第28話 慰労会 弐

「はぁ~~……っ」


 桜鳴おうめいは放心していた。


 憧れの人の音はあの頃と変わっていなかった。むしろ、より洗練されたものになっていた。何度も何度も頭の中で影鳳えいほうの笛を再生する。その度に、ほう、と恍惚の表情を浮かべる。あまりの素晴らしさに、その憧れの人が横に立っているのも気が付かなかった。


「そんなによかったですか、私の笛は」

「ええ、とても! ……って、え!? 影鳳様!?」

「どうも、胡影鳳こえいほうです」

「ぞ、存じ上げておりますとも……!」


 桜鳴は深く深くお辞儀をする。影鳳との会話ですらも、皇帝陛下に挨拶した時以来だ。緊張で、手が汗でじっとりと濡れる。

 昼休憩に入ったようで、幕の向こう側がざわざと騒がしくなってきた。


「どこがよかったですか?」

「えっ、いや、あの……ぜ、全部ですっ!」

「全部……」

「はいっ! 影鳳様の笛は、心が震えるんです。最初に聞いたあの日もそうで……」


 笛を知るきっかけになった、一瞬で虜にさせた、あの祭りの日。

 自分も笛を吹けると知って、影鳳のように吹いてみたいと何度も練習した。でも、今日また聞けて、この人を超えるのはおろか、並ぶのさえ無理だと思った。

 どうやったら、あれほどまでに吹けるのだろう。聞きたいところだが、恐れ多くてそう易易とは聞けない。

 葛藤している桜鳴に、影鳳は問い掛ける。


「あの日、とは?」

「10年ほど前に開かれてたお祭りがあったんですが、そこで吹かれていましたよね! それで、その、音に惹かれて……」

「――ああ、懐かしいですね」


 影鳳は納得したように手を叩いていた。

 それから二言三言会話して、影鳳が皇帝に呼ばれたため、幕の向こう側へと潜って行った。


 桜鳴は大きく長い息を吐く。憧れの人と話すどころか、いつから憧れているのかすら言ってしまった。思い返せば、随分と早口で影鳳の笛について語っていたような気もする。


(絶対に、変な人だと思われた……)


 桜鳴が頭を抱えて猛省していると、凌霄りょうしょうが「桜鳴様」と声をかけてきた。見ていたなら愚行を止めてくれてもよかったのに、と勝手に思った。


「なんでしょうか……」

「私たちも、昼餉を食べましょう」


 そう言って手のひらで指し示した先には、すでに膳が運ばれていた。ということは、壇上も昼食を摂っているところだろうか。


 桜鳴は、敷物の上に座り、普段は食べることのない品々に胸を高鳴らしながら、口の中へと運んだ。


 ◇◇◇


 皇族に出される食事はすべて専属の係に毒見させてから配膳される。目の前にあるのは、毒見を済ませているものだから、安全に食べることができる。


 そのはずだった。


(……、なんだ……?)


 漣夜れんやは、ひとつの皿に乗っているものを口にした時に違和感を覚えた。何度も食べたことがあるものなのに、今日のはわずかだが、変な味だと感じた。調味の仕方が違うことを考慮しても、だ。


 皇帝陛下の前で無礼ではあるが、口に入れたものを皿の上に吐き出す。

 毒、という言葉が頭を過る。飲み込んでいないが、もし毒が混入しているのなら、口に入れた時点で成分が口腔内に溶けだしている可能性もある。


(酒……も、まずいか……)


 膳の上の杯に手を伸ばすが、もしこれも毒だったらと、手を引っ込めて、先に飲んでいた水で口を軽く濯ぐ。

 漣夜は横をちらりと見る。こういうことに敏感であろう蒼峻そうしゅんの膳には、すべてに箸を付けた痕があった。


(ということは、俺だけ、か……?)


 配膳された昼餉の献立は全員同じものだ。料理を作っている段階で毒を仕込んだとなると、すべての膳に入っているはずだが、見たところその様子はない。

 つまりは、特定の人物を狙った犯行だということ。


(何のために……いや、今は……)


 毒に致死性がなく、症状も弱いものであることを願うだけだ。


(勘違いなのが一番いいけどな……)



 漣夜のその願いは叶わないものとなった。


 ◇◇◇


 昼休憩も終わりに近づき、自室で食べていた官吏や女人も広場に戻ってきていた。


 桜鳴と凌霄も幕の後ろから壇上の横に立ち、舞が行われていたであろう舞台が見える位置まで移動してきた。蹴鞠には皇帝や皇子たちも参加するから、幕の後ろで待機するより、主が確認できる場所の方がいいらしい。



 壇上から下りてきた皇帝と皇子たちが丸く円になる。皇帝が鞠をぽーんと蹴り上げ、午後の部が始まった。

 鞠を落とさないように、相手が返しやすいところに器用に片足で蹴る。


(ふーん……春燕しゅんえんの言った通りね……)


 全員上手に見えるが、その中でも、蒼峻と漣夜は頭一つ抜けていた。

 天瑞てんずいはこなしている印象で、宇樂うがくは荒々しさが目立つ。宇霖うりんは、蹴鞠以前に、この大勢の人の前に出ることの方が精神にきているのだろう。動きがぎこちなくなっていた。


 見かねてか、皇帝は宇霖に下がるように言い、武官から数名募り、蹴鞠を再開した。

 皇帝も十分お上手ではあるが、やはり蒼峻と漣夜には及ばないだろう。

 蹴鞠ではない、明確に優劣が決まる勝負を直接したら、どちらが勝つのだろうか。


(天才の蒼峻様かな……まあ、漣夜も悪くないだろうけど――ん?)


 いつか来るかもしれない未来に思いを馳せていたら、漣夜が渡ってきた鞠を落とした。

 初めての失敗だ。まだ蒼峻は落としていないというのに。これでは負けたも同然だ。


(ふふっ、あいつも失敗するのね!)


 桜鳴は口元を緩め、後で漣夜をこのことでからかってやろうと画策していた。

 漣夜の悔しがる顔を見るには、どうしたらいいか、といろいろ考えていたら、また鞠を落としていた。二度も失敗した。


(あの漣夜が?)


 不思議に思い遠くにいる漣夜に目を凝らすと、何か苦し気な表情をしていた。

 まるで悪鬼に憑かれていたあの夜のような。


(でも、……ない、よね?)


 悪鬼に憑かれている特徴である黒いもやは一切見えなかった。でも、どう見ても様子がおかしい。そう感じているのは桜鳴だけではなかった。


「……桜鳴様」

「はい」

「漣夜様に、靄は、見えますか?」

「いえ。……やっぱり、なんか変、ですよね?」

「いつもの漣夜様ではありませんね……」


 四六時中漣夜の傍にいる凌霄がそう言うのなら、そうなのだろう。

 皇帝も何か異変を感じて、宇霖に続いて漣夜にも交代を命じていた。漣夜はそれに従い、壇上に戻るために裏側へと向かっていった。

 それを見ていた桜鳴と凌霄は、幕の後ろへと急いだ。



 本来なら皇女の従臣はここで控えているはずだが、皆こっそりと蹴鞠を見に行ったようで、幕の後ろには誰もいなかった。

 そこにふらふらとした足取りの漣夜がやってくる。


「漣夜様! いかがなさいましたか?」


 凌霄が駆け寄り心配そうにそう聞くと、漣夜の虚ろな視線が桜鳴の方へと動く。

 何だ、と思ったのも束の間、桜鳴に覆い被さるように、漣夜はもたれかかった。


「えっ」

「漣夜様!?」


 平均よりも小さい身体の桜鳴にとっては成人男性は鉄の塊のようだった。

 重い、と文句を言おうとしたが、漣夜の身体に触れて驚いたことで、そんなことはどこかへと消えていった。


「りょ、凌霄さん……! 漣夜、すごく、熱いですっ!」

「! 漣夜様を部屋へ運びますので、桜鳴様もついてきてください!」

「は、はいっ」


 凌霄は、漣夜を桜鳴から剥がし、右腕を己の首の後ろに回し、肩を貸すようにして漣夜を部屋まで急いで運んだ。


 ◇◇◇


 昼休憩が終わっても何も変化がないから、勘違いだったのだと思った。


 だが、蹴鞠が始まり、身体を動かして血の巡りがよくなったからなのか、毒が回り始めた。

 最初は軽いめまいだった。これくらいなら最後まで耐えられる。そう思い、蹴鞠を続行した。



 それが失策だった。


 より毒が回り、汗が噴き出しているのに、体感がひどく寒い。発熱していることはすぐに分かった。それも、かなりの高熱を。

 吐き気も催してきたが、幸いなことに、膳にほとんど手を付けなかったからか、腹に溜まっているものがなく、衆人環視の中で吐き出すことはなかった。



 体調がどんどん悪化していく中で、鞠など上手く蹴れるはずもなかった。


 二度目に鞠を落とした時に、皇帝陛下に下がれと命じられた。おそらく、皇帝陛下から見ても顔色が悪そうだったのだろう。


(大人しく、していれば、そのうち、抜ける……はず……)


 壇上に戻ろうと、裏側に回ったところで、凌霄が慌てて駆け寄ってきた。


(なんだ、その、不安そうな目は……)


 ぼんやりとした視界の中で凌霄が口を開いていることは分かったが、何を言っているかは聞き取れなかった。水の中にいるように声が遠くから、かつ不明瞭に聞こえていた。

 視線を凌霄の隣に移す。


 緋色の簪がゆらゆらと揺れる。


(いい、色だ……ああ、よく見ると、桜、か……)



 そこでふっと意識は途絶えた。

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