7/28 その一

 泰輝くんの家に来て、はや四日が経った。わたしは依然としてここに滞在していた。

 気づけばここでの生活にも慣れたもので、冗談みたいな話だけど、一日のルーティンさえできた。なのでそれを今から紹介しよう。

 起床するのは、だいたい朝九時。顔を洗って着替えると、食卓で千和さんが作ってくれた朝食を食べる。今日のメニューは納豆巻だった。わたしの家はパン派なので、それだけで特別感があってるんるん気分だ。


「あ、おはおっ、泰輝くん!」


 納豆巻で口がパンパンだけど、起きてきた寝ぼけ顔の泰輝くんに挨拶する。


「ああ。お前は本当に、朝から元気だな」


 そう言う泰輝くんは朝から無愛想だった。ちなみに、泰輝くんはこれがデフォルトだ。しばらく一緒に住んでみてそれがわかった。何をするときも誰といるときも、むすっとしている。だから、どうして機嫌が悪いんだろうとか考えても仕方がない。そういうものだと気にせず、わたしは泰輝くんとおしゃべりをしながら、一緒に納豆巻を食べた。


「じゃあふたりとも、行ってくるね」

「いってらっしゃい、千和さん!」


 九時半。千和さんはパートに出かける。それを送り出したら、家にいるのは泰輝くんとわたしのふたりきりになる。

 ふたりきり。うん、いい響き。わたしたちは泰輝くんの部屋に上がって、ドキドキの――お勉強タイムが始まる。


「勉強のどこにドキドキ要素があるんだよ」

「泰輝くん、ツッコミを入れてないで集中しなさい。ほら、この図見て? 円っていうのは、とある一点を中心に、そこから一定の距離だけ離れた点をばーって全部書き出したものでしょ? だから、円の方程式は――」


 渋々机に向かう泰輝くんに、わたしは教師になりきって勉強を教える。私語厳禁。わたしはそこそこ厳しい先生なのだ。

 今でこそちゃんと勉強している泰輝くんだけれど、実を言うと最初はこうではなかった。


「あいつが家庭教師を雇ったとか言うから、何のことかと思えば、よりによってお前かよ。悪ふざけも程々にしてくれ。お前、勉強なんて教えられねえだろ」


 二日目の朝。わたしは泰輝くんの部屋に突撃して、今日からあなたの家庭教師になるということを伝えた。ちなみに千和さんに眼鏡を借りて、家庭教師のおねえさんっぽさを出している。すると、泰輝くんは眉をひそめてそんな反応をした。

 まあ、無理はない。泰輝くんに勉強を教えることを千和さんと約束はしたものの、正直、こうなることは予想できていた。わたし、お世辞にも頭がよさそうには見えないし。泰輝くん、そもそも人から施しを受けるのに抵抗がありそうだし。


「まあまあ、とにかくおねえさんに任せてっ。教科書を開いてー、ノートを開いてー」


 だからめげずに、無理やり勉強をさせてみた。そして彼がわからないというところを教えてあげた。

 泰輝くんは例によって不機嫌丸出しで、まだそれがデフォルトだと知らなかったわたしは、教えたことがちゃんと伝わっているかどうか心配だった。

 けれど、結果から言えば大丈夫だった。絡まっていた紐がほどけたみたいに、するすると、泰輝くんはわたしが教えたところの問題を解けるようになった。


「くそ、お前ちゃんと頭いいじゃねえか。なんか無性に悔しいな」


 とか言いつつも、まんざらでもなさそうな顔をしてくれた。帽子で隠そうとしたみたいだけれど、横から丸見えだった。


「うしししっ……、こう見えてわたしは頭がいいのだー!」


 教える身としては嬉しくなっちゃう反応だ。それ以降、わたしの指導のもとで、泰輝くんはちゃんと勉強するようになった。ふふん、わたしの教え方がよかったんだね。

 そして昼。勉強を終えると、わたしたちはまた一階に降りて、昼食を食べる。


「それにしても泰輝くんの家、ほんとに広いよね。建物は二階建てで、表には車を三台も停められる駐車場があれば、裏には庭もあるし」


 わたしの感覚では豪邸と言っていい。こんな大きさの家、わたしの地元だったら一体値段はいくらになるのかな。きっと目も眩む額になるはず。

 しかし――


「そうか? 別にこの辺じゃ普通だろ」


 泰輝くんがサンドイッチ片手にそう言った。

 そう。驚くことに、町を練り歩けば、同じような大きさの家はいくらでも見つけられるのだ。思い出すだけで、別世界を歩いている気分になれる。


「泰輝くんの家って、結構散らかってるよね」


 わたしはサンドイッチをもぐもぐしながら、家の中を見回して言った。

 決して汚れていたり、臭かったりするわけではないけれど、収納するスペースはあるはずなのに、あちこちでものが置きっぱなしになっていたり、棚からはみ出していたりするのが見える。


「お前、めっちゃナチュラルに貶すやん」

「あ、いや、そういうつもりじゃなくて。むしろ、わたしとしては好感を持てたの。わたしの家は、お母さんが潔癖症だからさ」

「ああ」


 泰輝くんは納得したように頷いた。


「ただ潔癖症なだけだったら別にいいんだけど、お母さんはわたしや他の家族が家を汚すことにも、めちゃくちゃうるさいの。砂の一粒でも持ち帰ったら怒られる。お米一粒でも床に落としたら怒られる。正直、しんどかった」


 そんな中で一七年行きてきたわたしとしては、いい感じに散らかっていて、適度に生活感があるこの家は、そういう面に気を遣わなくてよくて楽なのだ。


「のびのびと寛げて、この家は最高だよ……」


 そんなことを話しつつ食べ終えると。

 午後はお待ちかね、わたしにとっても、きっと泰輝くんにとっても一番楽しみな時間――


「お絵描きタイムだぁ!」

「俺が絵を描くことを、お絵描きなんて幼稚な言葉で表すな」

「じゃあ、図画工作?」

「もっと酷いわ。絵を描くことを言いたいなら、描画って言え」


 さて、描画タイムだ。今日は泰輝くんが何を描くのか決まっていないので、題材探しからだ。

 日焼け止めを塗って家を出ると、二時間に一本しか走っていないバスに乗って、山の中に入っていく。まっすぐ空に伸びる杉並木。木漏れ日がちらちらと山の斜面に降り注ぐ。その中をくねくねとバスは上っていく。次は、山井山中腹。山井山中腹。アナウンスが鳴った。


「山の中腹って、そんなバス停誰が使うんだよっ」


 珍しくわたしがツッコんで、泰輝くんのほうを見た。ピンポン、と彼は降車押しボタンを押していた。――次、止まります。


「あ。……なるほど、こういう人が使うんだね」


 そうしてバスを降りて、泰輝くんが描きたいと思うものを探して、山の中を練り歩くこと一時間。木々が日光を遮断してくれているおかげで、気温は涼しい。けれど、山道に慣れていないわたしは、だんだんと足が疲れてきた。


「泰輝くん、絵になるものはまだ見つからないの……?」

「まだ見つから――」


 言葉は途中で止まった。不意に、泰輝くんが足を止めたのだ。どうしたんだろう。わたしも立ち止まるとすぐにわかった――泰輝くんが何を見て足を止めたのか。

 山小屋があった。いつから管理されていないのか、ツタや苔の生い茂っている、崩れた山小屋だった。いや、崩れたという表現は正確ではない。どうしてかと言うと、その山小屋は、一本の大きな倒木の下敷きになっているからだ。

 倒木に押し潰された山小屋の跡、というべきものが、そこにはあった。


「今日はこれにするわ」


 どうやらそれが泰輝くんのお気に召したらしい。泰輝くんは小屋の周りをうろうろしていい角度を見つけると、地面を均してからスタンドを立てて、キャンバスを立てかける。そして絵の具を準備すると、早速描き始めた。

 一度集中すると、泰輝くんは一言も喋らなくなる。わたしはわくわくしながらも、邪魔したくないので静かにして、泰輝くんが絵を描くところを見守ったり、おやつのチョコクッキーを食べたりする。

 夏の森は、虫や鳥の声で賑やかだった。わたしはそれを聴きながら、辺りの森をぶらぶらする。すると、ふと見つけた。それは小屋に倒れている木の、折れているその根元に咲いていた。

 薄紫色の花だった。茎に連なるように、小さな薄紫色の花がたくさんついている。そんな植物が一生懸命、茎をいくつも空にまっすぐ伸ばしていた。

 わたしはそばに屈み込む。こういう綺麗なものを見ると、泰輝くんに描いてほしいなと思う。


「きっと絵にしたらもっと綺麗になるだろうなぁ」


 想像しながら、わたしはそっと花びらを愛でた。

 そうこうしているうちに、三時間が経った。あっという間だった。

 絵のほうはどのくらい進んでいるかな、とわたしはキャンバスを覗いてみる。おお、と心のなかで感嘆の声を漏らした。

 潰れた小屋と、その上に大胆にのしかかる倒木と、生い茂る草花と。全体の構図や配色は既にばっちりと決まり、今は細かい質感を描き入れているところだった。筆が絵に色をつける。その度に、自然の力が人工物を呑み込んで、少しずつ寂れさせていく様子を見ているみたいだった。

 この喜びを、何と表現すればいいんだろう。まっさらだったキャンバスが、どんどんと色付けられて形をなして、完成に近づいていく――それを間近で見られるこの喜びを。

 きっと同じ経験をしたことがある人にしか、この気持ちはわからない。

 普段だったらきっと目にもつかない、朽ちかけた景色。そこにある誰もが見逃してしまう美しさを、泰輝くんはそっと掬い上げて絵にする。わたしは一目見るだけで、その世界に引き込まれる。まだ健在だった小屋に、ある日突然木が倒れてきて、押し潰されるその瞬間が目に見える。そこで舞う土埃――その匂いまで感じられる。

 泰輝くんには世界がどんな風に見えているんだろう。わたしと同じものを見ているんだろうか。それともまったく別のものが見えているんだろうか。

 もし、世界がこんなにも美しく見えているのだとしたら、それはどれだけ幸せなことだろう、とわたしは思った。


「うーん……」


 森が薄暗くなってきた頃、泰輝くんはパレットと筆を置くと、大きく背伸びをした。それが作業に一段落ついた合図だ。ここからは話しかけてもおっけー。


「お疲れさま、泰輝くん。ねえ、これ見て?」

「ん? なんだ?」


 わたしは早速泰輝くんの裾を引っ張って、倒木の根元に連れて行く。そして、そこでさっき見つけた薄紫色のお花を見せた。


「このお花、可愛くて綺麗じゃない? ぜひとも泰輝くんに絵に描いてほしいんだけど」

「ああ、アキノタムラソウ。もうそんな季節か。だけど、これならもう去年描い……た、ことは別にない」


 泰輝くんは目を逸らして、あからさまに途中で言葉を変えた。わたしはにやにやして、泰輝くんの顔を覗き込む。


「描いたことあるんだねっ。うわあ、待ち遠しいなぁ。その絵を見せてもらえる日が」


 泰輝くんは溜息をついて、帽子で目を隠した。


「そんな日が来るといいな。――それより、早く帰るぞ。バスに乗り遅れちまう」

「はーい!」


 わたしたちは片付けをして、帰りの準備を済ませる。そうして荷物を抱えて、バス停に向けて歩き始めた頃だった。


「ん? これは――」


 最初の変化は、やけに肌寒い風が吹いたことだった。続いて、ゴロゴロ――と遠くで雷が鳴った。これはまずいぞ、と鬼気迫る様子の泰輝くん。わたしは肝を冷やしながら、その視線の先をたどる。木々の隙間から、わたしたちの上空に、巨大な入道雲が迫っているのが見えた。


「夕立が降るぞ」


 わたしたちは急いだので、思いの外すぐにバス停についた。けれど、わたしたちに合わせてバスが早く来てくれるわけではない。もちろん入道雲がゆっくり来てくれるわけもない。すぐに天気は急変して、ざー、と土砂降りの雨が降ってくる。ピカッ、と空全体が光って、ゴロゴロ――と雷鳴が轟く。

 いつも不思議に思う。台風の時とかもそう。どうしてとんでもない自然の力を前にすると、こんなに胸がわくわくするんだろう。


「きゃー、雷神様かっこいいっ! もっと顔見せてっ!!」


 空を見上げて黄色い歓声をあげながら、わたしはばしゃばしゃ跳ね回った。一方で泰輝くんはというと、白く霞む森の中、ただ無言で雨に打たれていた。無我の境地で、ひたすらバスに早く来てほしいと願っている顔だった。ちなみに、命よりも大切なキャンバスだけは防水性の袋に入っているから大丈夫。

 しばらくするとそこへ、バスのヘッドライトが差し込んだ。

 バスの座席に座って、お尻と背中がぐちょってなると、すっとわたしは我に返った。

 髪も服も、ぐちょぐちょじゃん。急に、元気をすべて水に吸い取られたみたいだった。

 家の最寄りのバス停についた頃には、雨は上がっていた。どころか、町を通り越した入道雲が夕陽に赤く染められて、ムカつくくらい綺麗だった。わたしたちはゾンビのような足取りで進んで、家に帰る。


「ただいまですぅ……」

「おかえりなさい。雨に降られなかった? 大丈夫? ……あらら」


 家に到着すると、千和さんはもうパートから帰って夕食の支度をしていた。千和さんは玄関で、揃ってずぶ濡れのわたしたちを見て、苦笑いした。


「先にシャワー浴びてきなさい」


 泰輝くんとわたしは順番にシャワーを浴びて、さっぱりした。それから食卓で、三人一緒に夕食を食べる。わたしはもう誕生日席ではなく、泰輝くんの隣の席だ。

 オムライスにケチャップをかけながら、千和さんは尋ねてくる。


「夏美ちゃん、今日はどこに行っていたの?」

「今日は山井山の中腹に行ってました」

「山だったら結構歩いたでしょ。暑くなかった? ちゃんと水分補給はした?」

「大丈夫ですっ。森の中は思ったより涼しかったし、水はがぶがぶ飲みました。でも、一時間も山道を歩いて、帰りも急いだので流石に疲れましたね。足がぱんぱんのぱんです」

「一時間も? 大変だったわね。しんどかったら、無理してたいちゃんについていく必要はないのよ?」

「心配ありがとうございます。でも、大丈夫です。わたしがやりたくやってることなので」

「そう? ならいいけど」

「はいっ。んん~、オムライス美味しいですっ。それで、そう! 話を戻すと――杉並木を歩いていると、その中に山小屋を見つけたんですよ! まあ見つけたのは泰輝くんですけど。千和さん、それがどんな山小屋だったと思いますか!」

「ええ? どうだろう」


 そうして千和さんに今日のことを話しているうちに、わたしはあっという間に、水に吸われた元気を取り戻した。

 この数日で、わたしと千和さんはかなり打ち解けた仲になった。

 けれどやっぱり、泰輝くんは千和さんとはほとんど話さない。受け答え程度はしても、それ以上の会話は泰輝くんが一方的に打ち切る。見ていて、千和さんがかわいそうだし、気まずいけれど、家庭内のことに口を出すのはよくないと思って、わたしは何も言わないことにしている。

 夕飯を食べた後は、わたしは泊めてもらっているお礼として、千和さんの家事を手伝う。そしてご褒美のデザートを食べてから、寝る前に必ず一度、泰輝くんの部屋に行く。


「絵、見せてっ」

「見せない」


 いつものやり取りをして、一日が終わる。

 ちなみに、泰輝くんが描いた絵は、絵の具が乾くまで裏庭で陰干しされる。そしてしばらくすると、気づいたらそこから消えている。きっとわたしが見てない間に、泰輝くんがこっそり秘密の隠し場所に運んでいるのだと思う。どこに隠しているのか、早く教えてほしい。

 そんな感じで。

 わたしは泰輝くんが絵を描くところを間近で見られるのだから、この生活は、わたしにとってこれ以上ないくらい幸せだ。千和さんはわたしを歓迎してくれているし、一人旅に戻る理由がない。

 旅として始まった夏休みの家出は、気づけばホームステイに変わっていた。

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