第21話 甘味
「おはようございまーす」
執務室の扉を開け
「本日はそれほど仕事がありませんので、桜鳴様はお休みで構いませんよ」
「そう、ですか……あ! それじゃあ、凌霄さんの都合のいい時でいいので、勉強見てもらえませんか?」
「――部屋にいられると邪魔だ。気が散る」
机の上に視線を落としたまま、人を邪魔者扱いしてくる
「……いつもいるのに、今さら何言ってんの」
「それに、お前にはなくても凌霄には仕事がある。お前の子守をしている暇などない」
「っ! あんたが決めつけることじゃ――って、ちょっと押さないで! ぎゃっ!」
椅子から立ち上がったと思ったら、漣夜が目の前まで来て肩を掴んでぐいぐいと部屋の外へと押し出される。その勢いで、廊下で尻もちをつく。漣夜の顔をキッと睨みつける。
「痛いんですけど!」
「お前が鈍臭いからだろ」
「そっちが無理やり押してきたからでしょ!」
「邪魔だと言ったのに、出て行こうとしなかったから、俺が出してやったんだろうが」
「……はあ!? 意味分かんな、ちょっと、まだ話して――」
言葉の途中で、漣夜は部屋の中へと戻っていった。わざとらしく大きな音を立てて扉を閉めて。
まったく意味が分からない。どうして強引に追い出されたのか。
(だいたい、あいつ、わたしが部屋にいたところで、必要な時以外いないものみたいな扱いしてるくせに! 何が『気が散る』よ!)
どれだけ考えても、今どうしてこうなっているのかの答えは出てこなかった。
桜鳴はどうせ部屋に入れてもらえないだろうと諦め、怒りで沸騰した頭を冷やすために、後宮の庭へと笛を吹きに向かった。
漣夜はふぅと息を吐きながら椅子に座る。この後使う書簡を持ってきた凌霄がおずおずと口を開く。
「……何も、あそこまでしなくてもよかったのでは?」
「別に。邪魔には変わりないからな」
「よい皇帝になるには、よい奏祓師が必要不可欠です。それに、彼女に生を握られているんですから、嫌われるのは得策ではないかと……」
「自分を一番信用しろとあの時言ったのは、お前だ。凌霄」
凌霄は漣夜の言葉に一瞬返答に困ったが、すぐに漣夜の目を見据えて言う。
「桜鳴様は裏があるような御方ではありませんよ。この数か月で、漣夜様も理解されているのでは?」
「……まだ
漣夜は凌霄から目を逸らし、書簡へと視線を移し、仕事へと取り掛かり始めた。
◇◇◇
後宮で一番広い庭へと足早に向かう。早く笛が吹きたいのと、苛立ちからどんどんと速度があがる。すれ違う女官や后妃が怪訝そうに見てくるが、気にもならないくらいあの男の言動で頭がいっぱいだった。
(ずっと、そうっ! ほんと、いらいらするっ!)
どしんどしんと足音が響きそうなくらい強く踏み込んで歩いていると、聞き覚えのある声に呼ばれ、足を止めた。
「あら、お嬢さんやん」
振り返ると、そこには
「何しとん?」
「……庭で、笛吹こうかと思いまして」
「今日お仕事お休みなん?」
「それが――」
先ほどあったことを説明すると、頷きながら聞いていた沐陽が「せや!」と何かを思いついたように手を叩いた。
「僕も読み書き教えられるから、うちの宮、こぉへん?」
「え、でも……」
あまり他の皇子の宮に不用意に近づくなと言われたことが脳裏を過る。また何か起こしてしまったら。そう一瞬考えたが、邪魔だと言ってきた男の忠告など聞かなくてもいいのではないだろうか。
それに、相手はよく知った沐陽だ。わざわざ宮に誘うくらいなら、悪いようにはされないだろう。
少しの良心の呵責に行くかどうか悩んでいたが、沐陽の一言で行く方に針が振り切った。
「ついでに、笛も練習しよかぁ」
「! いいんですか?」
「もちろん。ほな、いこかぁ」
すたすたと歩いていく沐陽の後ろをうきうきとついていく。怒っていたことなんて、頭からすっぽりと抜けて。
「わっ……!」
「ごめんなさい、宇霖様。驚かせてしまいましたね……」
できるだけ優しく話しかけると、宇霖は机から目までをひょっこりと覗かせて、こちらを窺う。まるで小動物のようで、庇護欲がくすぐられる。
「坊ちゃん、いきなり連れてきてすんません。お嬢さんに読み書き教えたいんです」
事情を説明する沐陽に、宇霖は声を震わせながら抗議する。
「ぼ、沐陽の部屋でやってよ……!」
「坊ちゃんの仕事もせなあかんし……あとで、とっておき、あげますんで許してくれませんか?」
沐陽の言葉を聞いた瞬間に、宇霖の瞳がきらりと光る。それを見ていた沐陽は、得意気な表情をしていた。
「とっておき、って、あれ……? いつものじゃなくて?」
「特別な時にしか出さへん、とっておきです」
「そ、それなら、うん、少しの間なら……」
『とっておき』とやらが何かは分からないが、沐陽の提示した条件に譲歩した宇霖は、机の下から出てきて椅子に座り直した。
二人の謎の会話に立ちすくんでいたことに気付いた沐陽が長椅子に座るように促す。
「ほな、始ましょか。お嬢さんは、どの程度分かるん?」
「まだ子ども向けの書物が読めるくらい、ですかね……書くのも苦手で……」
改めて口にすると情けなくなる。
この国の、特に女性の識字率はそう高くはない。だから、気に病むようなことではないが、皇族の傍にいると、女官はさておき、ほとんどの者は読み書きが出来て当たり前だ。そんな中で、読解できないから凌霄に読んでもらう日々。学がない自分が嫌になるのは不思議ではない。
項垂れる桜鳴を馬鹿にすることなく、沐陽は書物がたくさん並んでいる棚へと歩いていき、一冊を手に取る。
「ふんふん……ほな、今日はこれ、書き写してみよかぁ」
「書き写しですか……」
「写本するとなぁ、なんとなく書いといても、結構頭に入るもんやし、読むのも書くのもいっぺんにやれるからなぁ」
差し出された書物をぱらぱらと捲る。流し見したところ、それほど内容は難しくなさそうだった。
「途中で分からん単語とか難しい単語あったら、僕に聞いてなぁ」
卓に頬杖をつきながら、にっこりと笑って言った。
風のように掴めなくて、どこか胡散臭さがある人だと思っていたが、それを感じさせないほどに親切な沐陽に少し驚きつつも、勉強に取り掛かった。
書物をぺらぺらと捲る音が部屋に反響する。どうやら宇霖も何かを読んでいるようだった。
必死に紙に書き写す桜鳴を見ていた沐陽の声が静寂を破った。
「懐かしいなぁ。坊ちゃんもこないやってたなぁ」
「……奏祓師って、そういう仕事もあるんですか?」
「ちゃうちゃう。僕なぁ、奏祓師やけど、従臣でもあんねん。知っての通り、坊ちゃん内気やから、他の人受け付けんくてなぁ」
「沐陽……っ!」
はは、と、何かを思い出したように笑いながら言う沐陽に、宇霖は持っていた書物を机の上に落とす。
恥ずかしそうに、だけど、不快というわけではなさそうな宇霖を見つめる。
「確かに、よく心を許しているというか……懐いているというか……」
「僕も坊ちゃんも、お互いが唯一無二の存在やねん。主従、ともまた違う、魂で繋がっとる、言うんかなぁ」
ただ長く一緒におるだけかもしれんけど、と付け加える沐陽は、優しく微笑んで宇霖の方を眺めていた。
一冊書き写し終わり、笛の練習に入る前に休憩をとることになった。お茶の準備をしている沐陽の動きを、宇霖はそわそわと待ち遠しそうに目で追っていた。沐陽の入れるお茶は特別美味しいのだろうか。
不思議に思っていると、卓にお茶と、何かが乗った食器を差し出した。
小さく、濃い黄色で花の形をした、おそらく食べ物だろうか。
「これは……?」
「とっておき、や。国の南方の端っこのある地域でだけ作っとる、あっまーいお菓子」
「お菓子、ですか」
「せや。
沐陽の説明を聞きながら、そのお菓子をまじまじと見る。どういう味なんだろうか。この濃い黄色は何で出来ているんだろうか。いろいろと想像を膨らませていると、宇霖が音を立てて椅子から立ち上がった。思わずびくりとする。
「沐陽っ! もう、食べてもいい?」
あの内気で、声を震わせていた宇霖とは思えない様子に目を丸くする。
よく知らない人物を部屋に滞在させてもいいとなるほどの代物なのだろうか。この『とっておき』とやらは。
「ええですよ、坊ちゃん。座ってからやで」
「やった! いただきます!」
宇霖がそのお菓子を口にすると、至上の幸福かのような表情を見せた。いつもは困るようだった眉尻が、今は、幸せでしかたないといったように下がっていた。
その様子を見ていた桜鳴は、唾をごくりと飲み込む。そんなに美味しいものなのか。
「お嬢さんも、どうぞ」
沐陽に促され、胸を期待感で高鳴らせながら、口に運ぶ。
ねっとりとした柔らかい食感。舌の上でとろけ、濃厚な甘さが口の中いっぱいに広がる。頬がぽとりと落ちそうになるくらい美味しい。いつもとは違う宇霖の様子にも頷ける。
「……これ、美味しいですね!」
「でしょ!」
宇霖は興奮気味に机から身を乗り出していた。驚いていたのが分かったのか、「ぁっ」と顔を赤くして椅子に座った。
沐陽はくすくすと笑っていた。
「坊ちゃんな、甘いものが大好きやねん。僕はそんなでもないから、一緒に食べられる人見つけて嬉しいんやろなぁ」
「……それなら、宇霖様さえよければ、またこうして一緒に食べませんか?」
「ぇ、……あ、えっと……っ」
「あっでも、まだわたしの前だと緊張しますよね……」
いい提案だと思ったが、宇霖は内気な皇子だ。沐陽しか受け付けない彼が、まだ数回しか会っていない人間と食事をするなど、苦痛でしかないだろう。
残念だが、今回は諦めようとした。宇霖が大きな声で「あのっ!」と発したことで、その思考は遮られた。
「ぁ、う、……そ、んなこと、ない、ですっ。ぼくも、一緒に食べたい……!」
「本当ですか? やった、嬉しいです! わたしのことは、そうだなぁ……犬とでも思ってください」
「……犬?」
宇霖と沐陽の困惑したような声が重なる。
「よく知らない人間よりは怖くないでしょう? 漣夜皇子に、犬のようにきゃんきゃんうるさいとか言われるんで」
「漣夜兄上が……?」
こてんと首を傾げながら、不思議そうに言う宇霖に、桜鳴は自分の言葉を思い返した。
「あ、しまった」
あの男は外面だけはいいから、きっと他の皇子や、その関係者は知らなかったのだろう。『しまった』は、その前の言葉を決定付けてしまうには十分だ。
つまりは、口を滑らした。
「わはは! お嬢さんやっぱりおもろいわぁ。漣夜様、そんなん言うんやなぁ」
「あの、その……宇霖様も沐陽さんも、今聞いたこと忘れてください……漣夜に知られたら、絶対怒られるんで……」
大きく笑う沐陽の横で、宇霖も小さくふふ、と笑った。
秘密のお茶会は、これからも定期的に開かれることとなった。
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