7/23 その四

 どうやら本当らしかった。山井町にはホテルがない。民宿はもともといくつかあったらしいけれど、コロナがどうたらこうたらした間に一つ残らず潰れたらしい。

 それはつまり、この町には今夜、わたしの泊まる場所がないということ。

 衝撃的な事実だった。


「ないならないって、先に言ってよ! 宿なんてどこにでもあるものじゃないの?」

「俺は知らねえよ。ちゃんと調べてから来い。つーかお前、こんなところで呑気に怒ってる場合なのか?」


 わたしははっとした。そうだ。そんな場合じゃない。

 これは非常にまずい。時が経つのは早いもので、気づけば空は茜色。ぎいぎいとセミもまた鳴き出した。時間の猶予はまだあるようで、たぶん思ってるより少ない。今晩屋根の下で眠りたいなら、大至急、もっと大きな町に行かないといけない。さもなければ野宿。

 それは嫌だ。普通に。

 かといって、ここで泰輝くんとお別れするのも嫌だ。ようやく輝く世界に出会えたんだ。もっと彼の絵を見たい。もっと胸の奥が震えるあの喜びを味わいたい。

 一度目にした輝きを、わたしはもう忘れられない。

 そんなわけで、わたしが取った選択はというと――



「今日はどこに絵を描きに行ってたのかしら? たいちゃん」


 六人くらいは席につけそうな、広い食卓。三十代後半くらいだろうか、ショートカットの黒髪がよく似合う、にこにこと笑顔を浮かべる女性が、夕食のカレーライスをスプーンで掬いながら、向かいに座る泰輝くんに尋ねる。


「別に、どこでもいいだろ」


 対して泰輝くんは、吐き捨てるようにそう言う。そして顔を伏せて、ただ黙々とカレーを食べる。家の中でも帽子は脱がない。なんか、反抗期の男の子という感じ。

 女性のほうは千和さんといって、こう見えて、泰輝くんの母だという。わたしは最初信じられなかった。その若さにも驚いたし、何よりその笑顔が、泰輝くんとは似ても似つかなかったから。泰輝くんとは正反対で、人の良さそうな女性だった。

 千和さんはわたしのほうを向いて、目尻を下げる。


「ごめんなさいね、うちのたいちゃんはいつもこうなの。気を悪くしたらすぐに言ってね、夏美ちゃん? 私が責任をもって叱るから」

「いえいえ、わたしは大丈夫なので、お気になさらずー」


 わたしは笑顔を浮かべて、ぺこぺこと頭を下げる。


「ほんと、夏美ちゃんはいい子だわ。うちの娘になってほしいくらいよ」


 千和さんは冗談っぽくそんなことを言ってから、「それにしても――」と、目をにやりとさせる。


「たいちゃんがついに女の子を連れて帰ってくる日が来るとはねえ」


 ごほ、と泰輝くんは喉に何かが詰まったみたいに咳き込んだ。あはは、とわたしは頭の後ろを掻く。ちなみに、わたしは食卓の誕生日席に座っている。何かを祝われているみたいで、正直恥ずかしい。


「ほんとうにすみません、いきなり押しかけてきて泊めてもらうだなんて」


 ……いや、本当に、どうしてこんなことになったんだろう。

 あの後――わたしの宿がないとわかった後、「もうすぐ暗くなるから帰るわ」と言って、泰輝くんは迷うことなく絵を片付け始めた。

 今夜宿がない、かわいそうなわたしを置いていくなんて、薄情すぎるよ、泰輝くん! と思いつつ――そこでわたしは閃いた。


「泊まる場所がないなら、泰輝くんの家に泊まればいいじゃん!」


 もちろん、本当に泊めてもらえるなんて思っていない。いきなり知らない人を家に泊めるなんて普通はしないし、何より家の人に迷惑だ。それをわからないほど世間知らずではない。

 だから、泰輝くんにつきまとって家までついて行ったのは、いわば牽制みたいなものだ。泰輝くんにわたしの思いがどれだけガチかを伝えて、明日どこで絵を描くのか吐かせるためだった。その場所さえわかれば、今日のところは退散して宿を探す。そしてまた明日改めて来よう――と。そんな算段だった。

 だから、


「あら、泊まる場所がないの? だったらうちに泊まっていきなさい」


 家の玄関で、千和さんに優しい笑顔でそう言われた時は、これは何かのドッキリなのかと思った。


「おい、待て、どういうことだ。本当に泊める気か?」


 泰輝くんもまさか許可が降りるなんて思っていなかったようで、その場で千和さんに詰め寄った。


「どうしてたいちゃんが怒るの? あなたが連れて帰ってきたんでしょ?」

「ちっげえよ。こいつが勝手についてきただけだ」

「ふうん?」


 にやにやとした目を向けられて、泰輝くんはぎりぎりと拳を握りしめた。しかし抵抗は無駄だと悟ったのか、たちまち諦めたように項垂れた。


「はいはーい、夏美ちゃんって言ったね? さあさあ、入って入って」

「え……あ、はい」


 わたしはまだ呆気にとられていた。そのうちに、大喜びの千和さんに家の中に引き入れられた。

 されるがまま、気づけばわたしは席に座っていた。誕生日席に。ちょうど夕食の時間だということで、三人で夕食を一緒にすることになった。


「そんなかしこまらなくていいのよ。夏美ちゃんが来てから我が家が明るくなったから、むしろ嬉しいわ」


 つまるところ、どうしてか歓迎されたわけだ。大歓迎だった。

 本来なら、わたしは今頃宿探しに奔走していたはずなのだ。泊めてもらえるのはもちろんありがたいのだけれど……。わたしはちらっと泰輝くんのほうを見やる。

 無言でカレーを食べていた。絶対に怒ってる。こっちを一瞥もしないもん。こわい。


「ほら、うちのたいちゃんはいつもあんな風にむすっとして絵ばっかり描いててさ、私とお話もしてくれないのよ? ひどくない? もっと夏美ちゃんを見習ってほしいわ」


 千和さんは冗談っぽく言って笑う。あはは、そうですか、とわたしは笑って返す。泰輝くんは黙っていた。


「ちょうどお父さんの部屋が空いてるし、今日はそこに泊まっていって?」

「はい、わかりましたっ。何から何までありがとうございます! カレーもとっても美味しいです!」

「ほんと? よかった」


 ところで、夏美ちゃん――と、そこで千和さんは少し真剣な口調になる。


「確認だけど、親御さんに外泊の許可は取ってあるの?」

「はい、もちろん。心配いりませんっ」


 わたしは即答した。変な間は開けず、声にも違和感はなかったはずだ。笑顔もちゃんと保てたはず。きっと大丈夫。

 千和さんはこちらをじっと見てから――ゆっくりと微笑んだ。


「なら、いいけど」


 わたしは心のなかでほっと息をつく。怪しまれなかったみたいだ。それでもまだ少し心配が残っていたんだろう、早く話題を変えればいいのに、わたしはつい続けてしまう。


「いやぁ、一人旅に出るって初めて言い出した時は、ものすごく反対されたんですけどね。あはは」

「そりゃあ、女の子が一人でっていうのは心配するわよ。それが親っていうものよ。でも、夏美ちゃん――旅だっていう割には、荷物は随分と少ないのね。今どきの旅って、そんなに大荷物を持たないものなのかしら」

「あ」


 と、一瞬固まると、わたしはあはは、といかにも申し訳なさそうな、ドジっ子っぽい笑みを浮かべた。


「スーツケースはまだ、駅のコインロッカーに預けっぱなしでした……」

「うふふ。そういうときもあるわ。今はもう遅いから、取りに行くのはまた明日にしたら? 今夜は私のパジャマ貸してあげるから」

「ご厚意に預かりますっ」


 こんなによくされてしまっては、頭が上がらない。

 その後もそんな風に夕食は進んだ。カレーライスの味はよく覚えていない。ずっと黙っていた泰輝くんの横顔だけが、心に残った。

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