第17話 勉強

「じゃあ、行ってきまーす!」

「いってらっしゃいませ。時間までにはお戻りになられるように」

「はーい!」


 桜鳴おうめいは元気よく凌霄りょうしょうに手を振って、執務室を出て行った。


 今日は特にやらなければいけないことも用事もないため、決まった時間までは自由にしていていいと言われていた。

 ちょうどいいと思い、蒼峻そうしゅんの奏祓師である玖雪くせつにまた教えてほしいとお願いしたら、快諾してくれた。蒼峻の宮に赴いてもよかったが、あまり行き来するなと漣夜れんやに言われたから、しかたなく共用の庭で勉強会をすることになった。



 庭には非番なのか女官がちらほらといた。きょろきょろと周りを見回して目当ての人物を探す。


「あ!」


 隅の方の茂みで、玖雪がちょこんと地面に直接座っているのを見つけた。玖雪も桜鳴に気が付いたようで、控えめに手を振った。


「玖雪さん! 今日はありがとうございます!」

「いえいえ、そんな……僕の方も学べることがたくさんあるので、助かります」


 元々下がり気味の眉をより下げて、柔らかく笑う。

 少し内気で、特に蒼峻の前だと自分の意思を口に出すのが難しいと彼は言うが、笛に関する知識は膨大で、その教え方も分かりやすい。現状、笛について聞ける人が彼しかいないので、助かっているのはこちらだ。


「では、始めましょうか」

「はい! お願いします!」


 肩から下げた袋から笛を取り出し、玖雪の隣に座り込んだ。


 ◇◇◇


「それで――あっ」

「? どうかしましたか?」

「そろそろ、僕、戻らないと……」

「え、もうそんな経ちました!?」


 笛について教えてほしいと言いに行った時、そのあとに予定があるからそれまでなら、と言われたが、十分な時間だったため、ぜひにとお願いした。いろいろと聞けるだけの時間ではあったが、それでもまだ聞きたいことはたくさんある。


「僕も夢中になってて、あっという間でした。今日はこれで終わりですが……よければ、またしませんか?」

「いいんですかっ! ぜひお願いします!」


 座ったまま頭をぶん、と下げる桜鳴に、玖雪はそこまでしなくてもというふうに若干困惑した様子だった。


 広げたものをささっと片付け、玖雪は蒼峻の宮へと帰って行った。桜鳴も途中まで一緒に戻るかと聞かれたが、もう少し練習したいから、とその場に残って、笛を吹いていた。

 どのような光景が見たいか想像しながら、曲を奏でる。基礎的なことはほぼすべて教わったが、それをどう活かすか、応用にはまだついていけてなかった。


「うーん……こういう時の組み立て方は……」


 頭を悩ませていた桜鳴は、近づいてくる人に気付くことができなかった。


 突然聞こえた自分のではない笛の音に驚いて、音の鳴る方に振り向く。

 そこには、糸のように細い目をした男性が立っていた。蒼峻よりも年上に見える。30代ほどだろうか。その手には笛がしっかりと握られていた。


「ありゃ、見たことない顔のお嬢さんや」

「だ、誰、……ですか」


 口を開いてから、天瑞てんずいとの出会いを思い出していた。

 目の前にいる彼はどう見ても奏祓師に違いないだろうが、もし、高貴な人だったら、天瑞のように優しい人でなかったら。そう考えて、慌てて言葉を取り繕った。


「ああ、悪い人ではないですよぉ」


 男性は緩い口調でそう言うと、桜鳴の前に跪いた。


「はじめまして。蔡宇霖さいうりん第五皇子の奏祓師をしとります、劉沐陽りゅうぼくよういいます。以後お見知りおきを」


 男性――劉沐陽は、細い目をさらに細めた。

 崩していた足を正し、自らも挨拶を返す。


「失礼しました! わたしは、漣夜、様の奏祓師で、楊桜鳴と申します。初めまして!」

「わはは、元気でよろしいなぁ」


 うんうんと首を何度も上下に動かす沐陽に、またやってしまったと反省する。

 感情が昂ったり、慌てたりすると、すぐ声の大きさの調節ができなくなってしまう。先日も皇后に笑われたばかりだ。萎縮する桜鳴を知ってか知らずか、「そういえば」と沐陽は言葉を続けた。


「お嬢さんの音色、なんや、こう……すうっと胸に入ってきて、気持ちよかったなぁ」

「そ、そんなことないです……」

「んー……でも、最後は変な感じ。迷っとるいうか」

「! そこまで分かるんですか?」

「歴は無駄に長いからなぁ。どういう音が作りたかったん?」


 沐陽は一度立ち上がり、桜鳴の隣へと座り込む。

 そこはかとなく怪しい雰囲気があるが、玖雪以外からも笛のことを聞けるいい機会だ。思い描いていた光景を伝えると、沐陽は目をぱちくりとさせていた。


「……いつもそんなに見えて吹いとる?」

「はい。もしかして、おかしいですか?」

「いいや、逆や。そこまで考えたこと一度もないわ」


 あっはっは、と調子よく笑い、「すごいなぁ」と肩をぱんぱんと軽く叩かれる。持っていた笛をぎゅっと握りしめる。自分がそう吹いてみたいというのもあるが、それ以上に――。


「笛の音が好きで、いろいろな顔を見せてくれるから、わたしもそれに応えたくて……」

「……はは、分かる分かる。いいよなぁ、この音色」


 沐陽はどこか懐かしむように自分の笛を撫でた。ころころと表情が変わって面白い人だ。最初に抱いていた怪しさはどこかへと消えていった。

 今度は何かを考えているような顔をしていると思ったら、笛を構え始めた。


「そやなぁ……その光景なら、こういうのはどうやろか」


 沐陽の笛の音が庭に響きわたる。

 笛本来の綺麗な澄んだ音色が気持ちよく突き抜ける。でも、それだけではなかった。


(な、に……あの指……あんなに動くもんなの!?)


 憧れの影鳳えいほうほど惹かれるというわけではないが、沐陽の演奏は技が光るものだった。

 話すとあんなに軽い調子なのに、音階を決める指の動きが精密で、それでいて桜鳴には到底できないほどの速さで。彼の手元に釘付けだった。


「、ふぅ……どうやった?」


 吹き終わった沐陽がそう言うと同時に、桜鳴は大きな拍手を送る。


「す、すごいです!」

「ほんまぁ? ありがとう」

「あ、あのっ、あそこのっ! えっと――あ……上手く吹けない……」

「そこはなぁ、――こう。ちょっと簡単にするなら……」


 まだ技術が足りない桜鳴でもできるような指の運びを考えてくれた。沐陽と同じ吹き方をしたいが、今はこの簡易版を練習して正確に吹けるようになろう。教えてもらった動きを何度も頭の中で繰り返し、忘れないようにした。



 しばらくの間、沐陽は笛のこと、とりわけその超絶技巧を披露してくれていた。

 桜鳴は出されるすべてに「すごい!」と曇りなき眼で褒めるから、沐陽はそれに気をよくし、桜鳴のことを気に入り始めた。

 沐陽にとっては、1教えると10返ってくるのがなにより面白かった。


「――これとか、どうですか!」

「おお、いいやん。目の前に浮かぶわぁ」


 音色はまだ粗削りだが、その表現力が随一だった。音に桜鳴の思う情景がのっていて、聞いているだけなのにそれが鮮明に映し出される。

 沐陽がその唯一無二の演奏に感心していたら、後ろから男性の声が降り注いだ。


「こんなところにいらっしゃったんですね、桜鳴さ――貴方、なんで桜鳴様と一緒に……」

「おお、凌霄やないか。久々に見た気ぃするわ」


 歩み寄り話しかけてきたのは凌霄だった。

 桜鳴の隣にいる沐陽を見て、凌霄の表情が少し引きつる。それとは対照的に、沐陽は嬉しそうに手を上げて挨拶をしていた。


(……知り合い、かな?)


 奏祓師だからもちろん知ってはいるだろうが、それだけではない空気が二人の間に流れていた。二人がどのような関係なのか気にはなるが、割って入るほどではなく、その会話を傍観していた。

 だが、それはすぐに終わることになる。


「今なぁ、お嬢さんに笛のこと教えとったんや。いやぁ、この娘おもろいわ。気に入った」


 隣に座っていた沐陽に引き寄せられ、抱き締められたからだ。突然の出来事に思考は停止し、凌霄の顔は先ほど以上に引きつった。


「……桜鳴様はまだ15歳ですよ。貴方の半分以下です。子どもに手を出すんですか」

「はは、凌霄は相変わらずやなぁ。そういうんやないって。音の表現は王宮ここで頭抜けとると思うわ」


 真剣な表情で褒められ、気恥ずかしくなり、沐陽の腕からどうにか離れようとする。頭上から「ああ、でも」と聞こえ何かと見上げると、顔がどんどんと近づいてきて、頬に沐陽の唇が押し当てられた。


「かわいいお嬢さんやとは思うわ。さすがに反応はせんやろけど」


 反応って何のことだろうかということ以外、何も考えられなくなった。凌霄はどこか苛立った表情で、陽気に笑う沐陽から桜鳴を強引に引き剥がした。


「漣夜様がお呼びです。行きますよ」

「え、漣夜が? まだ休憩のはずなのに……」

「残念。また会いましょ、お嬢さん」


 二人が宮に帰るよりも先に、ひらひらと手を振りながら沐陽はどこかへと消えていった。




 一連の出来事にぼーっとしながら、凌霄の後をついて歩いていたら、彼がくるりと振り向き、「すみません」と謝ってきた。何を謝ることがあるのだろうか。沐陽はまだしも、凌霄は何もしていないのに。浮かんだ疑問はすぐに解かれた。


「漣夜様がお呼びだというのは、嘘です。あれから逃れるには、ああ言うしかなさそうだったので……」

「全然いいですよ! ……それよりも、沐陽さんと知り合いなんですか?」

「ええ、まあ……腐れ縁ですよ。私も彼も幼い頃からここにいるので」


 そう言う凌霄の顔は、少しの変化ではあるが、嫌そうにしていた。踏み込んで聞くのはどうかと一瞬考えたが、気になったら止まらないのが桜鳴の性だった。


「……仲悪いんですか?」

「馬が合わない、と言ったら分かりますか? 彼の飄々としたところに昔からよく乱されたものですよ」


 よく見ないと気付かないほどだったのが、誰から見ても分かるほどに忌々しい表情になる。

 普段は冷静で堅実な凌霄に対して、風のようにふらふらしている沐陽。


(そりゃ、相性悪いだろうなぁ)


 桜鳴は庭でのやり取りを思い出しながら、小さくはは、と笑った。同時に沐陽の演奏も脳裏を過った。


「あ、でも沐陽さん教え方も上手かったし、技術もすごかったです! あの指の動きなかなかできませんよ!」

「やればできる人ですからね、彼は。普段もそうしていればいいものの……」


 沐陽を庇うわけではないが、見たまま感じたままを伝えたら、返ってきたのは漣夜のような一言多い嫌味だった。凌霄の口からそれが出てきたのが、いやにおかしくて思わず噴き出してしまう。


「……なんですか」

「ふ、っなんでもないです! ……あ、そうだ」

「やはり何かあるんですか」

「あ、いや、関係はないんですけど、この後時間空いてますか? 空いてたら、読み書きの勉強の続きをしたくて……」


 紫陽しようから帰ってきた頃から、手が空いた時に凌霄から読み書きを教わっていた。漣夜は、「別にお前にそういう仕事を振らないから必要ない」とか言っていたけど、その時の表情が明らかに人を馬鹿にしたものだったので、あの男を見返したくて勉強をし始めた。


 まだ全然習得できていないが、簡単な単語なら読めるようにはなった。

 笛のこともそうだが、知識が増えるのがこんなに楽しいものだなんて、初めて知った。だから、早く学びたくてうずうずしている。

 それが凌霄にも伝わったようで、はあと息を吐いた後、「しかたがないですね」とひとつ零してから続けた。


「すぐに執務に戻りますが、漣夜様の申し付けがない間に見ましょうか」

「やった! ありがとうございます!」

「では、早く戻りましょうか」

「はい!」


 タッタッと凌霄の横に駆けていき、執務室まで二人で並んで帰った。



 翌日、凌霄はまた眉をひそめることになるのをまだ誰も知らない。

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