第37話 猪との決着
地面を舐めた猪は、怒りを露にして梓を標的に据えた。自動車のエンジン音のように吠え、鼻息荒く梓の剣筋を躱す。猪の体毛は固く、至近距離で猪と攻防を繰り広げる梓の腕や脚が浅い切り傷だらけになっていく。
「くっ……!」
「梓さん!」
「来るなよ、命」
猪の二刀流の剣のように絶え間ない攻撃をギリギリのところでいなしつつ、梓は自分が徐々に追い詰められていることに気付いた。命の張った結界の端に向かって、少しずつ少しずつ、移動させられている。
(獣には思考なんてないと思っていたけど、そういうわけでもないのか?)
致命傷を与えず、軽傷で済まされている。それは猪のあえてであり、梓はその包囲網から逃げる算段をつけられずにいた。
(考えて動くとしたら、厄介この上ない)
舌打ちしたい衝動を抑え、梓はどうやって猪を倒すか思考を巡らせる。しかし明確な解決策を打てないまま、結界の壁際に追い詰められた。
――ブルルッ
猪が鼻を鳴らし、勝利を確信しているように見える。
梓は姿勢を低くし、いつ猪が突っ込んで来てもせめて相打ちに持ち込めるよう剣を握り締めた。こうなれば、結界の壁を蹴って思い切り猪の鼻先に剣を叩き込むしかない。
(いつでも来い)
梓の心の声が聞こえたのか、猪が鼻息荒く突進して来る。梓と猪の距離は五十メートルもなく、十秒以内に勝負は決すると思われた。
「はあっ!」
「梓さん!」
梓の気迫と命の悲鳴は同時だ。
猪の瞳に自分が映っていることを視認出来る距離に身を置き、梓は両断する覚悟で斬撃を放つ。と同時に、猪の背後から何かが風を斬る音を耳にしていた。
ザクッ。二つの音が重なり、猪がけたたましい悲鳴を上げる。隙を突いて猪から離れた梓は、離れた場所で震えながら弓を構える命に軽く手を挙げて礼を言った。
「助かったよ、命。ありがとな」
「――っ。無茶し過ぎ!」
顔を若干青くして、肩で息をする命。その眼力に肩を竦め、梓は「ごめん」と呟く。
「多分、これからも命には怒られそうだな」
「そんなこと言ってる場合? 来るよ」
命の言う通り、猪は鼻先と背中から何か黒い靄のようなものをまき散らしながら梓を睨み付けている。まだ動けるらしく、前足で地面を掻いて怒りを露にした。
「……」
梓と猪は互いの隙を狙うが、そんなものは見付からない。先に痺れを切らしたのは、生死の狭間にいる猪の方だった。
勢いよく地面を蹴り、梓に向かって鋭い牙を振りかざす。
しかし梓も負けず、がら空きとなった猪の腹部に向かって剣を真っ直ぐに突き刺した。ドスンッという重い音がして、梓の目の前で猪は動きを止めた。
「――っ、重」
梓ががくりと膝をつくのも無理はない。梓の剣は、飛び上がった猪の腹を突いた。つまり敵は空中で動きを止めたのだ。
しかし人形によく似た獣である猪は、すぐにその体を消滅させた。跡形もなく消え、梓は息をついて立ち上がる。
「終わった、か」
「梓さん!」
梓が顔を上げると、命が息を切らせて駆けて来た。今にも泣き出しそうな命に、もう一度「ごめん、ありがとう」と伝える。
「命がいてくれたから、倒せた」
「……っ。腕、見せて。怪我してるでしょう?」
命の言う通り、梓の両腕は傷だらけだった。擦り傷切り傷だけではなく、足には大きな傷があり、パンツも靴も赤く濡らしている。
梓は近くの公園まで歩こうとしたが、命二人分の小さな結界を張ってその場に座れと促す。有無を言わせない気迫に、梓は素直にその場に足を投げ出した。
命は早速、持っていたハンカチで血止めをする。それから怪我に手をかざし、巫女の力を使った。
(温かい……)
命の手のひらから溢れてくる力は温かく、優しい。梓は目を閉じ、しばらくその力に身を委ねた。温かな力が痛みを緩和させ、怪我の自己治癒を加速させる。しばらくすると、血は止まって痛みも落ち着いた。
「後は傷周辺をちゃんと洗って、しばらくしたら治るよ」
「命と一緒でよかった。ありがとな」
「わたしもほっとした」
そう言って肩の力を抜いた命に許可され、梓はその場に立ち上がる。パンツや靴は洗った方が良さそうだが、痛みはほぼない。
「そういえば、水の力は使えないんだよね?」
「ああ、名前には入ってるのにな。……っていうか、水の力? 水を操るとかそういうことだよな?」
「そうだよ。力を使いこなせるようになると、美津野木家は水の力、日守は火の力、千影は地の力も使えるようになるんだって。お父さんに聞いたことがあるよ」
「へぇ……」
思いも寄らない情報に、梓は感心するしかない。水の力が使えれば、自分で傷口くらい洗うのになとぼんやり考えた。
梓は軽く屈伸して、動くのに問題ないことを確かめる。それから命を振り返り、一言「帰ろうぜ」と笑う。
「傷を洗うにしても、何処か移動しないとな。どうせだから、七海さんちに行こう。報告も出来るし、一石二鳥だろ」
「もう……。また人形や獣が来たら、わたしが追い返すから」
「頼もしいな」
「本気だからね?」
連れだって歩く梓と命。二人は、自分たちを高所から眺める視線に気付かなかった。見ていた方が気付かせないよう気配を殺していたためだが、視線の主は、組んでいた足を組み替えて頬杖をつく。
「――なかなかやるじゃん」
その少女の傍らには、彼女の三倍はありそうな大きさの狼が控えている。その真っ黒な毛並みを撫で、純真無垢そうな少女は唇の端をわずかに引き上げた。
「もうすぐ会えるよ、梓くん」
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