7/23 その五

 スーツケースのことを忘れていた。ようなふりをしたけれど、実を言うと覚えていた。宿を探しに他の町に行くために電車を使う予定だったので、そのときにロッカーから回収するつもりだった。その予定が狂ったから、取りに行くタイミングを失っただけだ。

 じゃあ、どうしてそれを言わなかったのかと訊かれると、返答に困る。何か深い考えがあったわけではなくて、勘ぐられるのが怖くてついでまかせに嘘をついてしまっただけだから。

 まあ、スーツケースは明日取りに行けばいいだけの話で、問題はないからいいのだけれど。

 だから、今はそんなことより――

 わたしは貸してもらった、お父さん(単身赴任中で不在)のものだという部屋に入ると、一直線にベッドに飛び込んだ。ぼよよん、と弾むと――


「気っ……まずかったあ!」


 わたしは止めていた息を吐くように、ぷはあ、と胸をなでおろす。とりあえずあの場から脱することができたことに、一安心だ。

 しかし何なんだろう、あの雰囲気は。どうしてあんなに息が詰まったんだろう。確かにわたしへの特別扱いはむず痒かったし、泰輝くんはずっと怒ってた。だからそれが気まずかったといえば、それはそうなんだけど……。


「でも、きっと千和さんは浮かれていただけだし、泰輝くんはそれを鬱陶しく思っていただけじゃん」


 わかればなんてことはない。奇妙なことは何もない。なのに、わたしはどうしてか、息の詰まるような奇妙な気まずさをずっと感じていたのだ。


「本当に変な感じ……。え、というか、普段からあんな雰囲気なのかな。だったら、わたしが気にしすぎてるだけで、ひょっとしてあれが普通?」


 そうなのかもしれない。大体、知らない人の家で夕食を食べるという状況そのものから普通じゃないし、わたしにやましいところ(親に無断で旅に出ていること)があるから、変に意識してしまっているのだ。きっとそうだ。


「ていうか、そうじゃん」


 気持ちの乱れが落ち着くと、わたしはここに来た目的を思い出した。思わない形でだけれど、泰輝くんの家に入ることができたんだ。だったら、やることは一つしかないでしょ!

 うししししっ……! わたしはぴょんと立ち上がって、部屋を出た。




「泰輝くんっ! 絵、見せて!」


 わたしの部屋と泰輝くんの部屋は、どちらも二階で、しかもお隣同士だった。わたしはノックもなしに入るが早いか、わたしに出せる全力のかわいさでそうお願いした。


「そう来ると思ったぜ……」


 泰輝くんは窓際に置かれたベッドに寝て、スマホを弄っていた。こちらを見るなり、彼は溜息をつく。そして断固とした口調で言った。


「絵は見せん」

「ええっ!? どうして?」

「見せないものは見せない」

「そんなぁ……」


 言ったきり、泰輝くんはスマホに戻ってしまった。やっぱり見せてくれる気はないのか。少し残念だけれど、しかしここで諦めるわたしではない。

 わたしは部屋を見回す。もしかしたら普通に壁に飾られているかもしれないとも期待したけれど、そんなことはなかった。部屋に絵は一枚も見当たらない。


「というか今思ったけど、男の子の部屋に入るのって、わたし、何気にこれが初めてなんじゃ……?」


 おお、興奮してきた。なるほど、初めてこの目で見る男の子の部屋は……なんというか、飾られてはいないのに、散らかっている。全体的に素朴な感じがするのに、勉強机がある辺りは、教科書類やカバンが散乱している。

 へえ、こんなに散らかってても怒られないんだ、とわたしは率直に思った。

 ともかく、この部屋のどこかに、泰輝くんがこれまで描いてきた歴代の絵画たちが眠っているのかもしれないのだ。泰輝くんが見せてくれないなら、わたしが手ずから探すしかない。宝探しだ。

 なにが出るかなー、と歌いながら、わたしはクローゼットを開ける。服しかなかった。ひょっとしたら後ろに隠し扉があるかもしれないと思って、壁を押してみたりしたけれど、びくともしなかった。まあ、そりゃそうか。そもそもクローゼットに絵を隠したりなんかしたら、服が絵の具だらけになっちゃう。

 わたしは続いて、床に這いつくばって、泰輝くんの寝ているベッドの下を覗く。


「こういうところにエロ本とか隠してあったり? 泰輝くんってむっつりっぽい顔してるもんね」

「どんな顔だよ」


 突っ込んでから、あ、と気づいて泰輝くんはまた黙る。反射的だったのかな。ツッコミの素質がある。

 ともあれ、エロ本はなかった。あ、素で間違えた。言い直そう。絵はなかった。

 わたしは立ち上がって、改めて部屋を見回す。この部屋に、あとキャンバスを隠せるような大きさの場所は……なさそうだ。


「うーん、この部屋には置いてないってこと?」

「もう諦めな。探してもどうせ見つからん」


 ベッドの泰輝くんが言った。スマホを弄りながら。


「そう言われると、もっと探したくなっちゃうなっ! わたしはやるなと言われるとやりたくなっちゃうタイプだから!」

「厄介すぎる性格だな……というか、そもそもの疑問だけどさ、お前はなんでそんなに俺の絵を見たがるんだ? 本当にいい絵が見たいなら、もっと他を当たるべきだぜ」

「それはもちろん、泰輝くんの絵が、めっちゃ輝いてるからだよっ!!」

「はいはい、そうですね。まともな答えを期待した俺が馬鹿でした」


 むう。わたしは本気なのに。泰輝くんは冗談をあしらうように手を振ると、溜息をついて、独り言のように言う。


「ったく、勘弁してくれよ。まだ夏休み初日だぞ。ようやく夏休みになって、これからしばらくのびのびと好きなように絵を描ける、最高の日々が始まるはずだったのによ。どうして早くもこう邪魔が入るかな」

「ね。どうしてだろうね。不思議だよね」

「いや、お前だよ」

「わたし!? ――っていう冗談はともかくとして。正直言うと、まさか千和さんに歓迎されるなんて、わたし自身が一番びっくりしてるけどね」

「どうしてお前が驚くんだよ。お前が俺につきまとって、うちに泊まるなんて馬鹿なこと言い出すから、こんなことになったんだろうが」


 ぼん、と泰輝くんはスマホを乱暴にベッドに置く。わたしはびっくりして飛び跳ねる。


「ご、ごめんね? でもさ、言い訳はさせて? 確かにそうだけど――普通、断られると思うじゃん? だって、わたしたち今日初めて会ったばかりなんだよ? いくらわたしみたいな、一見無害そうな女子高生でも、家にあげるなんて絶対にしないでしょ」

「そうだな。いや、まじでそうなんだよ。だからこそ腹が立つんだよな」


 腹が立つかはわからないけれど……うーん。


「本当に、千和さんはどうして歓迎してくれたんだろう」


 不思議だ。高校生の旅人なんて、どう考えても怪しいのに。

 と、わたしはどうして千和さんがわたしを警戒しなかったのかが気になった。けれど一方で、泰輝くんは思いも寄らないところに、わたしが歓迎された理由を求めた。


「そりゃあ、俺に嫌がらせをするため以外にないだろ」

「え? 嫌がらせ……?」


 夕食で千和さんは何度も、泰輝くんをからかうような冗談を言った。それは確かに泰輝くんの側からしたら嫌がらせに感じたのかもしれない。けれど、別に千和さんにそんな意図があったとは思わないし、ましてやそのために歓迎したとは思わないんだけど……。


「他人を平気で嫌がらせの道具に使うような、そういう卑怯なところが――嫌いなんだ」


 嫌い。強い言葉だった。それは言いすぎじゃない? と、わたしは胸に石が引っかかったようになった。

 けれどそれは一瞬のこと。すぐに努めて笑顔を浮かべて、首を傾げる。


「ええ、そうかな? 千和さん、いつもにこにこしてるし親切だし、嫌がらせするような悪い人には見えないけど……」


 泰輝くんは喋る牛でも見たような顔で、あんぐりと口を開けた。


「お前、それまじで言ってんのか? 笑顔とか親切を振りまくのは、お前がいるからに決まってんじゃん。電話の時だけ声がワントーン高くなるのと同じ。授業参観の時だけ無駄に張り切るのと同じ。見栄を張ってるだけだ。くだらない」


 泰輝くんは帽子で目を隠した。


「そういうところも――嫌いだ」


 わたしは全身にあった元気が、一気に冷房の風に奪われたような気がした。

 それは、わたしが誰を思い出したせいだろう。誰のワントーン高い声を、誰の無駄に張り切った姿を思い出したせいだろう。そんなのは考えるまでもなく明らかだったけれど、わたしは努めて考えないようにした。

 気持ちが、冷めてしまった。あんなに泰輝くんの絵を見たくて堪らなかったのに、今はただ、甘いおやつが食べたい。わたしは静かに、泰輝くんの部屋を後にした。




 わたしは一階のキッチンに降りていった。そこでは千和さんが洗い物をしていた。わたしは一瞬どきっとしたけれど、気安い感じで話しかける。


「千和さん、手伝いますよっ」

「本当? 嬉しいわ。じゃあ濡れた食器をタオルで拭くのをお願いしていいかしら」

「任せてくださいっ」


 並んで洗い物をしながら、わたしたちは何気ないことを話した。主に、わたしの学校のことについて聞かれた。学校は楽しいか、何の科目が好きか、部活動はやっているか。

 学校は楽しい。科目は生物が好きで、部活はバドミントン部。わたしはそう答えた。こう見えてわたしが進学校に通っていると知ると、千和さんはわたしにこんなことをお願いしてきた。


「負担にならない程度でいいから、たいちゃんに勉強を教えてあげてほしいな」

「勉強、ですか……うーん」


 わたしは少し考えた。


「上手に教えられる自信はないですけれど、それでもいいなら」

「本当? ありがとう。よろしくお願いするわね」


 話しているうちに、気づけばわたしの緊張は解けていた。なんだ、やっぱり息子思いの優しいお母さんじゃん。


「はい、これ。手伝ってくれたお礼ね。ありがとう、夏美ちゃん」


 洗い物を終えた後、そう言って、千和さんはヨーグルトをくれた。しかも、わたしの一番好きないちご味の。わたしは思わず舞い上がった。うふふ、と千和さんは嬉しそうに、ヨーグルトを食べるわたしを眺めていた。


「改めて、今夜はお世話になりました。ありがとうございました」

「いいのよ。あと、これからもしばらくは泊まっていいからね」

「い、いいんですか!?」


 千和さんは快く頷いた。

 おやつを食べて冷静になったわたしは思った。母を鬱陶しがる泰輝くんの気持ちもわかるけれど、それでもやっぱり、この人のことが『嫌い』は言いすぎだ。

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