7/23 その三
突然目の前でひっくり返って、突然もとに戻った世界に、わたしの心は置いてけぼりにされた。わたしはしばらく立ち尽くして、ひっくり返っていない世界を眺めた。田んぼもあぜ道も木も森も、まったく同じものが、上下逆さまではなく正しい形で、そこにある。
今さっき、一体何が起きたんだろう……。あの輝く世界は何だったんだろう……。
そう思ったところでふと、足元に何かが落ちていることに気づいた。たぶんわたしがつまずいたせいで倒れたスタンド。そしてそのそばに、一枚のキャンバスが落ちていた。
これだ、と思った。一度見ると、わたしはもうそれから目を離せなくなった。
そこには、ちょうどここから見えるのどかな風景と、木の枝から飛び立つ瞬間の鳥が描かれていた。
美しい絵だった。色が鮮やかで、澄んでいて、説明のしようもないくらい美しい。光が、まるで絵の中で光っているみたい。鳥がそのまま羽ばたいて絵から出てきそう。絵を見て、わたしは初めてそれに触れたいと思った。
きっとそれは、一枚の絵の中に、失っていたあの輝きを見つけたから。
その絵が、わたしから見て
ひょっとしてわたしは、この世界に入り込んだのかな――
「――おい」
と、声を掛けられて、わたしは我に返る。ひっくり返った世界に見入っていたせいで、今の今まで気づかなかった。
振り返ると、そこには、わたしと同じくらいの歳だろう、男の子が立っていた。こんがりきつね色に肌の焼けた、目深に帽子を被った男の子だった。片手に絵の具まみれのパレット、もう片手に筆をぎりぎりと握って、今にも怒り出しそうな表情でわたしを睨んでいる。
あ、やばい。怒鳴られる。そんな予感がして、わたしは思わず目を瞑った。
けれど、いつまで待っても怒声は飛んでこない。おそるおそる窺うと、どうしてか彼はものすごく不思議そうな顔をして、わたしをじっと見ていた。
「お前、なんで泣いてるんだ……?」
いきなりそんなことを言われた。何のことだろうときょとんとして、わたしは自分の頬をそっと触る。その指先が湿った。
「あ、ほんとうだ……。涙が、どうして……」
気づいてしまうと、もう止まらなかった。胸の奥からこみ上げるように、涙が溢れる。
どうしてわたし、泣いているんだろう……。自分のことなのに、わからない。
「ああ、もう、本当になんなんだ? 大丈夫か? どこか痛いところでもあるのか? それとも何か怖いことでもあったのか?」
「ないよ、大丈夫……。わたしは大丈夫だから……」
戸惑いながらも心配してくれる男の子だった。わたしは泣きながら、何度も大丈夫だと言った。どこかが痛いわけでも怖いわけでもない。この気持ちを何と言い表せばいいんだろう。
あの美しい絵を見て、あの輝く世界を思うだけで、胸の奥が震えるこの気持ちを。わたしはしばらくわけもわからず涙を流した。
ややあってわたしが泣き止むと、男の子は一転、かったるそうに、
「本当に、わけがわからねえ。いきなり俺の絵を蹴り飛ばしておきながら謝罪もない。かと思えば、いきなり泣き出して。ついていけねえよ」
そんな独り言を言った。あからさまにわざとわたしに聞こえる声量で。それをさっきまで泣いていた女の子の前で言うか! と思ったけれど、言葉は出なかった。ちょうどそのとき、わたしの意識は違うところに向いていたのだ。
彼の言葉に、わたしははっとした。今、『俺の絵』と言った。それに彼はパレットと筆を持っている。そこから導き出される答えは一つ。
あの絵を描いたのは――あの輝く世界を創ったのは――目の前の男の子だということ。
あーあ、と男の子は面倒くさそうにスタンドを立てて、そこに例のキャンバスを立てかけ直していた。やっぱり何度見ても美しい風景画だった。
「これで木枠が割れたりでもしてたら洒落にならねえぞ、まじで」
その姿を見ると、途端に目を覚ましたように、わたしの胸の中をぞわぞわと何かが上ってきた。涙じゃない。別の思いが湧き上がってきた。
わたしが求めた
わたしはぐぐ、と涙を拭うと、気持ちの昂るまま、彼にぐっと顔を近づけて尋ねる。
「ねえ、あなた、名前何っていうの?」
男の子は驚いたようにのけぞる。帽子の下の目はわたしを捉えていた。
「……泰輝だよ。安泰の泰に輝くって書いて、泰輝」
「泰輝くん……!」
あ、しまった。つい答えてしまった。みたいな顔をする泰輝くん。けれど構わず、わたしは彼の手を取る。
「すごいよ泰輝くん! どうしてこんなに素晴らしい絵が描けるの!?」
「どうしてって言われてもな……」
泰輝くんは困ったように顔を伏せて、帽子のつばで目を隠す。
「大体、俺の絵なんてまだまだ下手だぞ。そんな褒められるほどのものじゃない。世の中にはとんでもない絵を描くやつがいるんだよ。そいつらと比べたら、俺なんて屁みたいなものだ」
「うそ! めっちゃ上手だよ! 絵を見て泣いたのなんて、これが初めてだよ!」
わたしが褒めても、やっぱり泰輝くんは目を隠す。表情を隠す。なんで卑屈な態度を取るんだろう。こんなに美しいものが作れるんだから、もっと自信を持てばいいのに。
「ねえ、泰輝くんには世界がこんな風に見えてるの?」
「……いや、違う」
わたしは不安になった。もしかしたら、泰輝くんの世界はわたしが思っているほど輝いていないのかもしれないと思ったのだ。
けれど、続く言葉で、むしろその逆だとわかった。
「――こんなもんじゃない。俺の絵は、俺の描きたいものをほとんど表現できてない。見えるものを見えたまま描けるように努力はしてるけど、俺の腕が未熟すぎてさ」
「そっか……! じゃあ、ひょっとしたらこの絵よりもっと、泰輝くんの世界は輝いてるかもしれないってこと!? ええっ、すごい! わたし、もっと光輝くんの絵を見てみたい!」
「それは、いや、流石に……――っ!」
帽子の下の目を覗き込むように、わたしは自然、顔を近づけていた。息もかかる距離だ。泰輝くんは目を見開いて硬直する。
「あなたのその目から見える世界を、わたしにも見せてほしいなっ、泰輝くん!」
「――怖い怖い。鼻息荒くして近づいてくんな」
「くんくん。もっとあなたと同じ世界の空気を吸わせてっ!」
「きもいきもいきもい」
「鼻息荒いとかきもいとか、女の子になんてこと言うんですかっ! わたしは可愛らしく上品にお願いをしただけなのに! 偏向報道はやめてください!」
「いや、事実だろ。つーか、なんでお前は初対面なのにそんなに馴れ馴れしいんだよ」
「そんなに馴れ馴れしいかな? いや、でも冷静に考えたら、初対面の相手に、なんでお前はそんなに馴れ馴れしいんだよと言えるあなたも、なかなかだよ」
ふと我に返って、わたしは顔を離してそう言った。
「それは、お前の距離感がバグってるから俺もつられて……って、まあいいや」
泰輝くんは何か言い訳をしようとしたみたいだったけれど、諦めたように溜息をつく。そして帽子を目深に被り直した。本当に、どうしてわざわざ目を隠すんだろう、と思った。その目からあんなに輝く世界を見ているはずなのに――視界を狭めるなんて、もったいない。
そんなわたしのことは気に留めず、泰輝くんは筆を持つと、何も言わずにキャンバスと向き合う。まるでわたしなんていないみたいに。
まだ描くのだろうか。あの絵はもう完成されているかと思っていた。そのくらい、もう十分美しい。これ以上何を加えようというのか。その瞬間を見逃さまいと、わたしはそばでじっと観察する。邪魔はしたくないから、息を殺して静かに。飛び立つ鳥と、帽子の少年を交互に見やる。
けれど、いつまで待っても、一向に筆が進む気配がない。
「……あのさ」
「……ん? わたし?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「確かに」
「はぁ……。お前さ、いつまでそこにいるんだよ。見られてると描きにくいだろ」
キャンバスのほうを向いたまま、こちらを見もせず言う泰輝くん。さっさとどっかいけよ、とでも言わんばかりの口調だった。
招かれざる客なのは確かだけど、そんな邪険にしなくてもいいのに。むう、とわたしは口を尖らせる。
「だって、見たいじゃん? 光輝くんが絵を描くところ」
「見たいじゃん? じゃねえよ。俺は見せもんじゃねえんだよ」
「じゃあ、他の絵も見せてくれるって約束はどうなるの?」
「そんな約束端っからしてねえよ」
「ノリでついた嘘がバレちゃった。てへぺろ」
「嘘をノリでつくな」
「それで、結局他の絵は見せてくれるの? くれないの?」
「見せない」
「ええ、見たいのに……。でも、見せてくれないなら、しょうがないか」
じゃあ、泰輝くん。提案なんだけど――と、わたしは声音を変えて、提案する。
「今日のところはわたし、もう諦めてどっか行くからさ、その代わり一つ聞かせてくれる?」
「本当か? どっかに行ってくれるのか?」
泰輝くんは目を輝かせて振り向いた。そんなに喜ばれると、流石のわたしも傷つく。けれど表向きは笑顔を保って、うんと頷く。
「うん、もうどっか行くからさ、答えてくれる?」
「いいだろう。この俺に答えられることなら何でも答えてやろう。どんと来い」
「急に乗り気……ともあれ、質問だけど」
明日も今日みたいに、ここで絵描く? ――と、わたしは尋ねた。
「いや? 明日は別のものを描くつもりだけど」
泰輝くんは宣言通り答えてくれた。思いの外あっさりと。
「それはどこで描くの?」
「ええっと……」
泰輝くんは目を隠して考える。しかしすぐに、はっと何かに気づく。うししししっ……! わたしは内心のにやにやが顔に出てしまう。泰輝くんはこちらを憎たらしげに睨んだ。
「お前……ハメやがったな」
「なーんのことかなー」
「まさかそんなわけはないと思いたいけど、――明日も来るつもりなのか?」
「さー、どーでしょーねー。来るかもしれないしー、来ないかもしれないしー」
「絶対来るつもりじゃねえか。うわあ。質問に答えるなんて、馬鹿な約束しなければよかった。我ながら軽率な判断だったぜ……」
そう言って力なく項垂れる泰輝くん。さあさあ、早く質問に答えたまえ。明日はどこで絵を描くんだい? と期待の目線を送るわたしだったけれど――
それより、と言って、泰輝くんは早くも話をすり替えた。
「今更だけど――お前は誰なんだ。どうでもいいけど、仕方ないから聞いてやるよ」
おっと。言われてみれば。わたしのほうから一方的に訊くばかりで、わたしのほうは自己紹介すらしていなかった。わたしとしたことが、順序を間違えた。
わたしは咳払いをしてから、澄ました感じなポーズを取って、イケボで名乗る。
「わたしは夏美。若山夏美。ふっ。通りすがりの旅人だよ」
決まった……! 人生で一度はこうやって名乗ってみたかったんだ。夢が叶った! きゃー、と自分に歓声を送るわたしに、泰輝くんは不審なものを見る目を向ける。
「旅人? どう見てもお前、俺と同じくらいの年齢だろ」
「はい、ぴちぴちの女子高生、夏休み初日でっす! いえーい、ピース!」
「だったら、こんなところで悠長に道草してないで、早くお家に帰ったらどうなんだ。親が心配するぞ。……知らんけど」
なるほど、そうやってわたしを帰らせる作戦か。なかなか賢い。だがしかし――
「大丈夫大丈夫。わたし今日、家には帰らないから」
「へ……?」
「今日はこの町の適当なホテルにでも泊まる予定だから」
泰輝くんはものすごく間抜けな表情で、ぽかんとわたしを見る。うしししし……! びっくりしてるよ。最初は呑気にそう笑っていたけれど――泰輝くんの表情の意味を、どうやら大きく勘違いしていたということに、わたしはすぐに気づく。
「ホテルにでも泊まる……?」
「? そうだけど? お金はちゃんと持ってるから、全然泊まれるよ?」
「いや、そういう話ではなくてだな……」
泰輝くんは言いにくそうに言葉を濁す。
何なんだろう。わたしは嫌な予感がした。悪い妖精さんが顔を出して、ちゅうちゅうとわたしを不安にする。泰輝くんは言った。
「この町に、ホテルなんてないぜ」
「……いやいや、冗談はよしてくださいよ、泰輝くん。わたしに帰ってほしいのはわかったからさ。でも、そんな嘘をついて追い出そうとするのは、ちょっとひどいんじゃない……?」
「俺は冗談なんて言わねえよ。マジだよ。こんなちっちゃい町だ。観光地でもないし、出張に来るやつもいねえんだから、ホテルなんてあるわけがないだろ」
わたしは固まった。……え、嘘でしょ? 本当にホテルないの?
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