第18話 来訪
「
「はーい!」
「えっと……あった!」
数種類置かれてある墨から
(というか、こういうのとか使った物の片付けとかしかしてないんだけどね……)
凌霄が有能で大抵のことは出来てしまうというのもあるが、読み書きもまともに出来ない人間に任せられる仕事がそうないから、というのが大きいだろう。
自嘲気味に笑いながら歩いている桜鳴を、誰かが後ろから呼び止めた。どこかで聞いた声だ。つい最近聞いた、軽い口調。
「お嬢さん、おったぁ。助かるわぁ」
「ぼ、
にへらと笑う沐陽に驚いていると、彼の後ろから小さい男の子がおそるおそるひょっこりと顔を出しているのが見えた。つやつやとした黒髪をまるで馬の尻尾のように結んでいて、七三に分かれた前髪から青磁のような色の瞳を潤ませていた。
誰だろう、と桜鳴が覗き込むと、慌てて顔を引っ込めた。
「坊ちゃん、挨拶せんと」
「で、でも……」
「優しいお嬢さんやから、大丈夫やって」
「む、むりだよぉ……」
どうにか桜鳴の前に出させようとするが、その男の子はしっかりと沐陽にしがみついているようで、なかなか姿を完全には現わさなかった。
その様子を、横を通り過ぎていく人々が何事かとじろじろと見てくる。好奇心ならまだいいが、迷惑そうにまたあの奏祓師が何かしているという視線に、心がざわついた。
「、あの! よければ、部屋で落ち着いて話しませんか? こんな道端だと、その……」
「せやなぁ。そもそも、漣夜皇子の部屋にいこ思うたのに迷ってしもてな」
「……ああ、だから『助かった』だったんですね。案内しますね」
「ありがとうなぁ。坊ちゃん、行きましょ」
坊ちゃん、と呼ばれた男の子は、漣夜の部屋に着くまで、その全身を沐陽に隠れさせたままだった。
桜鳴は、漣夜に報告してからがいいだろうと考え、二人を一旦部屋の外に待機させた。
扉を開け、目的だった墨をいつも置いてある場所に置こうとすると、凌霄と話していた漣夜が会話の合間に「遅い」と小言を言ってくる。今回は確かに遅かった。だが、それには理由がある。
「漣夜に会いに来たって人がいて、途中で捕まってたの! しかたないでしょ!」
「俺に? 誰だ。そんな予定聞いてないぞ」
漣夜が凌霄の方を見遣ると、凌霄は自分も存ぜぬといったように首を左右に振った。二人の纏う空気が少し張り詰める。
「えっと、沐陽さんと……なんか、こうやって髪結ってる小さい男の子で……」
「どうも、僕ですぅ。それと、坊ちゃんです」
「そうそう、『坊ちゃん』って呼んでて――って、え!?」
部屋の外で待っていたはずの沐陽と少年がいつの間にか中に入っていた。桜鳴は驚いて声を上げる。漣夜と凌霄は、はあと安堵とも煩わしいともとれる息をついた。
「漣夜皇子、ご無沙汰しとります。……ほら、坊ちゃん」
「……、……お、お久しぶり、です。漣夜兄上」
「久しぶりだな。――
観念したように沐陽の後ろから出てきた少年は、漣夜のことを『兄上』と言った。漣夜の弟、つまり、この少年も皇子だということ。桜鳴は、この部屋に来るまでに無礼なことをしていないか思い出していた。
(だ、大丈夫……皇子なら、皇子って名札つけといてよ……!)
心の中で無理な要望をしている横で、三人の会話は続く。
「宇霖が会いたいって言ったのか?」
「い、いえっ! ぼくじゃなくて、沐陽が……っ!」
「
「……次からは約束を取り付けてから来てくれれば、それでいい」
非礼を詫びる沐陽に、漣夜は片手を軽くあげて気にしてないと示す。沐陽は「恐れいります」と再度頭を下げた。
残虐非道と民に思われている男を目の前に、へらりとした笑顔を崩さない沐陽に感心していると、隣にいた凌霄が慌てて小声で名前を呼んでいた。
「桜鳴様!」
「へ? あ、な、なんです、か――」
顔を上げると、凌霄だけでなく、他の三人の視線も桜鳴に突き刺さっていた。何もやっていない、はずだが、この状況は何かをやってしまったとしか考えられない。
「え、えっと……?」
全員から見つめられているその理由が分からず、とぼけた顔をすると、漣夜は呆れたように大きく溜め息をついた。後から、また嫌味を言われるやつだ。
「話を聞いていなかったのか? 宇霖に挨拶をしろ」
「ああ! なんだ、そんなことか! よかった、わたしまた何かしちゃったかと……」
何か言いたげな漣夜の視線を無視して、宇霖の方へと向き直る。皇子だから跪いた方がいいだろうか。桜鳴はゆっくりと屈み、できる最大限の礼儀をもって自己紹介をした。
「漣夜皇子の奏祓師、楊桜鳴と申します。お目にかかれて、光栄です」
「そ、そんな、ぼくになんか……」
「坊ちゃんも挨拶せんと」
「ぁ、え、えっと……第五皇子の、蔡、宇霖、です。よ、よろしくお願い、しますっ」
言葉を詰まらせながら、もじもじと恥ずかしそうに話す宇霖に、庇護欲をかきたてられる。こんな内気で、人とあまり上手く話せないような子が皇子なんて重荷を背負っていけるのだろうか。
慈しむように見つめていると、宇霖はそれに耐えられなかったのか、また沐陽の後ろに隠れてしまった。
「よくできました、坊ちゃん」
「うぅ……っ」
「ほな、挨拶もできたことやし、僕らはこれで失礼させていただきます。今後ともどうか」
よろしゅう、と桜鳴の方を見ながら付け加え、部屋を去って行った。
昨日彼にされたことが脳裏を過り、思わず頬を手で押さえる。どういう意図からの行動だったのだろうか。風のようで掴みどころがない沐陽を苦手とする凌霄の気持ちが少し分かった気がした。
ようやく終わった予定外の出来事に、ふぅと一息ついていると、漣夜のいつもよりも低い声が静かになった空間に響いた。
「おい」
「な、なに」
「知ってる奴だとしても油断するな。ぼーっとせず話を聞け。同じことを何回言わせる気だ?」
「分かってるけど……!」
昨日知り合ったばかりの沐陽を無視するのは気が引けたし、話を聞いてなかったのは、その、自分に関係がないと思ったからで。
そんな言い訳をしても余計に怒らせるだけだ。
言い淀む桜鳴を、漣夜は冷たい目で見る。
「分かってるのにできないのは、馬鹿を通り越して無能だ。無能は俺の元にいらない」
「できないわけじゃないし……」
「なら、やれ。……はあ、少しは学習しろ」
眉頭をつまみ、呆れたように言い放つ。
桜鳴は不服そうに「はい」と小さく返事をした。
◇◇◇
その夜、嵐のような昼間の出来事もあり、桜鳴はいつもよりも早く眠りについていた。夢も見ないほどに熟睡していると、それを覚醒させようとする誰かの声が鼓膜を通って頭の中で響く。
「――様、桜鳴様!」
「ふぇ? んぁ、りょうしょう、さん……? なに、?」
「お休みのところ申し訳ありません。至急、来ていただきたいのですが」
行灯を持った凌霄の顔が徐々に鮮明になっていく。ひどく慌てている様子だった。こんな夜半過ぎに無理やり起こすくらいだ。何か一大事なのかもしれない。
がばっと勢いよく起き、薄手の衣を羽織り、すぐに行けると意思を示す。
「笛を、持ってください」
「笛……」
笛が必要になるのは悪鬼を祓わなければいけない時。心臓がどくりと鳴る。箱から取り出し、生身のまま手に持ち、凌霄の後をついていった。
「こちらです」
「……」
到着した先は、漣夜の部屋だった。嫌な予感というのはどうしてこうも当たるものだろうか。
凌霄が扉を開けると、寝台で寝ている漣夜が視界に入った。
(息、は、さすがにしてるよね……)
凌霄の持っている行灯が、暗闇の部屋を照らしていく。そこには昼よりも、明らかに顔色が悪く、どこか辛そうな漣夜がいた。
それから、照らされているはずの彼の周りは暗いままだった。
「夕刻、桜鳴様が下がられた後、目まいを起こして倒れられました。大丈夫だと漣夜様は仰ったのですが、先ほどから黒い靄が見え……おそらく悪鬼かと」
「……そうですね。紫陽で見たのと、同じくらい……」
だが、紫陽で見た黒い靄よりも、どこか整っているようにも見えた。綺麗に並んでいる、とでも言うべきだろうか。
悪鬼にはたくさんの
まじまじと見ていると、漣夜の瞼がゆっくりと開いた。
「、あ」
「はやく……しろ、ばか」
「っはいはい、分かってますよ!」
「さわぐな……あたまに、ひびく」
弱弱しく嫌味を言う漣夜が珍しくて、少し、ほんの少しだけ、このまましばらく過ごしてほしいと思ったのは誰にも言わないでおこう。
笛を構えて、音を奏でる。曲が進むごとに、黒い靄が晴れていく。苦し気な表情が、だんだんと力が抜けていき和らいでいく。
吹き終わる頃には、悪鬼は完全にいなくなっていた。
「……、もう休むから、下がっていい」
「ちょっ、お礼も――」
「桜鳴様! 行きますよ!」
祓って『あげた』とは言わないが、お礼の一言でもくれてもいいのに。
そう抗議しようとしたら、凌霄に引き摺られるかたちで漣夜の部屋から退出した。
「一応病人ですから、休ませてあげてください」
「……そうでした」
「夜中にわざわざありがとうございました。翌朝には快復していると思いますので」
「そうだといいですね……ふわぁ」
「桜鳴様もお休みになってください」
急を要する事態に緊張していた心身が緩み、眠気が襲ってきた。
部屋まで送ってくれた凌霄に「おやすみなさい」と告げ、寝台へと倒れるように寝転がると、すぐに落ちていくように眠りについた。
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