第15話 見舞い
療養し始めてから10日ほどが経った。
最初は、痛み止めがないと夜も寝られないくらいだったが、3日目くらいにはそれほどの痛みはなくなった。
つまりは、早く動きたくて仕方がなかった。
「んー……」
部屋に置いてある姿見に対して横向きになって右の二の腕を見つめた。まだ赤みと腫れは残っているが、傷口は塞がっていた。かさぶたというよりは、薄く柔らかい膜みたいで、あまり激しく動かすとすぐにでもまた裂けそうだ。
(ほぼ、完治、でいいかな……)
正常な皮膚になるにはもう少しかかりそうだが、塞がっているし、完治と言っても過言ではないはず。
右手を閉じたり開いたりする。医者が、神経は切れていないが、麻痺が出る可能性もあるから、毎日右手の開閉をして確認するように、と言っていた。
今日も、痺れるような感覚はまったくない。
「……うん! 大丈夫!」
棚の上に置いてある箱から笛を取り出す。
完治するまでは余計なことはするなって釘を刺されていたが、これはあくまでも腕が問題なく動くかの確認である。
笛を構える時に怪我をした部分の皮膚が引きつるが、痛みはない。空気を吸い込んで肺を膨らませる。
「――!」
突き抜けるような高音に聞き惚れる。朝にぴったりの小鳥の囀りのような音色。
(そうだなぁ、今は……)
休むのはもう飽きたから、外を駆け回りたい。青々とした草原なんていいかも。
そんな感情を込めた、少し調子の速い曲を奏でる。指を速く動かしても、痛みや動かしにくさは微塵もない。
吹き終わり口から笛を離し、はあとひとつ溜め息をついた。
(……まだ
憧れの人の音色に、作る曲に、近づきたい。
先日、
また仕事がない時に約束を取り付けて教えてもらおう。
笛を箱の中に戻そうとしたところで、扉を叩く音が鳴った。
(、あっ、怒られるかも)
完治するまで大人しくしていろと言われたのに、笛を吹いていたら怒られて当然かもしれない。でも、腕が問題なく動くかどうかの確認をしただけだ。
(よし、言い訳の準備はできてる。どこからでもかかってこい!)
意気込んで「どうぞ」と声をかけると、予想もしていなかった人物がそこに立っていた。
そもそも、
「怪我をしたと聞いて見舞いに来たが、入ってもいいだろうか」
「は、はい! 狭いところですが、それでもよろしければ! ――蒼峻様」
訪ねてきたのは、蒼峻と、その奏祓師の玖雪だった。
部屋の中央にある小さい卓に蒼峻と向き合うように座っていた。玖雪は蒼峻の斜め後ろに控えるように立っている。
見舞いが来るという予定は一切聞いていなかったので、おそらく蒼峻がその威光を使って強引に押し入ったのだろう。漣夜と凌霄は皇宮の方にいる時間だから、話が伝わるにはまだ掛かりそうだ。
「……」
「……」
部屋に沈黙が流れる。
用があって来たのは蒼峻の方なのだから、そちらから何か話し始めてほしい。桜鳴の顔にはそう書いてあった。
「――怪我の具合はどうだ」
「あ、えっと、だ、大丈夫です! もうほとんど治りました!」
「そのようだな。先ほどの笛は見事だった」
「うぇ!? 聞かれていたんですか!?」
「ああ」
吹き終わって、そう経たずに扉が叩かれたから、途中から聞いていても不思議ではない。それよりも、あんな未熟な曲を何でもできる文武両道の第一皇子に聞かれていたことの方が問題だ。
以前教えてもらった時に、玖雪の笛も聞かせてもらったが、さすが蒼峻の奏祓師と言うべきか、儚げな音色なのに力強いものから優しいものまで、実に多彩な曲を奏でていた。
良い音を聞きなれている蒼峻にとっては、聞き苦しかっただろうに。
「あのような、拙い曲を聞かせてしまい、すみません」
「『見事だった』と言っている。何を謝ることがある」
「下手だったので……」
「確かに技術は劣っているが、芯があり、聞かせる力がある」
目上の、それも皇族が褒めているのに、これ以上卑下するのは失礼に値するものだ。桜鳴は静かに蒼峻が続ける言葉を聞いていた。
「今までは、悪鬼を祓うためだけに音が存在し、あくまで道具としてしか見ていなかったが、桜鳴の音色はまだ聞いていたい。そう思えた」
「よく分かりませんが、とりあえず、ありがとうございます……?」
ここまで褒められると全身がむず痒くなる。
(罵られてばっかりだし……馬鹿とか、猿とか――いや、あの男がおかしいのか)
同じくらい一緒にいる凌霄にはここまでの苦言を呈されたことがないから、きっと漣夜の思考が狂っているに違いない。
黙っていれば、目の前にいる蒼峻にも引けを取らない顔立ちをしているというのに、口を開けば暴言を吐く。一気に天と地の差だ。
「また今度聞かせてもらいに来よう」
「は、はい。機会があれば……」
蒼峻は椅子から立ち上がり玖雪と連れだって部屋から出ようとした。
ちょうどその時、扉が勢いよく開かれる。一切の遠慮がないこの行動はあの男しかいない。
「はぁ、ふっ……。蒼峻兄上、こんなところで何をしているんですか」
走ってここまで来たのか、漣夜は部屋の入口で息を切らしながら言った。
「約束をせずに訪ねたこと、申し訳ない。奏祓師が怪我をしたと聞いて、見舞いに来ただけだ」
「……兄上がご心配なさるようなことではありませんよ」
「もう治っているようだな。良い笛の音もさせていた」
「笛……?」
漣夜の少し吊り上がった深い緋色の瞳がぎろりと桜鳴を睨む。後で嫌味を言われるのが確定した瞬間だ。
それから二言三言交わした後、蒼峻は自らの宮へと帰って行った。部屋には、桜鳴と漣夜だけが残った。
(漣夜も仕事に戻ってほしいんだけど……)
怒られる前に。
願いはむなしく、漣夜は椅子にどかりと腰を落とした。こちらに向かって顎をくいっと動かし、椅子に座るように促す。
(……言うことを聞いた方が早そう)
その無言の命に従って座ると、漣夜は大きく長い溜め息を吐いた。
「……俺が今何を言おうとしてるか分かるか」
「お、大人しく休んでおけよ、猿……?」
「まあ、猿には違いないが」
「自分で言っておいてなんだけど、猿じゃない!」
言いそうなことをそのまま言ったが、墓穴を掘ってしまった。悔しそうに慌てる桜鳴を見て、漣夜は口の片隅を上げて馬鹿にしたように笑っていた。
「正解はなんなのよ!」
「大人しく休んでろ、も言いたいことではあるが、それよりも」
「それよりも?」
言葉を一度止めて、また溜め息を吐く。
「……無闇に、他の奴を部屋に入れるな」
「え、や、だって、蒼峻様だよ? 知ってる人だし――」
「余計にだろ。皇位継承権が決まってないと言ったのを忘れたのか? 記憶力もなかったか」
「忘れてないけど!? だとしてもさ、いきなりブスリと刺してくるような人じゃないでしょ、蒼峻様は」
漣夜が迷いなくこの部屋に来たのは、蒼峻が門番に正直に用事を伝えていたからだろう。その用事の相手が死んだとなれば、疑われるのは蒼峻だ。そんな迂闊なことをするような人物とは思えない。
「分からねえから言ってんだろ。皇帝になるためなら、なんでもするかもしれないだろ」
「あんな真面目そうな人が? しないと思うけど……」
「死にたいならそれでいいが、俺の奏祓師はお前しかいないんだから、そういう勝手されると困るんだが?」
「死にたいわけなくない!?」
「は、どうだか。刃物に素手で向かおうとする馬鹿だぞ」
「馬鹿じゃない! 向かったけど!」
それからも平行線の(一方的な)言い争いをしばらく続けて、はあ、と息をついて漣夜は椅子から立ち背を向け、扉の方へと歩いて行った。
やっと帰ってくれる。久しぶりにするこの男の相手は疲れた。
脱力して卓に顔を伏せるが、なかなか扉が閉まる音が聞こえず、不思議に思い顔を上げると、ちょうど扉のところで立ち止まっていた。
まだ何かあるのか。桜鳴はその背中に思わず身構えた。
「……もう痛みはないのか」
「え、あ、うん。ちょっと皮膚が引きつるだけで、痛くは、ない」
「そうか。ならいい」
そう短く零し、一度も振り返ることなく、漣夜は出て行った。
(唯一の存在の奏祓師が使い物にならなくなったら、あれだもんね)
心配をしてくれた、というよりは、己の立場が不利になるのは避けたい、という理由からの問い掛けだろう。あんな性悪が人の心配をしていたら寒気がする。
(ましてや、わたしにするわけないし)
桜鳴はやれやれといった表情で、もうすぐ来る春燕と、彼女が持ってくる昼食を今か今かと待ちわびているのだった。
◇◇◇
あんな笛は初めて聞いた。
玖雪のも悪くはない。悪くはないが、ただ音が鳴っている、それくらいにしか思っていなかった。
そもそも笛の音色、特に高音が昔から耳障りで苦手だった。父上に仕えているこの華嵐帝国一の奏祓師である胡影鳳の音色ですら、聞くのを躊躇うほどだった。
だが、悪鬼を祓う方法がこれしかないと理解していたため、日々耐え、10歳を過ぎる頃には道具と認識できるようになった。
(実に見事だった……)
明確に何が違ったかは分からない。だが、確かに何かは違った。
あれほどまでに微塵も不快感がない笛は聞いたことがなかった。それでいてもっと聞きたいと思わせる。
心が動いたのなど、何年振りだろう。
蒼峻は桜鳴の部屋から自室へと戻る道中、先ほど聞いた音色を頭の中で巡らさせていた。珍しくどこか上の空だったため、後ろから近づいてくる人物に声をかけられるまで気が付かなかった。
「蒼峻」
「! 斯様なところでいかがなさいましたか、――母上」
暮らしている宮からはあまり外に出ることがない皇后が蒼峻の後ろに立っていた。
「己の息子と他愛ない会話くらいしたいものよ」
「私としては嬉しいですが……」
「蒼峻こそ、こんなところで何を?」
皇后は大きく広げた派手な扇を口元に当てながら、辺りをじろじろと見回していた。漣夜の宮から出てくるところを見ていたのだろう。
(母上は、昔から漣夜を毛嫌いしていたからな……)
蒼峻と漣夜は母親が別々、つまり異母兄弟だ。皇族において異母兄弟などそう珍しいことではない。
皇后――
いくら皇帝陛下の息子とは言え、趙家の血が流れていない漣夜を慈しむことはできない。ましてや、自分の息子と次期皇帝を争うような立場にいる人間など。
「漣夜皇子の奏祓師が怪我を負ったと聞き、見舞いに訪ねていました」
「……そう。あの娘が」
「ええ。笛も問題なく吹けているようで、音色も素晴らしいものでした」
「……蒼峻がそのように言うなんて、珍しいわね。私も聞いてみたいものだわ」
皇后はふふ、と微笑み、その場を去って行った。
蒼峻の後ろに控えていた玖雪がはあ、と大きく息を吐く。一言も発していないというのに、何をそんなに疲れることがあるというのか。
蒼峻が戻るぞ、と言うと、玖雪は慌てたように返事をして足早にその背を追った。
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