7/28 その二
その晩。わたしは夜中に喉が乾いて目が覚めたので、水を飲みにキッチンへ行こうとした。暗い階段に目を凝らして、足音を立てないように一歩一歩降りる。その途中で、わたしは足を止めた。
キッチンのほうに電気がついていたからだ。あれ、こんな時間に誰だろう。そう思って、壁の向こうを覗くと――
「絵はもうやめなさい」
わたしはすぐには、それが誰の口から出た言葉なのかわからなかった。彼女がそんな低い響きの声を出すところなんて、想像したこともなかったから。
千和さんだった。絵をやめなさい。言った相手は、もちろん泰輝くんしかいない。ふたりは薄明かりのキッチンで向かい合っていた。
わたしはさっと壁に隠れる。一瞬で頭が真っ白になった。
どういうこと? どういうこと? わからない。けれど、聞いてはいけないことを聞いたということだけはわかった。何も聞かなかったことにして、今すぐに引き返そう。そうするべき。それが正解。わかっている。
けれど足が動かなかった。悪い妖精さんにまとわりつかれたときみたいに、体の動かし方がわからない。釘付けにされたみたいに、続きに耳を傾けてしまう。
「は? ふざけんなよ。やっと描けるようになってきたところだってのに」
「じゃあ訊くけど、たいちゃん――この間のコンクールの結果はどうだったの?」
「それは……」
言いさして、泰輝くんは口籠る。帽子で目を隠すのが目に見えるようだった。
「次こそは……賞取る」
「その言葉を、私はあと何回聞けばいいのかしら?」
「…………」
「まあ、いいわ。別に賞を取れなかったことを怒りたいわけじゃないし。それより、勉強のほうはどうなのよ。夏休みに入ってからどれだけ勉強したの?」
「毎日二時間はやってるよ」
「たったの二時間? 聞いた? 夏美ちゃんの学校の子たちは、もうみんな塾とか通って受験勉強始めてるらしいわ。その子たちの勉強時間は二時間どころじゃない。あっという間に引き離されるわよ」
「知るか、そんなこと。まだ高二の夏だぞ。そいつらが頭おかしいんだ」
「あなたが競争する相手は、あなたの言う『頭おかしい人たち』なんだよ。本当にこのままで、行きたい大学に行けるのかしら?」
「さあな」
「さあなって何よ! 聞いたわよ、私に隠してたこの間の模試――点数よくなかったんでしょ!?」
「…………」
「たいちゃん、言い訳はやめて、勉強時間を増やしなさい。あなたは学生なのよ? 望んで高校に通ってる以上は、学業優先は当然よ。絵を描いていることは、成績を下げていい理由にはならないわ。勉強の邪魔になるなら絵はやめなさい。少なくとも成績があがるまでは。夏美ちゃんくらい勉強ができるようになってからだったら、あなたの自由よ。好きにすればいいわ」
「ちっ。あいつは関係ねえだろ、都合のいい時だけあいつを持ち出しやがって」
コンッ、とコップをテーブルに置く音が響く。その音で、わたしは金縛りから開放された。息の仕方を思い出した。
「ちょっと、どこ行くのよ、たいちゃん」
「寝る。話が通じることを少しでも期待した俺が馬鹿だった」
キッチンのほうから足音が近づいてくる。まずい。泰輝くんが部屋に戻ろうとしているんだ。わたしは慌てて階段を上って、自分の部屋に駆け込む。そしてベッドにうずくまった。心臓がばくばくと鳴っている。わたしは無性に甘いものが食べたくなって、チョコレートを口の中で転がした。甘さがとろける。少しだけ、心もとろける。
それでも――頭の中にあの声が蘇る。
絵はもうやめなさい――
この家に来てから感じた違和感が、わたしの中ですべて繋がったような気がした。泰輝くんが千和さんを嫌いだという理由も、泰輝くんに勉強を教えるように、千和さんがわたしにお願いした理由も、わかってしまった。
どうして初日の夕食の席があんなに息苦しかったのか――それも、わかった。
『ほんと、夏美ちゃんはいい子だわ。うちの娘になってほしいくらいよ』
『もっと夏美ちゃんを見習ってほしいわ』
ひしひしと感じられたからだ。
千和さんがわたしを味方につけることで、泰輝くんを仲間外れにしようとしているのが。
わたしと比べることで、泰輝くんの居心地を悪くしているのが。
確かにこれは泰輝くんの言う通り、嫌がらせだ。
嫌がらせされたのがわたしの好きな泰輝くんだということに、わたしは胸の中がもやもやして――なのに、泰輝くんに手を差し伸べる勇気が出ないから、それを見て見ぬふりすることしかできない。もどかしい。情けない。その感覚が学校を思い出させるからなおさら、息が詰まったのだ。
一度気づいてしまうと、もう誤魔化すことはできなかった。忘れようとしても、あの声が頭から離れない。その晩は見てはいけないものを見たような、張り詰めた緊張が体から消えなかった。
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