7/23 その二
ある程度家から離れてから、よっこいしょと、抱えていたスーツケースを下ろした。
「流石にここまで来れば、気づかれてたとしても追ってこれないでしょ」
途中で何度か振り返って、お母さんが追いかけてきていないか確かめたりもしたけれど、追ってきてはいないようだった。
わたしは膝に手をついて、息を整える。早朝で気温は涼しいとはいえ、流石にスーツケースが重くて疲れた。汗もかいた。せっかく秘密のファッションショーをして選んだ自慢のワンピースなのに、ぴったりと背中に貼り付くので、ちょっと気持ち悪い。
家を飛び出したことで退路は断たれた。戻ってしまったらおやつ禁止どころの話じゃないだろう。それ以上の罰が待っている。もう後戻りはできない。
けれど――だからこそ逆に吹っ切れた。もう道は前にしかないんだから、前だけ見よう。そう考えて、そしてそれを確実なものにするために、わたしは最後の逃げ道を断つ。
スマホを取り出して、メッセージを開く。相手はお母さん。
『旅に行ってきます。夏休みが終わるまでに帰ります』
打ってから、送るか、一瞬迷った。けれどすぐに送信ボタンを押した。それから返事も待たずスマホを機内モードにして、一切の通信を絶った。
ふう、と息をつく。これで邪魔はされない。
「よし! 旅だよ、旅! 切り替えて旅を楽しもう」
一時はどうなることかと思ったけれど、もう大丈夫。いくら悪い妖精さんが水を差しても、わたしの旅に対するわくわくを消すことなんてできない。わたしだってやれるんだ。そう見せつけたような、清々しい気持ちだ。
わたしは鼻歌を歌いながら、ガラガラとスーツケースを引く。とりあえず行き先は駅だ。電車に乗ることに決めたからだ。
駅前は街路樹がたくさん植えられているので、シャンシャンとセミがうるさかった。のんびり歩いたおかげで、駅に着く時間はちょうどよかった。とはいえ、誰かと待ち合わせしていたとかそういうことではない。今更だけれどこれは一人旅だ。
じゃあ、何がちょうどよかったのかと言うと、駅前の某ハンバーガーチェーンの開店時間だ。
七時。そして現在時刻六時五十八分。そしてわたしはまだ朝ご飯を食べていなくて腹ペコ。まるで誂えたような条件である。
わたしは開店と同時に入店した。入店してすぐ、朝の時間帯仕様の店内を見回して、懐かしい気持ちになった。わたしがまだ中学一年生だった頃、部活の大会の朝に、友達とふたりでこの店に来たことがあるのだ。そのときのことを思い出した。
当時は初めての朝仕様で、まずメニューが昼や夕方と違うことに驚いた。そして店内がハンバーガーチェーンだと思えないくらい静かで落ち着いているのが新鮮だった。わたしは友達とお揃いで、エッグマフィンを注文した。初めて食べるものにそわそわしながら一口頬張ると、マフィンと卵が相性ばっちりで、思わず笑顔になってしまうくらい美味しかった。
「えっぐ、このマフィン。エッグマフィンだけに」
突然友達が言った。見事にスベった。けれどそのスベった空気が可笑しくて、堪らずぶ、とふたり揃って吹き出した。そんな馬鹿みたいな思い出を、今でもよく覚えている。
そんな思い出のあるこの店の朝は、あの時と同様に静かな空気だった。というか、開店直後でまだ客が少ないから当然だった。
ともあれ、わたしはあの時と同じエッグマフィンを注文し、すぐに包装に包まれたマフィンの乗ったトレーを受け取ると、わくわくしながら窓際の席に座る。
「さてさて、お顔を見せてちょうだい、マフィンさん」
包装からマフィンを取り出す。ほどよく温かい。おお、あの時のマフィンだ。手に持ったマフィンを矯めつ眇めつ観察して、よくわからない感動が湧いた。
「じゃあ、いただきます」
一口ぱくり。
「ん」
最初に抱いた感想は――あれ、レシピ変えたのかな、だった。
マフィンの生地はサクサクもちもちで美味しいし、卵もとろとろで塩っ気がきいていて美味しいのだけれど――なんか違う。思い出にある、あの嬉しい美味しさがやってこない。
えっぐ……くない、このマフィン。
何かが足りないような感じがする。もっとも素人意見なので、わたしの味覚が変わっただけという可能性もあるけれど。わたしってそんなに味音痴だったかな……。
わたしは黙々と食べ進めた。その間に店内も少しずつ客が増えてきた。家族連れや若者は少なく――まあわたしは立派な若者だけれど――サラリーマンがほとんど。みんなあまり美味しそうには食べていない。パソコンをかたかたと打ちながら、片手間に、食べるのも憂鬱だという顔でそれぞれ注文した品を食べていた。
「あれ、ここの静けさって、こんなのだったっけ……」
違う。こんなはずじゃない。湧き上がる予感から目を逸らして、外を見やった。夏休みだからやっぱり通学中の学生は少ない。部活に行くような格好の人はちらほらいるけれど。
だから、横切るのはサラリーマンばかりだ。空を見上げればあんなに爽やかな青空が広がっているのに、みんな下を向いている。たぶんみんな、今日はいい天気だということに気づいてすらいない。
わたしは通学にこの駅を使う。なのでもちろん、昨日まで毎朝、わたしもあそこに混じって通学していた。当たり前に、何も思わず。それがいつもの日常だった。
そのことに、わたしは言い知れぬショックを覚えた。
なんで今まで気づかなかったんだろう。たぶん中にいると、視野が狭くなって何も見えないんだ。外から眺めてみて、初めて気づいた。
「みんな、息苦しそう」
そういえば、メッセージ来てないかな。ふと思って、スマホを取り出して――たちまち裏返してテーブルに置いた。ネットに繋がってないんだった、と思い出したのだ。
ものすごく自然な流れで、当たり前にスマホを触ろうとした。どうして触ろうと思ったんだろう。せっかくの旅の途中なのに。
「――ひょっとして、これがスマホ依存症というやつ!?」
きっとそうだ。そうに違いない。手元にスマホがないと手が寂しいというか、なんだか心もとないのだ。やっぱりわたしはスマホに毒されちゃってるんだ。この旅が終わるまでは、意識的にスマホを触らないようにしないと。
さあ、切り替えて。
とりあえず旅を進めようかな。この店なんていつでもまた来られるんだし、今日は見たことのない新しいところに行こう。そう考えて、わたしは立ち上がって店を出る。
そして、あれ、おかしいなと気づく。
別に、また来たいとは思わなかった。
わたしは電車に乗って、この地方で一番大きな駅に行った。そこで電車一日乗り放題切符を買うと、普段使うことのない路線の、知らない方面行きの電車に乗り込んだ。
車内は空調がきいてきて天国だった。わたしはスーツケースを頑張って上の棚に乗せてから、席に座り、窓に貼り付いた。ぷしゅう、と発車すると、こじんまりとしたビル群が、後ろに流れて遠ざかっていく。
「またね、わたしのふるさと」
ガタンゴトン、ガタンゴトン……。そうしてほどよく揺らされていると、あーあ、とあくびが出た。眠くなってきた。昨日はまったく眠れなかったし、仕方ないことか……。
もうちょっと、景色を眺めていたい。けれど、覆い被さってくる睡魔には勝てなくて、気づけば居眠りしていた。
「終点、終点、山井でございます。お忘れ物はございませんよう、お気をつけください」
はっ――と、目が覚めたのは、微睡みの中で不意にそんなアナウンスが聞こえて、自分が旅の途中だと思い出したときだった。わたしは慌てて立ち上がって、荷物を下ろす。
そして、むっと全身を蒸し暑さに包まれながら、ホームに降り立った。
「あっつう……。汗が吹き出そうだぜ」
手で顔を仰ぎながら、駅の時計で時間を確認すると、ちょうど正午すぎだった。四時間以上も寝ていたわけだ。
「あっちゃー。景色ほとんど見れなかったじゃん。沿線で、何かに出会える気がしたのに」
居眠りしたことが、ちょっぴり残念だ。
さてと、ここは一体どこなんだろう。ホームを見回す。アナウンスでも『山井』と言っていたし、そこの柱にも山井と書いてあるのだけれど。
山井。地理に弱いわたしは、今日始めて聞いた駅名だった。ここが何県かもわからない。
とりあえず、駅を出てみよ。改札を抜けると、不思議な町があった。初めて来たはずなのに、どこか馴染があるような、レトロな石造りの町並み。わたしのふるさとと比べたら人も少なくて、のどかだ。すぐ裏には緑豊かな山がそびえていて、それがより田舎感を出している。
そんな町の空気を吸って、わたしはようやく実感する。
「ああ、そっか。本当に来ちゃったんだ。ふるさとじゃないどこかに」
寝ている間に電車がわたしを運んでくれて。
じわじわと、世界が広がったような気がした。心にあった憂いがひとつひとつ、未知へのわくわくに塗り替えられる。ああ、これから何をしよう……!
そう思ったところで不意に、ぐうぅ、とお腹が鳴った。
「寝てたとはいえ、もうお昼だもんね。昼ご飯食べるところ探さなきゃ」
つい癖でスマホを取り出して、すぐに仕舞った。普段だったらネットでちょちょいとお店を調べられるけれど、この旅ではそうはいかない。自分の足で探さなければいけない。それがこの旅の醍醐味だ。
わたしは駅に戻って、業務中失礼します、と言って駅員さんに近くのお店を尋ねた。優しそうな駅員さんは、駅周辺マップを見せながら教えてくれた。
「そうだねえ。お昼だったらこのラーメン屋がおすすめかな。私もここの常連なんだ」
「そうなんですねっ。じゃあお昼はここにします!」
「ところでお嬢ちゃん、今日は何しにこの町へ?」
「旅です!」
「おお、若い子が旅行に来るなんて珍しい。ただ、お恥ずかしながら、この町に観光できるような場所はないと思うんだけどねえ。ああ、でも、山井山ロープウェイなら楽しめるかも」
「ロープウェイ?」
「そうそう、この町はほら、山に囲まれてるでしょう? そのうちの一番大きな山を山井山って言ってね、その麓から頂上までロープウェイが繋がってるんだ。頂上からの景色はなかなかいいよ」
駅のバスターミナルから麓までバスが出てるから、その時刻表もあげるね――と言って、駅員さんは時刻表の書かれた小さな紙をくれた。すごく親切な駅員さんだった。
ありがとうございます、とわたしはたくさんお辞儀をして感謝を伝えてから、コインロッカーに邪魔なスーツケースを預けて、駅を後にした。
「そうそう、こういうのがしたかったんだよ!」
地元の人に直接おすすめの名所を聞くとか、まさにわたしのイメージ通りの旅だ。わくわくしながら、わたしはお腹が減ってしょうがないので早速ラーメン屋へ向かう。
ラーメン屋は、清潔感の対義語のようなところだった。床がベトベトしていて、一歩進む度に、まるで両面テープの上を歩くみたいにくっつく。ちなみにラーメンそのものはめちゃくちゃ美味しかった。濃すぎない豚骨スープが細麺によく合って、ほっぺたが落ちるとはまさにこのことだと思った。けれどいかんせん店内の汚さが気になって、お腹いっぱいになってくると、食欲は一瞬にして消え去った。
なんとか完食はしたけれど――なんか違う。期待していた、堪らず何杯も食べたくなるラーメンとは、違う。
ラーメン屋を出て、バスの時刻表を見てみると、ちょうどバスが来ているみたいだったので乗車した。そして山の麓で降りてから、ロープウェイで山頂に登る。
山頂にある展望台からは、ぎらぎらと眩しい日光の降り注ぐ町が一望できた。四方を緑の山に囲まれて、盆地になっているところに、のっぺりと張り付くように町が広がっていて、その少し外を見やると田んぼが広がっている。涼しい風が吹く。のどかな景色に心が落ち着く。
けれど――なんか違う。期待していた、心奪われるような絶景とは、違う。
「なんだかなぁ……どれもこれも、違うんだよなぁ」
しばらくして。
ロープウェイを降りてきたわたしは、町の中心には戻らず、町外れにある田んぼのあぜ道を進んでいた。当てはない。ただ適当にぶらぶらとしていた。
なんだか無性に、甘いおやつが食べたい。辺りを見渡しても、山と田んぼしかないけど。はぁ、と溜息をつく。
たとえばこの田んぼ。小さい頃のわたしだったら、風に波打つところを見るだけで興奮したし、中に入ってザリガニ釣りでもしたら、きっと夢中になって、あっという間に日が暮れた。
町の音も、山の色も、森の匂いも、すべてがたとえようもなく綺麗に輝いていた。わたしの小さな世界は輝きに満ちていた。
それがいつの間に変わってしまったんだろう。今はもう、その輝きが感じられない。
いや、輝きは確かにそこにあるはずなんだ。
なのにその輝きが、あの頃と同じようには見えないのだ。澄み渡っていた輝きが淀んでいる。鮮明だった輝きが霞んでいる。輝きが雲の裏に隠れてしまったみたいに。あるいは――わたしの目が濁ったみたいに。
「旅はもういいかな」
まだ初日なのに、そんな気持ちにさえなってしまう。
そのことが、わたしはどうしようもなく悲しい。
その悲しさで思い出したのは、下を向いて通勤するサラリーマンの姿だった。
「……ああ、そっか。そうだったんだ」
そうして、気づく。どうしてわたしは誰かと一緒ではなく、一人で旅に出たのか。どうしてわざわざスマホを機内モードにして、通信を絶ったのか。
わたしはあの通勤する人たちの流れから抜け出したかったんだ。
日常から、抜け出したかったんだ。
とはいえ。わたしは日常的なこと――たとえば学校や人付き合いが、特別嫌いというわけではない。どちらかといえば人と一緒にいる時間は好きだ。学校に行くのも、勉強は嫌だけれどそれを除けば嫌いじゃない。
だけど、それを何年も何年もやっていると、わたし自身も気づかない間に、だんだんと疲れてくるのだ。その疲れが静かに、どこかのラインを超えたんだと思う。
だから、自然と体が欲したんだ。
一息つきたい。一人にさせてほしい。煩わしいメッセージやらSNSやらから離れたい。
旅に出たい。――日常から離れた、一人旅に。
そうすれば、輝く何かに出会えるような気がした――
「だけど、いざ一人旅に出ても、スマホを触っちゃうし、世界に輝きは戻らないんだよね……」
その事実を前にして、胸の奥から、一つの予感が湧いてくる。
わたしはもう二度と、あの輝きと出会うことはできないかもしれない。
考えるだけで、泣きそうになる。
あの感覚がほしいんだ。あの輝くような感覚を、もう一度味わいたいんだ。
今も目を瞑れば同じ気持ちになれる。けれど、それじゃ足りない。
「わたしの世界を根底から覆して、新しい色に染め直してくれる何かに、あるときふっと出逢ったりしないかなぁ」
考えることに夢中になっていたので、周りへの注意を疎かにしていた。自分があぜ道を歩いているということさえ忘れていた。――突然だった。
わたしは何かにつまずいて、あっ、と前を見た、そのとき――
世界がひっくり返った。
文字通り、上下にぐるりと、若草色の田んぼが、細い畦道が、その脇に生える大きな木が、濃い緑の山が、みんな一斉にひっくり返る。木の枝に止まっていた一羽の鳥がびっくりして飛び立つ。けれど下に青空があるから、頭から逆さになって、下に落ちていくように飛び上がった。風が吹いた。風の匂いがした。わたしは体が透明になって、重さなんてないみたいに、ふわりと風に乗って浮きあがる。頭上を覆う大地の豊かな緑が、きらきらと揺れながら降ってくるようだった。不思議な光景だった。不思議な世界だった。わたしは一瞬たりとも目を離せなかった。息も忘れて見入った。色が踊って、光が弾けるような、鮮烈な世界だった。ひたすらに美しく輝く世界だった。あっという間にわたしはその中に入り込んだ。その一部になった。聴いた。息を吸った。吐いた。全身で、世界をくまなく感じた。
わたしは花びらの舞うようにたゆたって、たゆたって――
「はっ――」
と、我に返った。というより――元の世界に帰ってきた。
見ると、世界はもうひっくり返っていなかった。
―――――――――――
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