふたりは、今までに見せたことのない自然な会話を交わしていた。泰輝くんは目を隠さず、千和さんは表情を飾らず。きっとこれが本来の形なんだろう。
わたしは微笑ましくふたりを眺めていた。そして手を合わせて、フレンチトーストを一口ぱくり。
「ん! 千和さん、これめちゃくちゃ美味しいですっ!」
「あら、本当? よかったわ」
千和さんの料理の腕が光っている。フレンチトーストがほどよく甘くて、わたしの知っている味よりずっと美味しかった。
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